郵便社の一番長い日(十・終)

 午後六時をすぎたころ――。

 サラマンドラとリヴァイアサンは、ほとんど同時に飛行場に帰還した。

 冬の夜の訪れは早い。周囲はすっかり闇に包まれ、夜空には星々がまたたいている。

 無人の飛行場に難なく降りることが出来たのは、出発前にタイマー式の誘導灯をセットしておいたためだ。


 駐機場エプロンで機体から降りたテオとリカルドは、あらためて事態の深刻さを目の当たりにすることになった。

 高熱に晒された機首のカウリングは飴細工みたいに溶け、一部はほとんど炭化しかかっている。

 外装がところどころめくれあがっているのは、高圧蒸気が暴れまわった痕跡だ。

 くわしい被害状況は分解してみなければ分からないが、一見しただけでもリヴァイアサンが甚大な損傷を被ったことはあきらかだった。

 ここまで飛び続けたのは奇跡と言っていいだろう。


「ごめんね……僕が未熟だったせいで……」


 テオの言葉を遮ろうとして、リカルドはそのまま沈黙した。

 それが自分に向けられたものではないと気づいたためだ。

 技術者エンジニアにとって、自分が手がけた機体はわが子も同然である。

 まして最初の仕事となれば、誰しもが特別な思いを抱くものなのだ。

 テオはリヴァイアサンを不完全なかたちで生み出してしまったことを心から悔やみ、親としての不甲斐なさを詫びているのだった。


――ちゃんと作ってあげられなくて、ごめん……。


 しばらく悄然と立ち尽くしていたテオは、ふとリカルドのほうを振り返った。

 

「リカルド、この機体はもう二度と飛べないよ」

「分かっています。マドリガーレ支社に連絡して回収用のトラックを呼ぶつもりです」

「これは僕のわがままだけど、リヴァイアサンはこのまま眠らせてあげてほしい」


 リヴァイアサンの問題は、そもそも軍の無謀な要求と、終戦間際の余裕のない開発スケジュールによって生じたものだ。

 最初から実現不可能なプロジェクトだったと言い換えてもいい。

 それでも実機を完成させたのはテオと設計第七課の面目躍如だが、その代償としてリヴァイアサンはいくつもの致命的な欠陥を抱えることになった。

 そのような機体にどれほど部分的な改良を施したところで、しょせん付け焼き刃にすぎない。

 根本的な解決策があるとすれば、まったくのゼロから設計をやり直すことだけなのだ。


 リカルドはなにも言わず、血がにじむほどに拳を固く握りしめている。

 泣き出したいのを必死にこらえているのだ。

 誰にも責めることは出来ないだろう。これまで心の支えだったリヴァイアサンがサラマンドラに敗れ、設計者であるテオ自身にもはやこの機体に未来がないことを告げられたのだから。


「僕は君の会社には行かない。まだここでやらなきゃいけないことがあるんだ。でも……」


 沈鬱な面持ちで立ち尽くすリカルドに、テオはふっと微笑みかける。


「リヴァイアサンに乗せてくれて、すごくうれしかったよ」

「ザウアー主任……」

「いつになるかは分からないけど、またいっしょに飛行機を作ろう。今度はちゃんと飛べる機体を作るからさ」


 テオが言い終わらぬうちに、リカルドは感極まったように膝を突いていた。


「私にはその言葉だけで充分です。主任の帰りをいつまでもお待ちしています――――」


 背後で足音が生じたのはそのときだった。

 テオが振り返れば、飛行帽とゴーグルを手にしたユーリの姿が目に入った。

 六千キロを超える長距離飛行を終えたばかりだというのに、整った面立ちに疲労の色は見られない。


「話は終わったようだな」


 テオはユーリのもとに駆け寄ると、飛行服の胸に額を押し当てる。


「ユーリ、ありがとう――――」

「べつに礼を言われるようなことはしていない」

「そんなことない……こうして無事に戻って来られたのはユーリのおかげだよ。僕たちだけだったら、いまごろどうなってたか分からないもの」


 ユーリは否定も肯定もせず、黙ってテオの肩に手を置いただけだ。


「それより、はやく支度をしろ。俺もおまえも、そんな格好では目立って仕方がない」


 予期せぬユーリの言葉に、テオは怪訝そうに首をかしげる。


「ユーリ?」

「忘れたのか。今日はおまえの誕生日だろう」


 こともなげに言ったユーリに、テオは「あっ」とちいさな声を上げた。

 今日が十八歳の誕生日であることをいまのいままですっかり忘れていたのだ。

 この一週間のあいだにリカルドとの再会、そしてリヴァイアサンとサラマンドラの対決という出来事が次々と舞い込んだために、自分のことは意識の片隅に追いやられてしまったのである。


「行きたい店があると言っていたな。いまから急げば、店じまいまでには間に合うだろう」

「でもユーリ、帰ってきたばかりなのに……」

「俺のことは気にしなくていい」


 それだけ言うと、ユーリは膝を突いたままのリカルドに顔を向ける。


「しばらく留守番を頼めるか」

の頼みを断るわけにもいかないでしょう」

「台所に乾パンと豆の缶詰がある。腹が減ったなら勝手に食ってかまわん」


 テオを連れて立ち去ろうとするユーリの背中に、リカルドは意を決したように声をかけた。


「戻るまでのあいだ、サラマンドラを見せてもらってもかまいませんか? 勝手な願いだというのは分かっていますが、自分を負かした相手のことを知りたいと思うのは技術者エンジニアの性ですから――」


