ザラ


 ――誰に?


 ビーフを繰り広げてた西の連中もいたが、日本じゃラッパーが殺し合うことなんて滅多にない。オレを殺したのはオレのファンだ。自称ヘッズってやつ。澱の溜まった愛情をひとりで抱えきれず、ついにライブ帰りのオレを襲撃するに至ったのだが――まだ早い――少し時間を戻そう。


 ジャングルじゃなくてヒートテックと蛍光塗料と障害年金のある世界にいた頃のことだ。オレはヤバイ奴につけ狙われていたんだ。


 うだつの上がらない中学校の用務員がそいつだった。


 そいつについてなら知っていた。気味の悪い手紙をよこす熱狂的なファンで、オレの姿を家族写真に合成したものや血まみれの生爪、それに大量の単三電池なんかをファンレターに同封するサイコ野郎だ。事件が起こったのは確かサードアルバムのセールスが10万枚を達成した頃のことだ。


 ――よお、ジオ。あんたの曲はみんな僕のことを歌ってますでしょ。リアルに迫るとかそういう意味ではなくて僕そのものなのです。いつだって僕を見てる。視線感じます。いいさ嫌なんかじゃない。僕もあんたをいつも側に感じているし、それは真っ当で光栄なことだから怒りはないです。ただね、もう少しだけ敬意を払ってくれたら嬉しいですね。それって求め過ぎ? 例えば、手紙の返事をくれるとか、スタジオ見学に誘ってくれるとかですけど。僕は自分の一部を切り取ってあなたのリリックのために提供している。今度は何がいいかな? 足の爪ならまだ残ってる。桐箱に入ったへその緒もあるよ。とにかくもう少し報われてもいいと思うんです云々。


 このイカれ野郎はマジでヤバかった。

 このクソをライブやイベントに寄せ付けないでいられるか、オレ自身や仲間たちを守れるか、そいつが喫緊の課題だった。屈強なボディーガードを雇い入れる。ストーキング犯罪についての知識を蓄える。出来るのはその程度。決定的な対策を講じられぬまま、オレは惨劇の夜へ滑り落ちていったんだ。


 この件について、笑えることがひとつある。

 占いバーと台湾マッサージが入った雑居ビルの薄暗がりから振り下ろされてオレの頭をかち割った得物――それは数学教師が黒板で使う大きなコンパスだった。あんな得物で殺されたオレはさぞかしコミカルな伝説になってるはずで、キリストだって恥ずかしくて復活する気も失せるに違いない。月の明るい夜だったせいか、ギリギリの土壇場だったせいか、その場面のことは鮮明に憶えてる。


 路上に突っ伏したオレは、さらに何度となく殴打され、混濁した意識の中で、なぜか初めてマイクを握った興奮と躊躇いを思い出していた。仲間の顔も恋人の声もオレの走馬灯には上映されなかった。場末の小さなハコの中で渦巻く、微妙な歓声、ひりついた敵意、紫煙の乱流。死ぬ間際のオレが想ったのは、それだけだった。


 ついで襲撃者は、路上にコンパスで大きな円を描いて、その中心に瀕死のオレの頭が位置するように身体を引きずっていった。アスファルトに磔にされ、まるで聖者のような光輪を背負ったオレの姿は、痛ましくも惨めで、そして神々しかった。


 オレを仕留めた襲撃者は、さらに奴自身に狙いを定めた。ブツブツと何かを呟きながら痩せこけた身体をエレベーターのない雑居ビルの5階まで引き上げたそいつは、路上に横たわるオレの、温度を失いつつある抜け殻目掛けて踊り場から跳んだのだった。そうとも、これは無理心中だったってわけ。


 しかし脳味噌ブンブンのサイコ野郎のことだ。最後の最後でしくじった。こともあろうにジオメトリック1/4クォーターの聖なる骸ではなく、数メートルズレたゴミ溜めに落ちたんだ。数匹の野良猫を道連れにして。違う。この猫は野良猫なんかじゃなかった。近所の猫屋敷が擁する78匹の猫のうちのどれかだった。が、死にゆくオレにも殺人者にもそんなことはもはや関係がなかった。猫屋敷のバアさんが年齢と同じ数の飢えた猫に埋もれて翌朝天寿を全うしていたこともまた遠い世界の出来事だ。その朝はオレたちには訪れなかったのだから。


 ――そして死を跳躍台にしてオレは世界を跨ぐ。死神か女神か、それらしい誰かがナビゲートしてくれたのでもない。前触れもなく、オレは血まみれの胎児としてむせ返る湿度の森の中に産み落とされた。暦のないジャイヴの季節をたっぷりと過ごしたあげく――刻は巡り巡って――ようやく決別の夏がやって来たってわけ。


