あの日、二人で流した笹舟が流れ着いた場所

たれねこ

あの日、二人で流した笹舟が流れ着いた場所

「私も自由にどこにでも行けたらいいのにな」


 そう呟いた女の子は川をゆっくりと流れていく笹舟の行方を目で追いかけている。その隣で水面みなもに映る俺の姿は黄色い通学帽子を被っていた。


「ねえ、どうしてこれを私に見せたいと思ったの?」


 女の子は顔を上げて向き直り、体が触れそうな距離で顔を見合わせた。間近で見る顔は控えめに言ってもかわいくて、教室で隣の席から見ている表情より明るく生き生きしているようだった。


「えっと、川に流れる笹舟を思い浮かべる綺麗な名前だと思ってたから」


 女の子はきょとんとした後、今まで見たことがないほど楽しそうに声を上げて笑い始めた。俺はなんで笑っているか分からなかったけど、そんな姿を見れたことがただ嬉しかった。


「ありがとう。そんなこと言われたの初めて。でも、それは私だけじゃないよね」


 女の子が笑みをこぼしながら言うので、自分の名前を心の中で口にする。


佐々川ささがわ波流はる


 言われてみれば、たしかにその通りだった。


「あっ、本当だ」

「だよね。じゃあ、またこうやって二人で笹舟流そうね」


 そんないつでも叶えられそうな約束が嬉しくて、目の前の女の子に負けないくらいの満面の笑みで頷いて見せた。


 ***


 目が覚めると、まだ見慣れない天井が目に入ってきた。大学進学を機に一人暮らしを始めた部屋は、生活感もまだ薄く、匂いもまだ馴染んではいなかった。


「久しぶりにあの子を夢に見たな……」


 俺の隣で笑っていた女の子は、小学校の五年生の時に初めて同じクラスになり、たまたま隣の席になった子だった。

 物静かで本が好きで。思い返してみれば、文学少女で深窓のお嬢様という言葉がピッタリな長い黒髪のよく似合う、大人びていて少し控えめに笑う女の子。

 体育は毎回見学をしていて、授業中にたまに彼女に視線をやるとよく目が合った。そんなときは柔らかく微笑み返してくれたので、俺はいいところを見せようと張り切っていたのを覚えている。

 ただ隣にいるだけで、存在を感じられるだけで楽しくて、嬉しくて、いつまでもこんな時間が続くと思っていた、青くて淡い初恋の記憶。

 たしか、名前は――。


舟入ふないり紗々音ささね


 久しぶりに声に出して呼んだその名前は、やはり川を気持ちよさげに流れていく笹舟を連想させる綺麗で涼やかな響きを感じる。

 勇気を出して誘って、放課後に一度だけ一緒に帰ったあの日のことはよく覚えている。普段は全くといっていいほどアクティブさの欠片のない舟入のテンションが異様に高かったこと、その勢いで川に入ろうとして一生懸命に制止したこと。全てが懐かしい遠い日の思い出。



「突然のことですが、舟入さんは転校しました」


 一緒に笹舟を流した日からほどなくして、舟入は転校した。別れの挨拶も予告もなしに、先生から事後報告で知らされたのみだった。そのことをすんなりと受け入れることができなかった俺は、職員室で先生に詰め寄り、舟入の転校の理由を尋ねた。


「ちょっと落ち着け佐々川。佐々川にだけは舟入からちゃんと理由を伝えてほしいと頼まれてるんだ。先生からしたら、二人がそんなに仲よかったのはちょっと意外だったよ」


 そうして聞かされた転校の理由は、病気の治療のためだった。生まれつき心臓に病気を抱えていたそうで、そのことは教師間のみで共有されていた注意事項だったそうだ。

 その話を聞いて、物静かなのも本が好きなのも体育を見学していたのも、全て納得できた。だけど、舟入が本来はこの前みたいなよく笑うテンションの高い子なら、相当我慢していたことだろう。

 そんな舟入の我慢や気苦労は自分では想像すらできない辛いものに思えた。俺はそんな舟入のことを思い、自然と涙がこぼれたことを今でも鮮明に覚えている。


 枕元に置いていたスマホで時間を見ると、完全に寝坊していた。もう一時間目の講義は始まっていて、自主休講という名のサボりをすることに決める。新生活に馴染めずに気を張っていたのかずっと眠りは浅かったのに、今日は初めてというくらい熟睡できた感覚があった。

 それなのに見た夢が舟入とのことで、どこかすっきりとしない。

 きっとすっきりしないのは気分ではなく心の方で、唐突に終わりを迎えた初恋の苦い思い出だけがおりとして、心の奥底にずっとたまっていたのかもしれない。

 二時間目の講義にはまだ早すぎるが、散歩がてらゆっくりと歩いて、大学近くのコンビニで朝ご飯を買って食べようと決め、さっと身支度を整えて部屋を出た。

 大学に向かう道中、いつもは気にも留めずに渡っている橋で足を止め、川の流れをぼんやりと眺める。きっと舟入の夢を見たせいだ。

 緩やかな流れの川の音に耳を澄ませていたら、橋の下をくぐり葉っぱが流れてくるのが見えた。よく見るとそれは葉っぱではなく不格好な笹舟で。しばらくすると、またしても不格好な笹舟が流れてくる。

 それを見て、小学生くらいの子供がかつての自分たちのように流して遊んでいるのかなと思ったが、時間を考えるとありえないことだった。ふと気になって上流側の欄干らんかんから身を乗り出すようにして、川辺に人影がないか探した。その姿は意外にあっさりと見つかった。橋のすぐそばで座り込んでいる一人の女性の姿があったのだ。