 ユーリはなにも言わず、ただちいさく肯んじただけだ。

 寡黙で不器用な男の、それが返答だった。


 サラマンドラ航空郵便社のいちばん長い一日は、こうして終わりを迎えたのだった。


***


 一九七四年の七月十日。

 この日は、戦後の航空技術史において特別な意味を持つことになった。

 ヴァレンティアーノ自動車アウトモビリの航空部門が開発した実験機リヴァイアサンMk.Ⅻマーク・ツヴェルフが水平飛行で時速九百キロを突破し、レシプロ機の世界最速記録を更新したのである。


 すでに航空機の主流は超音速機に移り変わって久しいとはいえ、驚異的な記録であることにはちがいない。音速の壁にもう一歩というところまで肉薄したのは、まさしく前人未到の偉業であった。

 そして、ことを考えれば、おそらくこの先も記録が破られることはないはずだった。


 リヴァイアサンMk.Ⅻの操縦桿を握っていたのは、同社の創業者であり、ヴァレンティアーノ・グループの会長を務めるリカルド・ヴァレンティアーノ。

 すでに五十歳ちかい彼は、周囲の反対を押し切ってみずから機体に乗り込み、みごと新記録を打ち立てたのだった。


 このとき同行していた月刊航空通信ルフト・プレッセの記者に対して、リカルドは奇妙な言葉を残している。


――私はずっとの背中を追いかけてきただけだ。

――まだ追いつくことは出来ていないがね。


 訝しむ記者をのらりくらりとかわしながら、ついにリカルドはその言葉の意味するところを語ることはなかった。

 見上げた空はあの日と変わらず蒼く、銀色の竜は日差しのなかで誇らしげに佇んでいた。


***


 ユーリとテオが目当てのレストランに到着したのは、ラストオーダーぎりぎりのタイミングだった。


 夜遅くの飛び入り客とあっては、むろんフルコースなど望むべくもない。

 魚介類のパスタと羊肉ラムのソテー、そして甘味ドルチェだけの簡素なディナー。

 誕生日のお祝いらしいものといえば、店主が気を利かせて用意したシャンパンだけだ。

 マドリガーレ共和国では大竜公国グロースドラッフェンラント時代からの慣習で十六歳からの飲酒が許可されている。十八歳ともなれば、誰はばかることなくグラスを傾けることが出来るのだ。

 さほど度数は高くないが、テオにとってふだん飲み慣れないアルコールはひどく大人びた味がした。

 一方、ユーリのグラスに注がれたのは無糖のソーダ水だ。空軍ルフトヴァッフェに在籍していたころから、酒の席では決まって水かソーダしか飲まなかった男である。


「ねえユーリ、ひとつ訊いてもいい?」


 テオはユーリをちらと横目で見つつ、ためらいがちに問うた。

 

「もしリカルドに負けたらどうするつもりだったの?」

「考えていなかったな――」


 ユーリはこともなげに言うと、グラスを口に運ぶ。

 きょとんとした顔で見つめるテオを見据えて、ユーリはなおも言葉を継いでいく。

 

「この仕事は俺たちが自分の意志でやっていることだ。誰に強制されているわけでもない」

「ユーリ……」

「俺かおまえのどちらかがやめようと思えば、それで終わりだ」


 ユーリが言外に言おうとしていることが、テオにはよく分かる。

 もしテオがすこしでもリカルドの誘いに乗るそぶりを見せていたなら、ユーリはわざと負けていただろう。

 テオはそれを望まなかった。

 ただそれだけのことでしかないのだ。

 ユーリとサラマンドラは勝利を収め、航空郵便社にはこれまでどおりの日常が戻るだろう。


 それも永遠には続かない。

 二人の関係にも、いずれかならず終わりは来る。

 それがいつなのか、そしてのかは分からない。

 テオは唇を結んだまま、憂いを帯びた瞳でグラスのなかに浮かんでは消える泡を見つめている。

 時代は移ろいゆく。人もモノも変わらずにありつづけることなど不可能だ。

 それでも、出来ることなら、この日々がすこしでも長く続いてほしい。


「おやまあ、素敵な旦那様ですこと」


 ふいに声をかけられて、テオははたと我に返った。

 振り向けば、やわらかな微笑みを浮かべた初老の女と目が合った。どうやらこの店の女将らしい。

 テーブルの上の空いた皿を下げながら、女将はなおも続ける。


「ご夫婦でデートだなんてお羨ましいわ」

「いえ、あの、僕……私たちはべつにそういうわけじゃ……」


 女将の言葉に、テオのかんばせはみるみる朱に染まっていく。

 弁明にもならない弁明を口にしながら、テオはちらとユーリを見やる。

 ユーリのことだ。たとえ本人に悪気がないとしても、夫婦と間違われたとあっては言下に否定するにちがいない。

 そんな予想に反して、ユーリは女将が去ったあとも沈黙したままだった。


「……ユーリ?」


 テオはユーリの顔を覗き込んで、ようやく彼が寝入っていることに気づいた。

 どれほど鍛えられた戦闘機パイロットでも、六千キロ以上の超長距離飛行をこなせば気力体力ともに消耗する。

 むしろいままで疲労の色を見せなかったことのほうが驚異的なのだ。

 静かな寝息を立てるユーリを見つめながら、テオはふっとため息をつく。


「こんなときに居眠りなんてムード台無しだけど、今日だけは特別だからね」


 そして、彼の静かな眠りを妨げないように、あるかなきかの小声で呟いたのだった。


「ありがとう――――大好きだよ、ユーリ」


 すっかり客のひけた夜更けのレストラン。

 シャンパンとソーダの泡が弾ける音だけが聞こえるなかで、二人の時間はどこまでも優しく、ゆるやかに流れていった。


【第四話 完】

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サラマンドラ航空郵便社Ⅱ ささはらゆき @ijwuaslwmqexd2vqr5th

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