郵便社の一番長い日(八)

 ランゲンベルク山脈を超えたリヴァイアサンは、シャリュモ岬をめざしてティユールを北上していった。


 ティユールはアードラー大陸でも最北端に位置する国だけあって、厳しい自然環境で知られている。

 黒土の大地はうっすらと雪に覆われ、上空からは黒と白がないまぜになった奇妙なまだら模様を織りなしているようにみえる。

 かつてティユール辺境伯領と呼ばれていたこの地は、大陸間戦争における最大の激戦の舞台となった。上陸するポラリア軍を迎え撃つべく防衛線を構築した大竜公国グロースドラッフェンラント軍は、劣勢に追い込まれるや大規模な焦土作戦を実行し、ティユールの国土は文字通りの荒野と化したのである。

 戦後も長らく荒廃の極みにあったが、近年ではようやく復興の目処も立ちはじめた。

 目を凝らせば、あちらこちらに真新しい道路や橋梁、そして戦後に再建された集落を見つけることができる。


 リヴァイアサンの後部座席ナビゲーター・シートに座ったテオは、風防キャノピーごしに流れていく外の景色をじっと眺めている。

 首都ラウテンヴェルクで生まれたテオは、ティユールを訪れるのは正真正銘はじめてだった。

 一年を通して温暖で緑豊かなマドリガーレとは真逆の北の大地……。

 いまリヴァイアサンが飛ぶこの空は、かつてユーリとサラマンドラが戦った空でもある。

 時間が戦争の痕跡を洗い流しても、ティユールの灰色の空と大地には、いまなお硝煙のにおいがくすぶっているようだった。

 

「ザウアー主任、まもなくシャリュモ岬が見えてきますよ」

 

 リカルドに声をかけられて、テオははたと我に返った。

 あわてて前方に視線を向ければ、地平線の彼方がかすかに色づいていることに気づく。

 遠目には黒土の大地に敷かれた鉛色のほそい帯のように見える。

 アードラー大陸最北の海――ボレイオス大陸とのあいだに横たわるノイモント海峡だ。

 シャリュモ岬は、海峡にむかって突き出た半島の最先端に位置している。

 かつて”竜の首”と呼ばれた風光明媚な岬は、ポラリア軍のはげしい艦砲射撃によって大部分が崩落し、現在いまでは岬とは名ばかりの岸壁が残るばかりだった。


「あの岬を回れば、あとはマドリガーレに戻るだけです」

「……」

「もう勝負はついたようなものです。サラマンドラはいまごろ私たちのはるか後方を飛んでいるでしょう。逆転の可能性は万にひとつもありません」


 勝ち誇ったように言ったリカルドに、テオはただ沈黙を守るばかりだった。


「ご不満のようですね、ザウアー主任」

「べつにそういうわけじゃ――――」

「責めているわけではありません。貴女はサラマンドラに勝ってほしいと思っている。ちがいますか?」


 なおももだしたままのテオにむかって、リカルドは苦々しげに問いかける。


「あのユーリという男を愛しているから……ですか?」


 二人の会話はそこで途切れた。

 リヴァイアサンのコクピットを重苦しい緊張感が充たしていく。

 発動機エンジンの爆音が響くなかで、テオはようよう口を開いた。


「……君には関係のないことだよ」

「たしかにそのとおりです。しかし、そう考えれば、貴女があの男に手を貸していることにも納得がいく」

「僕は自分の意志でこの仕事をしているんだ。ユーリは関係ない」

「いずれにせよ、私のすることはひとつです。遠慮なく彼に勝ち、貴女をわが社に引き抜くまでだ」


 わずかな逡巡のあと、テオはためらいがちに問いかける。


「リカルド、なぜそうまでして僕を――――」

「私にはどうしても貴女が必要だからですよ、ザウアー主任」


 テオの返答を待たず、リカルドはなおも言葉を重ねていく。


「ポラリア政府が航空機の開発禁止令を緩和してからというもの、各国の有力メーカーはこぞって航空部門の設立に動いています。投機筋や銀行からも巨額の資金が流れ込み、いまや潜在的な市場規模は戦前をもしのぐほどです」

「その話なら聞いてる。フェアバンティ航空祭が復活したのも、新製品を宣伝するためだって……」

「例の航空祭を主催したギュンター・バイルシュタインのように、投資家や経営者のほとんどは金の匂いに引き寄せられたハイエナですよ。奴らは飛行機のことなどろくに知らず、なんの愛着もないくせに、金儲けの手段として航空産業を利用しようというのです。私にはそれがどうしても許せない。アードラー大陸の航空産業の再興は、目先の利益しか考えていない者ではなく、われわれ心から飛行機を愛する者の手で成されるべきだ」