 また一つ笹舟がそっと流される。その笹舟を見つめる横顔に心がざわつき、誘われるように急いで橋を渡り、女性がいた場所を目指した。

 そして、すぐ後ろまでやって来たところで、俺の靴が砂利を踏む音に反応して、その女性は立ち上がり振り返った。最初こそ俺の姿を見て驚いたような表情を浮かべていたが、次の瞬間には歩み寄ってきていた。


「佐々川君……だよね?」


 ふいに名前を呼ばれ、記憶の中から目の前にいる女性と一致する知り合いを検索し始める。そして、該当したのは幼い姿のまま更新されることのなかった一人の女の子。


「舟入……なのか?」

「うん。覚えててくれたんだ。嬉しい」


 長く綺麗な黒髪に大人びた印象はそのままで、控えめに笑う顔は当時の面影が色濃く残っている。きっと夢に見ていなかったら、こうもすんなりと分からなかったかもしれない。そもそも笹舟に気付くこともなく、こうして面と向かって再会することもなかっただろう。


「舟入の方こそ、よく俺のことすぐに分かったよな?」

「佐々川君は雰囲気変わってないから、すぐに分かったよ」


 舟入はふにゃりと表情を崩した。その顔にも見覚えがある。体育の時間に目が合った時の笑い方。

 目の前の舟入と、かつて隣の席だった小学生の舟入は完全に一致する。


「そういえば、舟入。お前、病気は?」

「ああ……うん。大丈夫だよ。転校したのは大きな病院に転院して、手術するためだったんだ。中学校まではほとんど学校には行けなかったけど、高校からは普通に通えるようになってね。運動とかは、まあ、相変わらずなんだけどさ」

「そっか。元気そうで本当によかった」

「ありがとう。それで、今はこの近くにある大学に通ってるんだ」

「まじで? 俺も同じ大学なんだけど。寝坊したから二時間目から講義に出ようと大学に向かう途中だったんだ」

「そうなの?」


 舟入は驚いた表情を浮かべた後、楽しそうに笑い出した。いつか見た生き生きとした明るい笑顔と重なり、もう忘れたはずの淡い感情が蘇ってくる。


「私、自由になったら行きたいところがあったんだ」

「そうなんだ。それでどこに行きたいんだ?」

「佐々川君と、放課後に笹舟を流した川だとか、その川が流れつく先にある海だとか、他にもいっぱい」

「それで、そのうちいくつかはもう行ってきたのか?」


 俺が尋ね返した言葉に舟入は少しだけむすっとした表情を浮かべるので、何か間違えてしまったのかと思わず視線をそらしてしまう。


「私にとって、未来に夢も希望もなくて、灰色の世界で毎日を過ごしていたそんな時期に、楽しいと思えたり、自然に笑えた時はいつも佐々川君がいて……。だからかな、佐々川君にはもう一度会いたくて。それで、よかったら――」

「いいよ」


 俺は全てを聞く前に返事をする。舟入のお願いなら叶えてあげたいし、何より俺にとっても舟入がいた時間が楽しかった。だから、拒絶するという選択肢は最初から存在しなかった。


「本当に? じゃあ、よかったら大学でも並んで講義受けたい!」

「今から履修登録し直すのはできないから、今期は難しいだろうな」

「じゃあ、お昼一緒に食べたり、講義終わりにどこかに遊びに行くとかしたい」

「いいよ。てか、舟入って、そんなにお喋りでわがまま言うやつだったっけ?」


 舟入の明るかった表情にすっと影が落ちる。


「ごめんね。ずっと病気で我慢してたから、その反動なのかな……? 嬉しくて、つい調子に乗っちゃった。迷惑……だったよね?」


 舟入は先ほどまで輝かせていた目を伏せてしまう。普通に平凡に過ごしてきた俺には分からない我慢や苦労を舟入はずっとしてきたはずだ。そのことを思ってあの日涙したはずなのに、舟入との思いがけない再会でそのことが頭から抜け落ちていた。

 そして、やっと自由になったのだから、人よりもわがままを言う権利はあっていいはずだ。そのわがままを向けられる先が自分で、それ以上に舟入とまた一緒にいられる理由ができるということは、俺にとっても嬉しいことだった。


「別に迷惑だなんて思ってないから。そういうことなら、どんなことでも舟入に付き合ってやるよ」


 そんな俺の言葉に舟入はバッと顔を上げ、真っ直ぐに俺を見つめてくる。


「じゃあ、私と友達からでいいから付き合って!」


 いいよ、と流れで言いかけて、ぐっと言葉と一緒に息をみ込んだ。そういう意味で付き合うという単語を出したわけじゃなかった。しかし、舟入が初恋相手だからというだけでなく、控えめに言わなくても、とてもかわいくて綺麗な女性からの告白を断る理由はなかった。


「うん。いいよ。それでまずは何がしたい?」

「じゃあ、あの時みたいに笹舟作ってよ。波流君」

「ああ、任せろ。紗々音」


 そう頷くと川辺に座り込んで、舟入が準備していた笹の葉で舟を作り始める。そんな俺の隣に舟入は座り込んで楽しそうに微笑んでいる。この笑顔を俺はずっと見たかったのかもしれない。

 舟入はどんな想いを笹舟に載せて流していたのだろうか。

 積もる話や想いも含めて、これからゆっくりと聞いていけばいい。焦らずともあの時とは違い、時間も未来も自由もあるのだ。


 新しく作った笹舟をそっと水面に浮かべる。

 それは舟入の夢と俺の初恋の続きが重なり、いつかの約束を果たした瞬間だった。

 そして、止まっていた時間はゆっくりと流れ始めた――。

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