レン


 森の外れに達する頃、奇妙な気配を感じた。


 木々の微睡みの中でそれは松明のように目立つ。追手としても、それは早過ぎた。オレを裏切ってザラが仕向けたのか? 大挙するジャイヴの男たちの山刀でなます切りにされる未来を想像すると背中が冷たくなる。足を止めたオレは節くれ立ったモジョの老木によじ登って、その気配を待ち受けた。あと二月もすれば裸になる落葉樹だったが、夏至の頃であればまだ身を隠すだけの豊かな葉が繁っている。足音は多くはない。息遣いは落ち着いている。そこに殺気は感じられない。


 オレは森を彷徨う気配に飛び掛かった。

 モジョの根元でオレたちは揉み合った。こちらが鉤縄を握りしめたのと同じく、相手は短刀を抜き取って身構えた。閃く斬撃をかわしながら首元に鉤爪を突きつけるのは容易だった。相手は足が悪く、機敏とは言い兼ねたから。オレたちは揉み合ったあげく、顔を見合わせた。


「おまえはレン」

「おまえはパイク」


 二人が一斉に声を上げた。オレの前に居たのは、足切りのレンだった。

 ジャイヴの虜囚となったサランドグマの兵士で、足の親指を切り落とされて愛玩動物のように飼われていたのを逃がしてやったのがオレだった。


 ――わたしを逃がせば災いが降りかかるぞ。


 あの日、レンの眼光は痩せさらばえたことでいっそうギラついて見えたものだ。


 災いとはオレにか? それとも村にか?


 問いかけに答えず、ひとり頷くと、虜囚は駆け出して、ジャングルの無限の襞の中に潜り込んでしまった。石と枯れ木で組み立てた粗末な牢獄には糞尿の臭いが、オレの内側にはレンに習った共通ナハト語が、それぞれに残っていた。レンの世話係に名乗り出たオレは来たる出立の日のためにレンからサランドグマの言葉を学んだのだった。数年をかけてあらかたの言葉を習得したオレは、かねてからの約束通りレンを解放した。


「なぜここにいる?」


 あの日の問いに答えるために再び現れたわけではないだろう。

 

 だったら?


「森の蛮族を殲滅するためにサランドグマが兵を差し向けた。わたしが捕まった時のような小競り合いではない。五〇からの武装した兵士たちがまもなくここへ押し寄せる。それに魔術師も。命が惜しければ逃げるのだ」


「グイムか?」オレは高揚を隠さなかった。

「違う。三等級の宮廷魔術師ギスカーという者だ。君は恩人だ。どうにか先に知らせて君だけでも逃がそうと思ったのだ。ここで会えたのは運命の導きだろう」

「オレは村を捨てた」

「なおさら都合がいい。ジャイヴは蛮習にとりつかれた救いようない獣だ。今日この日滅びるべきだろう」


 レンの瞳は、あの日の光芒を失うどころかよりギラつく輝きに充ちていた。ジャイヴで受けた苦痛と辱めを幾度となく思い出しては復讐の刃を磨き続けたのだろう。別離の予言通り、災いは訪れようとしていた。もちろん子殺しの蛮族は滅びるべきだった。


 しかし、それでも――


「オレの部族だ。見過ごすことはできない」


「気持ちはわかる、しかし」とレンは痛ましい口調で首を振った。「もう止められない。忠告はしたぞ。巻きこまれれば死ぬ。精悍なジャイヴの男たちでさえ、サランドグマの武力を前にすれば、枯葉のように脆い」


 東側から森を包囲するように兵は待機しているのだろう。木々を渡る風の中に鉄の臭いが混じっている。殺戮の微風が頬を撫でる。


「部族は滅んでも構わないが、見捨てられない人間がいる」


 真剣に訴えた。囚われている間は伸ばし放題だったレンの髭はきれいに剃り上げられていて、まるで別人のようだった。そんな見知らぬ男は、夜明けだ、ときっぱりと告げた。


「夜明けと共に攻め入ることになる。どちらにしろ猶予はそれだけだ」

「十分だ」とオレは胸を張る。

「兵士たちは隠身の術を施される。おまえたちは見えない兵士に嬲り殺しにされるのだ」


 ただでさえ大変な兵力差があるところに魔術による助力が加わるなら、絶望的に勝ち目はなくなるだろう。男も女も子供もひとり残らず、なす術もなくジャイヴは死に絶える。


「詠唱の言葉は? 聞いたことがあるはずだ」

「魔術の詠唱はおまえに教えたナハト語ではなく、特別な古い言語で為される」

「意味だけでもいい。教えてくれ」


 オレは取り縋った。果たして特別な言語だけが魔術を顕現させるのか、それはオレにとってかねてからの疑問だった。


「意味などわかるはずもない。わたしからすれば、牛の寝言にしか聞こえない言葉なのだ」

「牛の寝言か。だったらそれを聞きにいこう」


 無謀なオレの提案にレンは「まさか。魔術師に近づくのか?」と訝った。


 ジャイヴの技能には、狩猟のために足音や気配、それに体臭を消す種類のものがあった。それを使えばかなり近い距離にまで接近できるだろう。オレは魔術師の詠唱を盗み聞いてやるつもりだった。魔術師には、生まれもった素養によってなるのだと言われている。その大きな決め手が内に秘めた魔力の量だとされているが、それは本当だろうか。むしろ彼らの口から放たれる言葉にこそ秘密があるのではないか。世界は言葉に呼応する。たったそれだけのことを秘匿するために魔術師という稀少な特権をでっち上げているのではないか、とオレは疑っていた。


「どこにいる? 案内なら必要ない。おおかまなヒントだけでいい」

「東の滝だ。密林のとば口に陣を組んでいる」


 オレは狩りのはじまりに捧げる呪いの句を唱えた。


 ――我らの森の子。大河の子。

 ――煙の上にゃ神さん居らす。

 ――どこもかしこもいがらっぽい。

 ――あつめてうれしい鍋の蓋。


 すると確かにオレの中から色と温度のようなものが薄まっていく。

 魔術師の業のように完全に透明になるわけではないが、獣たちは視覚よりもむしろ嗅覚と聴覚で周辺環境を認知しているので、音と臭い、そして気配を殺すことの方が肝要なのだ。


「すごいな。存在感が希薄になった」

「これだって魔法の一種なのかもしれない」


 魔術師たちはそれを認めねーだろうが。

 この呪いに加えて、ジャイヴたちは独特の歩法と呼吸法を駆使して獲物を狩る。そちらについてはオレは未熟極まりないのだった。非力な代わりに逃げ足だけ速いのが取柄ではあったが、さてどうなるか。


 ちなみに「大河の子」というフレーズの意味は不明だ。このあたりには大きな河はない。煙とは煮炊きの蒸気のことだという説もあれば、空の雲のことだという者もあった。ようするになんだかよくわからない文言なのだが、その不可解なところに何かが宿るような気がしないでもない。


「ヤバそうなら諦めるんだパイク。きっとそうするんだぞ」


 肩を揺すぶるレンはいまにも泣き出しそうで、なぜだかオレはレンの切り落とされた足の親指のことを想った。山刀で指を落とされても悲鳴を上げなかったレンが、オレのために目尻に涙を溜めているのだ。オレは決めた。忠告通り、本当にヤバそうであれば逃げよう、レンの失われた親指のために。

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