愚かで愛らしいふわふわした
saw
第1話
五年前、私は恋に落ちた。
その瞬間は一際輝いていた訳では無く、恋に落ちた音がした訳でもなく、気が付いたら一人の男を目で追っていたというようなひどく凡庸なものだったが、その一方的な目線が合うようになった頃、私の恋は実った。
その時の感情だけは唯一何にも汚される事が無い尊い思い出だ。
経験の浅い私には恋を語る事は出来ない。
そもそも恋を語るものはどれも見ていて羞恥心に襲われるものが多く、文に起こしたら尚更だと思うからである。
ただ、夢から醒めた今わかることは、恋がいかに愚かで、私を盲目的にさせるかということだ。
今思えば、五年前から私の目は既に見えなくなっていた。
いや、視覚だけでは無い。
嗅覚や聴覚、触覚全てを恋に奪われていた。
その後不意に返ってきた五感は煙のような彼を纏っており、今でも写真を一目見ればその時の会話や匂いや景色を嫌でも思い出してしまう。
いつ私が思い出話をしても彼は「覚えてない」と一言だけ言い、私はいつも下を向いて残念そうに笑う事しかできなかったが。
いつもはしないコンタクトレンズをつけて彼の隣で見た憎らしいほど美しい空の青は、いつまでも私だけのものになってしまった。
それが妙に虚しく感じたのを覚えている。
机の引き出しを開け、手紙の束を取り出す。彼が喜ぶから毎年手紙を書いて送っていた。
いつも口で好意を伝えることが出来なかった私は、何とか手紙で想いを伝えようとするものの何回書き直しても恥ずかしくて結局はぶっきらぼうな文になってしまう。
その下書きを捨てる訳にもいかず机の中にひっそりと隠していたが、ふとした瞬間に読むと私の当時の想いが蘇ってくるようだった。
恋の質が悪い所は、自分が正気に戻った時に全てが綺麗にそのままの形で返ってくることだ。
当時鮮やかに彩っていた全てが、今となっては私を蝕む毒になる。
元の色が濃く美しくあるほど、毒はより強いものになる。
現に私はその毒に蝕まれ、痺れる指で過去の手紙をなぞる事しか出来ない。
机に突っ伏して横目で転がった携帯を見る。
私の恋人は、気まぐれな人だった。
連絡がぷつりと途絶えたかと思えば、急に他愛無いメッセージを送ってくる。
そのタイミングはいつも絶妙で、私が愛想を尽かしかけた頃に来るのだ。
狡い人だったと今は恨めしく思う。
本当に狡い人だった。
「好きな人が出来た」
そう漏らした彼の横顔を今でも覚えている。
私は彼と違って良い子だった。
良い子だったから、小さく「そっか」と呟く事しか出来なかった。
あの時泣き真似の一つでもすれば、何か変わっていたのかと思う。
いつからか彼に嫌われるのを恐れている自分がいた。
彼が好きになった私は、不安が募る度に消えていったのかもしれない。
好かれようと思う気持ちは、確かに恋から来るものだ。
だがそれは、場合によっては恋を終わらせる材料にもなる得るという事を思い知らされた。
関係が切れ一年経った今も、私は彼への愛を引きずる様にして生きている。
私が恋だと思っていたこれは、もっと厄介なものだったのかもしれない。
例えるなら、愛みたいな。
そう心で呟き、鼻で笑う。
愛なんて語るほど人生経験なんて無いじゃないか、と。
もっと色んな人と出会い、死ぬまでにゆっくりと愛を知っていくのだろう。
でもきっとこの先、いくら私が幸せになっても、彼の事を思い出してしまう。
珈琲の匂いやパンケーキの味、雨に濡れたアスファルトや桜の花弁が彼の影を引っ張ってくるのだろう。
その度に私はこの甘くて苦い記憶を嚥下しなくてはならないのだ。
何て置き土産をしてくれたものだと文句を言いたくもなる。
私はずっと憧れているだけで良かったのだ。
彼が告白をしてこなければ、こんなに好きになる事は無かっただろうに。
年老いて記憶が薄れた後に、微かに思い出すのが彼だったら死んでも死にきれない。
一通り手紙に向かって苦言を呈した後、溜息を一つ吐いて紅茶を啜る。
私は苦い珈琲が好きではないから、いつも彼がミルクも砂糖も入れずに飲む姿を眉をひそめて見ていた。
彼の軽快で耳障りの良い笑い声を思い出す。
それをかき消すようにわざと音を立てて飲み干した。
愚かで愛らしいふわふわした saw @washi94
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