郵便社の一番長い日(七)

 午前六時――。


 飛行場を飛び立ったサラマンドラとリヴァイアサンは、どちらも北方に針路を取った。

 ティユールの北岸に位置するシャリュモ岬に向かうには、パッサカリアとオーディンバルトの領空を通過する必要がある。

 ふだんの配達なら各国空軍の追撃を振り切りながら飛ぶことになるが、今日にかぎってはべつだった。

 ヴァレンティアーノ自動車アウトモビリの名義で各国の航空局宛てに正式な飛行計画書フライトプランを提出してあるのだ。

 アードラー大陸でも有数の大企業として法令を遵守するのは当然だが、むろんそれだけではない。

 一対一の真剣勝負に水を差されたくないというリカルドなりの心遣いであった。


「現在の高度一万メートル、対気速度七百キロ。機首方位ヘディング○三五。視程およそ四十キロメートル。風速九メートル毎秒、雲量きわめて少ない……」


 リカルドは操縦桿を握ったまま、機体の運行に関する情報を読み上げていく。

 後部座席ナビゲーター・シートに座ったテオは、風防キャノピーごしに流れていく蒼空を眺めている。

 操縦桿や各種のスイッチ、そして多種多様な計器類に埋め尽くされた操縦席に対して、後席は非常にあっさりとした作りになっている。

 眼下を流れていくまだら雲を見下ろしても、高度一万メートルを飛んでいるという実感はテオにはなかなか沸かなかった。

 完全与圧式の高気密コクピットでは、一万メートル以上の高高度でも地上とほとんど変わらない環境が維持される。通常の戦闘機であれば不可欠な酸素マスクや電熱服も、リヴァイアサンには無用の長物なのだ。

 戦闘機らしからぬ快適なコクピットも、むろんパイロットへの思いやりのためにそうなっているわけではない。

 高高度飛行の訓練を積んでいない新兵でも、爆撃機の迎撃任務に従事出来るようにせよという国防委員会の要求に従った結果にすぎないのだ。

 

「ザウアー主任、リヴァイアサンの乗り心地はいかがですか?」

 

 ヘッドフォンから流れたリカルドの声に、テオははたと我に返った。

 リヴァイアサンのコクピットは前後に配置された串形発動機エンジンの騒音に充たされ、まともな会話は成り立たない。

 前後席の会話は、咽頭部に装着した集音マイクと有線ヘッドフォンを通しておこなわれるのである。

 居住性にすぐれるリヴァイアサンも、こと静粛性にかけてはあらゆる軍用機のなかでも最悪の部類に入るのだ。


「すごくいいよ。雲の上を飛んでるのが信じられないくらい……」

「そう感じられるのは貴女の設計がすばらしいからです。乗り心地だけではありませんよ。速度も加速力も上昇性能も、レシプロ戦闘機としては現在いまも世界最高峰であることは疑いがありません」


 ほとんど同時に飛行場を飛び立ったサラマンドラの機影は、離陸してから三十分と経たないうちに見えなくなった。

 リヴァイアサンの巡航速度が七百キロ以上であるのに対して、サラマンドラの巡航速度はせいぜい六百五十キロ程度にすぎない。

 発動機エンジンのパワーはほとんど互角だが、複座型に改修されてなお軽量な機体と、後部にプロペラを装備する推進プッシャー式の恩恵によって、リヴァイアサンの速度はまさしく目を瞠るものがある。

 単純な速さくらべにおいてサラマンドラが敗北を喫するのは当然でもあった。


「とはいえ、このまま勝たせてくれるほど甘い相手ではないでしょう――――」


 リカルドは前方を見据えたまま、低い声でごちる。


 航空機の性能はおおきく二つに分けられる。

 ひとつは機器の定格出力や実証実験で得られたデータをそのまま記載したもの――いわゆるカタログスペックと呼ばれるものだ。

 そしてもうひとつは、実際の運用を通して兵器としての有用性が証明されたもの――戦場での実証バトルプルーフをともなうスペックである。

 後者のほうがより真正の性能にちかく、価値があることは言うまでもない。

 兵器とはあくまで実用品である。どれほどカタログスペックにすぐれていても、実戦で使いものにならなければなんの意味もないのだ。

 試験運転では成功を収めた兵器が、運用の現場において欠陥品・失敗作の烙印を押され、早々に戦場から姿を消した例は枚挙にいとまがない。

 大戦後期の激戦のなかで赫赫たる戦果を挙げ、空戦における被撃墜ゼロという伝説的な記録をもつ傑作機サラマンドラに対して、リヴァイアサンは量産されることなく終わった試作機にすぎない。

 カタログスペック上の優越も、戦場の空で鍛えられたサラマンドラに対してどこまで通用するかは未知数だった。

 

「……リカルド、僕のことを恨んでいるの?」


 テオが絞り出すように呟いた言葉に、リカルドはおもわず背筋をこわばらせた。

 

「なぜそう思われるのですか、ザウアー主任」

「六年前の墜落事故はリヴァイアサンを設計した僕の責任だよ。テストパイロットの君がひどい怪我をして、片目を失うことになったのも……」


 言い終わらぬうちに、テオは苦しげに言葉を詰まらせた。

 リヴァイアサンの設計主査チーフエンジニアとしての責任と、リカルドに終生消えない傷痕を残してしまったことへの罪悪感がテオの心をはげしく苛み、押し潰そうとしているのだ。


