郵便社の一番長い日(九)
黄昏の色が空を染めていた。
午後五時――。
太陽はほとんど沈み、かすかな残光が地平線をあわく色づかせている。
黒と赤とが玄妙に入りまじる冬空でひときわあかるく輝くのは、夜の到来を告げる宵の明星であった。
リヴァイアサンが空港を飛び立ってからすでに二時間。
マドリガーレの領空に入った異形の航空機は、脇目もふらず南を目指している。
現在の時速は七百三十キロ。設計上の巡航速度の限界だ。
これ以上の速度で長時間飛行すれば、前後の
そうでなくとも、限界ぎりぎりの飛行を続けていれば、いつどのような不具合が生じるか知れないのである。
むろん、機体のすべてに精通したリカルドにはその程度のことは分かりきっている。
そんな彼をして無謀な操縦に走らせたのは、姿の見えない競争相手――サラマンドラの幻影にほかならなかった。
「ザウアー主任、私には納得できません――――」
操縦桿をつよく握りしめながら、リカルドは血を吐くように言った。
「貴女が設計されたリヴァイアサンは史上最高のレシプロ機です。戦後に開発されたジェット戦闘機ならともかく、サラマンドラのような旧世代機に追いつかれるはずはない」
「リカルド……」
「私の操縦技術が至らないせいで、またしても貴女のリヴァイアサンが恥辱にまみれるようなことがあれば、私は……」
リカルドが言い終わらぬうちに、テオはぽつりと呟いた。
「サラマンドラに追いつかれたのは君のせいじゃないよ、リカルド」
テオは
「さっき、整備のついでに操縦系を見せてもらったよ。操縦桿とフットペダルの
「……」
「どうしてそんなことになったのか当ててみようか。……リヴァイアサンはまっすぐに飛ばないからだよ。飛行中、パイロットが意識して舵を当てていなければ、機体はあらぬ方向に進んでいってしまうんだ」
「さすがです。あれだけの短時間で、そこまでお気づきになっていたとは――――」
「君が後席に乗せてくれなければ、たぶん一生気づかなかったよ。風洞実験ではなんの問題もなかったし、二重反転プロペラを採用してカウンタートルクの問題も解消出来たとばかり思っていたからさ」
ひと呼吸おいてから、テオは意を決したようにリカルドに告げた。
「リカルド、
「そう断言されるだけの理由をお聞かせねがえますか、主任」
「たしかにこの機体には僕のすべてを注ぎ込んだつもりだよ。最新の技術を取り入れて、誰も見たことのない最高の戦闘機を作ろうとした。でも、飛行機を作るためにほんとうに大事なのは、そんなことじゃなかったんだ。最新技術も斬新な外見も、けっきょく上辺を飾るだけのものでしかない。パイロットの生命を乗せて飛ぶ戦闘機は、なによりも飛行機としての基礎が大切だったんだ」
「リヴァイアサンには、その基礎が欠けていると?」
「残念だけど、そのとおりだよ。リヴァイアサンはひたすら性能を追求するばかりで、乗る人間のことをまったく考えていない。人間と機械がお互いに補い合い、支え合うのが本当にいい機体なんだ。あのころの僕は理論を追い求めるのに夢中で、そんな当たり前のことさえ分かっていなかった……」
テオはうつむきながら、ほとんど泣きそうな声で言葉を継いでいく。
「だけど、いまはすこしは分かってきたつもりだよ。人間と機械はどう関わるべきなのか、ユーリとサラマンドラが教えてくれたから――――」
先ほどとは打って変わって、テオの言葉には晴れやかな響きがある。
亡き祖父クラウスが最後に設計を手がけたサラマンドラ。
戦争に敗れ、兵器としての使命を終えても、いまなお飛び続ける最強の火竜。
ひとりの整備士としてその運用に携わるなかで、テオはクラウスの教えをたしかに学び取っていったのだった。
「ユーリはなにも特別なことはしてないはずだよ。いつものように、巡航速度でサラマンドラを飛ばしているだけ」
「それだけであの男が勝つとは、私にはなおさら納得できません」
「戦闘機は実用品だよ。たった一度だけ最高の性能が出せればいい
鈍い衝撃がリヴァイアサンを揺さぶったのはそのときだった。
同時に赤い光が計器盤の上でいくつもまたたく。
「第一
「リカルド、落ち着いて動力伝達シャフトのクラッチを切って。後部の第二
「駄目です……一切の操作を受け付けません」
リヴァイアサンの機首のあたりで甲高い金属音が生じた。
それがどのような現象に起因するものかは、技術者であればすぐに分かる。
なんらかの原因で生じた
精密部品の集合体である
異音が聞こえた時点で、機体に致命的な故障が生じたのはあきらかだった。
次の瞬間、ちいさな爆発音とともに機首から白い煙が噴き上がった。
こうなってはもはやオーバーヒートを止める手立てはない。
そして、一基がコントロールを外れた暴走を続けている以上、動力伝達シャフトによって連結されたもう一基にも異常が生じるのは時間の問題であった。
「六年前の事故のときと同じだ……!! しかし、
激しい振動が機体を揺さぶるなか、リカルドは呆然と呟く。
あの日も最初に前部の
操縦桿を握っていたリカルドは、テオの警告を無視して出力増強装置を十秒以上使ったことが原因だと思っていた。
しかし、今回はちがう。
