郵便社の一番長い日(六)

 紫色の闇が飛行場を包んでいた。

 時刻は午前四時をすこし回ったところ。

 十一月の日の出はおそく、あたりが明るくなるまでにはたっぷり二時間はある。

 リカルド・ヴァレンティアーノとCaZ-205”リヴァイアサン”がサラマンドラ航空郵便社を訪れてから、ちょうど一週間後の朝であった。

 

 カーキ色の飛行服の上に空軍ルフトヴァッフェの防寒コートを羽織ったユーリは、格納庫ハンガー内でサラマンドラの各部を念入りに点検している。

 ストーブひとつない庫内はひどく冷え込み、呼吸するたびに白い帯が流れていく。

 巨大な四翅式プロペラをひとつひとつ丁寧に撫ぜているのは、表面に亀裂クラックや凹みがないか確かめているのだ。

 地表ではひび割れ程度の傷でも、高度一万メートルでは命取りになる。

 完璧な整備が施されていることは承知しているが、自分自身の手で最終チェックをおこなうのはパイロットの習い性だった。


 ふと背後に気配を感じたユーリは、顔だけで振り返ると、


「まだ寝ていろ。あの男との約束の時間まであと一時間はある――――」


 例のごとく無愛想に言って、ふたたびサラマンドラに向き直る。


 パジャマの上にオーバーサイズのフライトジャケットをひっかけたテオは、格納庫の壁に背をもたせかけたまま、ためらいがちに口を開いた。


「べつに早起きしようとしたわけじゃないんだけど……目が冴えちゃってさ」

「だったら、リビングで温かい茶でも飲んでいればいい。わざわざ飛行場でいちばん寒いところにいる必要はない」

「ユーリは僕がここにいたら迷惑?」


 わずかな沈黙のあと、ユーリはひとりごちるみたいに呟く。


「好きにしろ。どこにいようとおまえの自由だ」


 あくまでそっけなく不器用な、それでいて隠しきれない優しさがにじむ言葉に、テオはおもわず頬をゆるませる。

 それも一瞬のこと。黒髪の少女は沈痛な面持ちで語りはじめる。


「僕のせいでおかしなことに巻き込んじゃってごめんね、ユーリ」

「……」

「僕がリカルドの会社に行けばなにもかも丸く収まるのなら、いまからでもそうするよ。こんな無謀な勝負を受ける義務はユーリにはないもの。取り返しのつかないことが起こってから後悔するくらいなら……」


 テオが言い終わるより早く、ユーリはすばやく身体を翻していた。

 灰金色アッシュブロンドの髪の青年は、テオの傍らへと歩み寄っていく。


「なにを誤解しているのか知らないが、俺はおまえのせいで厄介事に巻き込まれたなどとはこれっぽっちも思っていない――――」


 予期せぬ接近によってテオの頬が薄朱色うすあけいろに染まっていくのにも気づかず、ユーリはなおも言葉を継いでいく。


「サラマンドラには整備士が必要だ。おまえがいなければ、どのみち航空郵便社は畳むしかない」

「ユーリ……」

「おまえがもうこの仕事から降りたいというなら止めはしない。だが、そうでないというのなら、俺には奴の挑戦を受ける理由がある」

「本当にそれでいいの? だけど、もしリヴァイアサンの性能スペックが設計計画のとおりだとすれば、じゃとても……」

「まだ始まってもいない勝負の結果をあれこれ思い悩んでも仕方ないだろう。俺とサラマンドラは全力を尽くすだけだ」


 力強く言い切ったユーリに、テオはこくりと首肯するのがせいいっぱいだった。


***


 午前五時ちょうど、異形の竜は悠々と飛行場に降り立った。

 かすかな朝日を照り返して銀色シルバーの金属地肌がきらめく。

 主翼から突き出た右の垂直尾翼にはヴァレンティアーノ自動車アウトモビリ、おなじく左の垂直尾翼にはカールシュタット・ザウアー合同設計局の社名がそれぞれ朱文字でおおきく描かれている。