 別れの間際、最後にオレとザラは刻吟ハズルで詩句を交わし合うことにした。本当であれば、泥の地面を叩いたり、木のヘラを真鍮の碗に打ち付けたりして女たちにリズムを奏でてもらうのだったが、今夜は、あの砲撃の音だけがオレたちの不吉な通奏低音だ。輪吟サイファーはできない。ここには、たった二人だから。


 ――まずは縮れ髪のザラ。ハチドリのトーテムに護られたデーテハラッ家の娘からだ。


  ぶくぶくと泡立つ悪い夢から、どうか手を伸ばして、あなたよ。

  明日さえ知れぬ不安は蛭のごとく吸い付くはずで

  炒り米の爆ぜる音に子供たちが眼を覚ます刻までに説き伏せることが

  できるだろうか。わたしにそれができるだろうか。褥を発つなと。


 ――続いてオレが返歌する。


  颯爽と俺は持ち去る。動かざるお前の石の心を泉に浸し。

  戦士の根っこを返上する、この大地に、獣らの生き血に。

  行きがけの駄賃だ。お前が取っておけ。決心はもうふるいに掛けられた。

  古いしきたりは煙より早く溶けた。汚れた褥に火が燃え移るだろう。


 オレの言霊はジャングルを圧する。そうだ、こうして言葉を紡いでいる時にだけオレは生きていると感じる。しかしザラも負けていない。


  わたしの手は空っぽ。わたしは空っぽ。

  老母の戒めはひとつ。森の外は世界の果て。

  猛獣の牙の代わりに錆びた残忍さが渦巻く。

  戻っておいで姉妹よ。兄弟よ。あなたの踵はきっと罠を踏むから。

 

 ザラの詩が毛穴から染み渡ってくる。幾度となく交わした刻吟ハズルだったが、この晩のザラの歌声はどこまでも澄明で気高い。二人の詩情は熱せられて混じり合う。前世の出来事だろう、この感覚を確かにオレは知っていた気がする。オレは温かな想い出を振り切ってまくし立てる。


  水晶の鳥籠であっても籠は籠。

  凍てつく夜には忍び寄る、たらしこんだ女たちの世迷言が。

  断ち切られた睦事の喘ぎが。まるで嘘のよう。まるで薄められた咎のよう。

  パイクは蹌踉よろぼいいの斥候として旅に出る。

  故郷に不吉な報せを運ぶため。

  

 ――砲撃が止んだ。ビートが途絶えた。最後の刻吟ハズルはここまでだった。オレの決心の固さは万言を尽くすよりもずっと強烈に伝わっただろう。同じヘロ芋を飲み込んで育った、ザラの滑らかな喉が動いた。


「パイクの言葉はわたしの言葉よりずっと強い。パイクの詩はいつもわたしを散り散りにする。詩霊コードの恩寵は何よりもあなたにある」

「ああ」とオレは一言で済ませた。


 理由はそんな大仰なものじゃない。オレには前世で培ったスキルがあった。ジャイヴ族の刻吟ハズルには韻を踏むという概念が希薄だ。鍛え抜かれたフロウを、韻律の手品を知らないだけだ。ザラはそれを超自然的な力だと勘違いしている。


「また会える?」

「もちろん」


 オレは呼吸をするように嘘をつく。ジャイヴの男の風上にも置けぬ薄弱な精神がそれをさせる。それに本音なら詩に込めたから、信じやすいお人好しのザラにだってわかっているはずだ。この瞬間が最後だと誰よりもよく知っている。


「あなたはあなたでない者になりに行くんだね」

「魔術師」禁忌を解き放つようにオレは告げる。


 オレはオレであることを取り戻しに行くんだ。うら若きジャイブの娘は絶句し、上唇を噛んだ。


 魔術師、それは――


 大地の冒涜者にして詩人。

 言葉の力で自然の潜勢力を取り出して見せる背徳の徒。

 ジャイブ族は彼らを森の悪霊よりも忌まわしい存在と見做す。

 しかしオレはそれになるつもりだ。ジャイヴとジャングルを二分するガ族の半数がたったひとりの魔術師のたった八小節の言葉により消し炭になったあの光景はいまも記憶に新しい。六年前、オレは天啓を受けた。あまりの惨状を目の当たりにし、胃の中身と感動の涙を垂れ流したオレははっきりと決意したのだ。アレになるのだと。


「村に戻れザラ。オレのことは忘れろ」

「わかった。次に会った時、パイクは余所者、あるいは敵」

「そうだ。それでいい」


 こうして二人は背中合わせに反対の方角へ歩き出した。森の内と外へと。ジャイヴの言い伝えによれば、拭われなかった涙は詩霊への最上の捧げものとなる。

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