出力増強装置を一度も使用していないにもかかわらず、リヴァイアサンはまったく同様の故障に見舞われたのだった。
「リカルド、リヴァイアサンに手は加えた?」
「いえ――すべて当時のままです。私の技術では、貴女の設計を再現するのがせいいっぱいで……」
「やっぱりあの事故は君のせいじゃないよ。たぶん前後の
「出力増強装置はあくまでその結果を早めただけだと……?」
「そう思ってくれてかまわない。リヴァイアサンは遅かれ早かれこうなっていたんだ。すべては設計者である僕の責任だよ――――」
テオは心からすまなげに言うと、両手で顔を覆う。
やがて後部の発動機までもが停止すれば、リヴァイアサンはすべての動力を喪失する。
もっとも、それだけなら事態はまだ最悪とは言えない。
六年前の事故のように、燃料タンクが爆発する可能性も否定できないのである。
あのときリカルドが脱出に成功したのが奇跡と言われたことを考えれば、二人がともに助かる可能性はかぎりなくゼロにちかいはずだった。
(ごめん、ユーリ……)
上方で
テオとリカルドはとっさに
いままでどこにいたのか、サラマンドラはリヴァイアサンの数百メートル上空を悠々と飛翔している。
不安定な気流のなかにあって、美しい火竜の姿勢にはわずかなブレもなく、空に敷かれた見えない
「サラマンドラ……!!」
おもわず声を上げたのは、はたしてどちらだったのか。
そうするあいだにも、サラマンドラは躊躇なくリヴァイアサンに近づいてくる。
数秒と経たないうちに、二機は
リヴァイアサンの無線機がふいに吐き出したノイズは、すぐに聞き慣れた声へと変わった。
「機首から火が出ている。いますぐ
「さっきからやっている!! 機体が言うことを聞かないんだ!!」
あくまで冷静なユーリの指示に、リカルドは苛立ったように叫ぶ。
数秒の沈黙のあと、ユーリはふたたび口を開いた。
「テオに代われ――」
「リヴァイアサンのパイロットは私だ。話なら私が聞く」
「死にたくなければ俺の言うとおりにしろ。あまり時間がないのは分かっているだろう」
例によってそっけないユーリの言葉には、しかし、有無を言わせない迫力が宿っている。
押し問答をしていられる状況でないことはリカルドも承知している。苦々しげに眉根を寄せながら、通話スイッチを後席に切り替える。
「テオ、聞こえるか?」
「ユーリ、ごめん……僕のせいでこんなことに……」
「俺に謝る必要はない。それより、コクピットからの操作以外で
「ちょっと待って……たしか緊急対応マニュアルには……」
テオは瞼を閉じると、戦時中の記憶を必死にたぐりよせる。
数千枚におよぶ図面。みずからの手でほとんどを書き上げた運用マニュアル。
もはや一枚もこの世に残っていないリヴァイアサンの設計資料は、少女の脳にいまなお鮮明に焼き付いているのだ。
問題は、無数の情報のなかからたったひとつの正解を見つけることが出来るかどうか――――。
「リカルド、プロペラの減速装置を切れる?」
「可能ですが、しかし、この状況でそんなことをしても意味があるとは……」
「
「成功する保証はありませんよ。それどころか、下手をすれば自爆する危険もあります」
「このままじゃどのみち二人とも助からないんだ。一か八か、いまは僕の言うことを信じてほしい」
テオの懇願に、リカルドはただ肯んじることしか出来なかった。
覚悟を決めるように深く息を吸い込むと、プロペラ減速装置のスイッチを切る。
通常、航空機のプロペラにはリミッターがかけられている。
機械を過負荷から保護し、推進のために最も効率のいい範囲に留めておくために、あえて回転数を抑制しているのである。
いま、リヴァイアサンの二重反転プロペラはリミッターから解放され、すさまじい速度で回りはじめた。
直後に生じた竜の悲鳴のような金属音は、プロペラシャフトが軋む音だ。
オイルが焦げつき、軸受が破損するまで十秒とかからないだろう。
それまでに
けたたましい騒音に包まれたコクピットのなかで、テオは祈るように両手を組み合わせる。
リカルドが驚きの声を上げたのはそのときだった。
「ザウアー主任、動力伝達シャフトのクラッチが切れました!! 第二
リカルドがおもわず安堵の息を吐いたのも当然だ。
状況はなおも予断を許さないとはいえ、最悪の事態はあと一歩のところで回避されたのである。
ふたたび深刻な故障に見舞われないかぎり、片肺飛行で飛行場に帰還することは可能なはずだった。
「……あの男に救われました。不本意ではありますが、認めざるをえません」
リカルドはひとりごちるように言って、
視線の先には、満身創痍のリヴァイアサンに寄り添うように飛ぶサラマンドラの姿がある。
黄昏の空を背負った火竜は、息を呑むほどに美しく、そして何者も寄せつけない気高さをまとっている。
どこか現実離れしたその姿は、過ぎゆく時代が最後に見せた
「悔しいが、本当にいい飛行機だ――――」
口惜しげに呟いたリカルドの顔に浮かんだのは、しかし、言葉とは裏腹の満足げな微笑みだった。
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