ギスカー


 サランドグマの兵装は、薄紫色の胴当てと頭部を深く覆う軟鉄のヘルメットだった。密林で目立つことはないが、その質感は木陰に溶け込むことはない。剣の柄には、蛇の鱗めいた装飾が施されているものの、オレの潜むこの位置からでは細かくは確かめられない。


 ――その数五十とレンは言ってたな。


 オレは滝壺を囲むようにして蝟集する兵の数を数えた。魔術師はどこだ? 無骨な兵士の群がりのうち、ひとりだけ変わった風貌の男が見える。あいつがギスカーなる魔術師なのだろうか。前に目撃したグリムという魔術師は灰褐色のローブを纏っていた。しかしギスカーは兵士よりも軽装とはいえ、その腰から細身の長剣を下げ、皮の肩当てをしていた。魔術師にもいろいろいるらしい。聞いた数と同じ頭数を視認できるところをみると、まだ隠身の術は使用されていないようだった。


 オレはギザギザした下生えに身を屈めて、にじり寄っていった。耳をそばだてるものの滝の水音で兵士たちの言葉がうまく聞き取れない。魔術の言葉を盗むためには、さらなる危険を犯す必要があるらしかった。


 とはいえ、これ以上接近すれば――オレの存在と接近は露見せずにはいられぬだろう。


 いかに鈍物であってもジャイヴの異装には無関心でいられない。相手はこれから誅殺すべき蛮族なのだ。どうすればいい? 俺は草と泥濘の匂いを吸い込みながら考えた。視界の端に入ったのは、滝壺のかたわらに脱ぎ捨てられた衣服と兵装だった。数人の兵士が呑気に水浴びをしているらしい。圧倒的優位を疑わないからこその余裕だろう。


 オレは足音を消して、水際の衣服をかすめ取った。

 大樹の裏で、身丈の合わない麻のシャツを着こみ、すっぽりと甲冑に潜り込めば、立派なサランドグマの兵士のできあがりだった。顔の刺青は泥でごまかしたが、やや心もとない。ギスカーは小分けにして兵士たちを呼び寄せて、気だるげに魔術を施していた。オレは待機する分隊に混ざってギスカーに呼ばれるのを待った。


 ――次、さっさとしろボンクラどもが!


 さりげなく隊に加わったオレに怪訝な顔をした兵士がいたが、ギスカーが急かすので開きかけた口をつぐんだ。おずおずとオレたちは前に出る。この世界において魔術師への畏怖は圧倒的なものだ。どんな横暴に振る舞われても逆らうことなどできない。


「並べカスども。いいか、これからおまえたちに勿体なくも穏身の術を施してやろう。効果は明日の夜明け前までだ。このような印を組むことで効果は発動するが、剣を握れば当然印は結べない。つまり攻撃の際には姿を晒すことになる。必ず確実に殺せるタイミングを見計って解け」


 オレたちは8人で横並びになって、ギスカーの一言一句を拝聴する。ギスカーの示したハンドサインは片手の薬指と親指との先を触れ合わせる至極単純なものだが、確かに剣を使いながらでは力は入らないだろう。兵士たちはそれぞれに印の練習をしている。


 ギスカーは低く、くぐもった声で呪文を唱えた。

 これではうまく聞き取れない。おそらく詠唱の言葉を盗まれないようにするための警戒行動なんだろう。滝の音も呪言をいっそう聞き取りにくくしている。これも滝のそばで術を施す理由のひとつなのかもしれない。言葉を盗まれることへの顕著な警戒心は、オレの仮説をさらに確かなものにしてくれた。


 魔法とは、つまるところ言葉の技術なのだ。魔力などという曖昧微妙なものは、自然のうちにあるとしても、人間の側にはない。生まれつきの多寡もない。言語を運用する技術、それに秀でている者こそが強い魔術師なのだ。


 ならば――とオレは思う。


 もし語彙と韻律と抑揚を支配できる者が最強であるならば、それはオレであるべきだった。この世界でオレは前世よりももっと高く羽ばたけるに違いない。


 ――死した窃視者の眼閃より来たれ、汝よ

 ――淫夢運ぶ霧中の……よ

 ――……の胎盤……の言伝。


 ところどころ聞き取れぬ語句がある。しかし同じフレーズを繰り返していることは知れた。つかみどころのない古い言語だったが、どこか懐かしさも感じる。

隠身フェデ・ガ・ロー


 周囲の空気に変化がある。肌に触れる空気が絹のような滑らかさになって全身を包む。が、その質感にオレだけ綻びがある。印を組んだ兵士たちの姿が次々に消えていくのだったが、オレは完全に消失せず、衣服と身体が見えなくなっても、樹上を駆ける猪ルードの刺青だけが、淡い燐光のように残った。ルードは森の悪霊とも呼ばれる猛獣である。


「貴様!」とギスカーがこちらを睨みつける。「あらかじめ呪いを身に帯びているな。それも異邦の呪術か」


 かもしれない。最前自分で施した呪いが、新たな呪法を阻害したのか。それとも異なる系統の呪法の重ね掛けが特殊な効果を生み出したのか。どっちにしろ笑えない顛末だった。オレは咄嗟に鉤爪を振るって、空間に噴き出す血しぶきを見た。内側から溢れ出る体液は消えないらしいが、これを浴びれば、オレの姿も判明してしまうはずで、だからジャイヴの連中が誉とする返り血をここでは避けねばならない。


「殺せ、曲者だ。何をしている!」


 ルードになったオレは失敗を悟って一目散に逃げ出した。その姿はまさに飛翔する猪そのものだったかもしれない。ジャイヴの男たちは、それぞれに守護動物の姿を身に刻むのだったが、ルードは忌まわしい禁忌の動物として避けられていた。オレだけが、長老たちの反対を押し切って悪霊を選び、この身にルードを宿した。


「殺すだと?! やってみやがれ。オレは悪霊だ、てめえらまとめて詠い殺してやる」


 そうだ。オレはジャイヴに――そして世に害を為す悪霊ルードだった。


 サランドグマの兵士たちを呼び込んで、ジャイヴを滅びたガ族の二の舞にさせようとしている。疾駆する猪を兵士たちが不可視の兵士たちが追ってくる。殺到する足音と金属の擦過音。こうなったら騒ぎを起こしてジャイヴたちに脅威を気付かせた方がいい。オレは滅多やたらに鉤爪を振り回しながら、ジャングルの深くへと逃げ込んだ。何度も死んでたまるか。オレはもう二度と志半ばで倒れはしない。


 ジャイヴとサランドグマ。

 どちらも血を流し合えばいい。共倒れになるなら好都合だ。見てろ、オレはもっと悪霊じみたものになるだろう。樹上を駆ける猪は世界に仇を為すだろう。


 悪霊ルードパイク。いつの日か地上にこの忌み名が轟く。意味無き無常が行き渡る――とめどなく。


 怪しく輝くルードが、この日、ジャングルを縦横無尽に駆け巡った。わずかに生き残ったジャイヴの民は不吉なその姿を語り草にするに違ないなかった。

 

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異世界HIPHOP 十三不塔 @hridayam

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