「そうは言っても、君もいまはヴァレンティアーノ自動車アウトモビリの社長じゃないか。会社の経営を考えるなら、愛だけじゃやっていけないはずだよ」

「私は奴らとはちがう!!」


 テオのなにげない言葉に、リカルドはおもわず声を荒げていた。

 マイク越しに耳朶を打った怒声に身をすくめたテオに、リカルドはあわてて謝罪の言葉を口にする。


「申し訳ありません……私としたことが、主任に無礼を……」

「べつに気にしてないよ。ただちょっと驚いただけ」

「私が戦後に自動車メーカーを起業したのは、やがてくる航空産業の復活を見越してのことです。作りたくもない車を作ってきたのも、すべてはふたたび飛行機を作るため……このリヴァイアサンは、私にとって夢の結晶そのものなのです」


 リカルドは深く息を吸い込むと、意を決したように言葉を紡いでいく。


「ザウアー主任、私の夢には貴女が必要です。だから、どうか、もう一度私と――――」


 リカルドは喉まで出かかった言葉を呑み込んだ。

 むろん、自分の意志でそうしたのではない。否応なしにのだ。


「リカルド……?」

「そんな……うそだ……ありえない……」


 不自然な態度を訝しがるテオは、まだ気づいていない。

 ほんの数秒前、リヴァイアサンを追い越すように前に出た機影がひとつ。

 空よりもなお深い紺青色コバルトブルーに彩られた逆ガル翼の流麗なフォルム。

 そこにいるはずのない機体をはっきりと認めて、リカルドはうわ言みたいに呟いていた。


「なぜだ――――サラマンドラ!!」


***


 シャリュモ岬を回ったあと、マドリガーレへの針路を取ったリヴァイアサンは、往路とおなじ空港に着陸した。

 燃料補給とパイロットの休息のためだ。

 どれほどすぐれた戦闘機も、ガソリンが切れてはもはや飛ぶことは出来ない。

 それはパイロットにしても同様だった。往復六千キロを超える超長距離飛行を成功させるためには、定期的な休憩が欠かせないのである。

 

「給油が終わり次第、すぐに離陸します。奴はもう飛び立っているかもしれない」


 リカルドは苛立ちを隠しもせずに言うと、手にしていたドリンクボトルを力任せに握りつぶす。

 あれからサラマンドラは何度もリヴァイアサンの前に現れては消えていった。

 風防キャノピーのむこうに悪霊のような機影がちらつくたび、リカルドの神経はささくれ立ち、操縦は次第に繊細さを欠くようになった。

 飛行中は口をつぐんでいたテオも、休憩さえ惜しむほど追い詰められた様子を目の当たりにしては、さすがに黙っているわけにはいかない。

 

「リカルド、無茶だよ!! せめて一時間は休まないと――――」

「そんな暇はありません。モタモタしていれば奴に先にゴールされる。どんな卑劣な手を使ったか知らないが、このまま負けるわけにはいかない」

「……ユーリは卑怯なことはしないよ。僕が保証する」


 テオの言葉に反論を許さない気迫を感じ取ったのか、リカルドは拳を握りしめてうつむくばかりだった。


「それに、リヴァイアサンの点検だってしなきゃいけない。長距離飛行ではどんな不具合が出るか分からないもの。機体は僕が見ておくから、君はすこし横になってきて」

「貴女を信じていいのですね、ザウアー主任」

「リヴァイアサンを設計したのは僕だよ。自分の手がけた飛行機がわざと負けるように仕向ける技術者がいると思う?」


 リカルドはそれ以上はなにも言わず、飛行帽とゴーグルを手にパイロット用の仮眠所に足を向ける。

 神経がひどく昂ぶった状態では、休もうと思っても簡単に休めるものではない。

 おそらく一時間と経たないうちに機体のところに戻ってくるだろう。

 テオはそれまでに可能なかぎりリヴァイアサンの点検を済ませておかねばならない。


 ふと格納庫ハンガーの壁にかかった時計を見れば、時刻は午後三時を回ろうとしている。

 冬の日は短い。空には早くも夕暮れの色がにじみはじめている。

 このペースで飛べば、マドリガーレの飛行場に到着するのは、早くても日没後になるだろう。

 それは同時にこの賭けゲームの勝敗が決まるということでもある。

 

 性能において優位にあるリヴァイアサンが、なぜサラマンドラに追いつかれたのかは分からない。

 それでも、サラマンドラが現れた瞬間、テオの心にはかすかな希望が芽生えたのだった。


――自分の手で希望の芽を摘むことになるかもしれない……。


 そう思いながら、テオの手はほとんど無意識に動いている。

 六年ぶりに触れた軽合金の竜の手触りは、不思議なほど愛おしく、そして懐かしかった。

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