「ザウアー主任。どうやら貴女は勘違いなさっておいでのようだ」

「え……?」

「設計第七課に配属された日から、私は貴女を技術者として尊敬してきました。貴女の下で働けたことを光栄に思いこそすれ、恨んだことなど一度もない……」


 リカルドの語調はいたって平静でありながら、一語一語に力強い気迫がみなぎっている。


「はっきり申し上げておきましょう――――墜落の原因は私の操縦ミスです。貴女にあれだけ忠告されたというのに、出力増強装置オーバーブーストを十秒以上使ってしまった。なまじ機体の強度設計を担当していたせいで、耐久限界を見誤ってしまったのです」

「リカルド……」

「あの事故さえなければ、リヴァイアサンは正式に量産されていたはずだ。戦局を打開するには至らなかったとしても、大竜公国グロースドラッフェンラント最後の戦闘機としてしかるべき評価が与えられたでしょう。そのことを思うと、いまでも胸が締め付けられます」


 リカルドは重い塊を吐くように言葉を紡いでいく。

 けっきょく設計第七課はなんの成果も生み出すことなく、多くのメンバーが戦火のなかで生命を落としていった。

 技術者として、自分が携わった製品が日の目を見ることなく葬られるほど悔しいことはない。

 言葉に尽くせないほどの後悔の念は、この六年間ずっとリカルドの胸の奥底でくすぶりつづけ、彼を衝き動かしてきたのだ。


「リヴァイアサンを再建したのは、私なりの贖罪のつもりです。これほどすばらしい航空機がだれにも顧みられることなく忘れ去られていくなど、私にはとても耐えられない」

「もうポラリアとの戦争は終わったんだよ。リヴァイアサンが戦う相手はどこにもいないんだ」

「いいえ――――戦わなければならない相手ならまだいます」


 テオの言葉を遮るように、リカルドはあくまできっぱりと言い切った。


「リヴァイアサンがサラマンドラよりすぐれていることを証明し、貴女をふたたび日の当たる場所に連れ戻す。……それが私の目的です」

「君は僕がそれを望んでいると思っているの?」

「逆にお尋ねしましょう。貴女は現在いまのような境遇に身を置くことで、自分自身に罰を科しているのではありませんか? 技術者としての輝かしい未来にむざむざと背を向け、非合法モグリの運び屋に手を貸す理由など、それ以外には考えられません」


 テオは反論しようとして、そのまま口をつぐんだ。

 リカルドにはなにを言ったところで通じないと悟ったのだ。

 六年という歳月は、ひとりの男の心を頑なにするには充分だった。


「どうかご安心ください――――私とリヴァイアサンが、貴女にかかった呪いを解いて差し上げます」


***


 リヴァイアサンがオーディンバルト北部の空港に到着したのは、まもなく午前十時にさしかかろうかという時刻だった。

 空港と言っても、滑走路が二本あるだけのささやかな民間飛行場である。

 長距離を飛ぶ郵便飛行機や貨客機が燃料補給のために立ち寄ることから、俗に燃料屋ガス・ディーラーと呼ばれている。

 異形の機体が滑走路に降りたのと、空港のそこかしこでどよめきの声が上がったのは同時だった。

 無理もないことだ。もともとリヴァイアサンの存在は世間一般にはほとんど知られていないうえ、尾翼にはあのヴァレンティアーノ自動車アウトモビリの社章が描かれているのである。

 駐機場エプロンに佇む銀色の機体は、いやがうえにも注目を集めることになった。


 衆人の喧騒をよそに、風防キャノピーを開け放ったリカルドは、テオをエスコートして機体を降りる。


「燃料補給と点検が終わり次第離陸します。ザウアー主任はそれまですこし休憩なさったほうがいい」

「……サラマンドラはまだ来てないみたいだね」

「彼我の速度差を考えれば、ここまでに三十分は差がついているはずです」


 言って、リカルドは航空時計パイロットウォッチの盤面に目を向ける。

 リヴァイアサンもつねに時速七百キロで飛行してきたわけではない。

 二基の発動機エンジンがオーバーヒートしないよう細心の注意を払いながら、ここまでの航路を消化してきたのである。

 そして、それはサラマンドラにしても同様のはずだった。


「騎士道精神に則れば彼が到着するまで待つべきでしょうが、これは手加減なしの真剣勝負です。せっかくのリードを無駄にするつもりはありません」

「分かっているよ。君の好きなようにすればいい」


 テオはそっけなく言うと、空港の休憩所ラウンジに足を向ける。

 このあとの飛行計画フライトプランは頭に入っている。

 ”魔の山”として知られるランゲンベルグ山脈を超えてティユール領空に入り、さらに北方にむかって飛び続ければ、やがてノイモント海峡が見えてくる。

 海峡にむかって角のように突き出たシャリュモ岬を回ったあと、マドリガーレにある飛行場により早く到着したほうが賭けゲームの勝者となるのだ。


(ユーリ……)


 きっとサラマンドラが現れてくれるはずだというテオの祈りもむなしく、燃料補給と各部の点検を終えたリヴァイアサンは、はやばやと離陸準備に入っている。

 空港を飛び立った銀色の竜は、北の海にむけて猛然と加速を開始した。

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