 CaZ-205”リヴァイアサン”。

 推進プッシャー式の二重反転プロペラが停止したのと、細長い風防キャノピーが開いたのは同時だった。


「約束の時間ちょうどだな」


 航空時計パイロットウォッチから視線を外さずに言ったユーリに、リカルドは飛行帽とゴーグルを外しながら応じる。


「むろんです。ビジネスマンはいかなるときも時間厳守ですからね」

「軍人と運び屋も似たようなものだ」

「時間を守るクセがついている人間なら、次のにも苦労しないでしょう」


 リカルドは先尾翼を踏まないように主翼上に足を置くと、そのままユーリの傍らに降り立つ。

 トレードマークのサングラスごしに挑戦的な視線を向けながら、浅黒い肌の青年実業家はあくまでにこやかに語りかける。


「勝手ながら、あなたのことは調べさせていただきました。ユリアン・エレンライヒ大尉……それとも、とお呼びしたほうがよろしいですか?」

「好きにしろ。もう捨てた名前だ。どう呼ばれようとかまいはしない」

「では、エレンライヒ大尉。かつて空軍ルフトヴァッフェの若き撃墜王と讃えられたあなたがなぜ名前と素性を偽り、非合法モグリの運び屋をやっているのかは存じ上げません。しかし、ひとつだけはっきりしていることがある……」


 いったん言葉を切ったリカルドは、サングラスを外すと、敵意もあらわにユーリを睨めつける。


「過去の名声がどうあれ、いまのあなたはれっきとした犯罪者だ。おおかた世の中が平和になっても戦場のスリルが忘れられないといったところでしょうが、ザウアー主任までバカげた犯罪行為に巻き込むのはやめていただきたい」


 義眼が入っている右眼があかあかと燃えているように見えるのは、リヴァイアサンの機体に反射した陽光のためか。

 リカルドはなおもユーリをまっすぐ見据えたまま、罪人を弾劾する裁判官みたいに朗々と言葉を継いでいく。

 

「彼女はアードラー大陸の、いいえ、世界の航空産業の未来を担う人材です。クラウス博士以来の天才と言っても過言ではない。あなたのような戦闘機を飛ばすほかには能のない男に付き合って、たった一度きりの貴重な人生を棒に振っていい人間ではないんだ」

「そんなことは分かっている――――いちいち他人に言われるまでもない」


 ユーリは無礼な言葉に逆上するでもなく、あくまで坦々と言ってのける。

 面食らったのはリカルドのほうだ。

 てっきり殴りかかってくるものとばかり思っていた相手に、こうもそっけない態度を示されては、挑発した側のほうがいたたまれないのである。

 

「おまたせ――――」


 ふいに投げられた声が、その場を覆う奇妙な雰囲気を破った。

 ユーリとリカルドがともに声のしたほうに顔を向ければ、格納庫からリヴァイアサンのほうに駆けてくるテオの姿が目に入った。

 カーキ色の飛行用つなぎカバーオールに、不時着水時の救命胴衣を兼ねた黄色のショートジャケットといういでたちは、大竜公国空軍の爆撃機乗組員たちの定番ファッションであった。

 つなぎもジャケットもかなりだぶついて見えるのは、飛行場に残されていた戦時中の備品のなかでは一番ちいさいものを選んだとはいえ、もともと成人男性向けに縫製されているためだ。

 

「もうすこしちゃんとした格好のほうがよかったかな?」

「ご心配には及びません。ご存知のように、リヴァイアサンのコクピットは高度一万メートルでも酸素マスクを必要としない完全与圧式を採用しています。それは複座型になっても変わりません」


 さきほどまでの剣呑な態度とは一転、リカルドはあくまでにこやかに言うと、


「さて……準備が整ったところで、先日お話した賭けゲームを始めるとしましょうか」


 ユーリとテオをそれぞれ一瞥し、胸を張って語りはじめた。


「ルールはいたって単純です。アードラー大陸最北端のシャリュモ岬を回り、この飛行場に戻ってくること。先に到着した側が勝者ということです」

「シャリュモ岬までは片道三千キロはある。サラマンドラもリヴァイアサンも、行き帰りに一回ずつ給油が必要になるだろう」

「それについてはご心配なく。道中いくつかの民間空港ガス・ディーラーを手配しておきました。出発前に地図を渡しておきますから、座標をよく確認しておいてください」


 リカルドは得意げに言って、フライトベストのポケットから折りたたんだ地図を取り出してみせる。


「私が勝てば、わがヴァレンティアーノ社がこの飛行場を買い取り、ザウアー主任にはあらたに創設する航空部門の責任者に就任していただきます」

「俺とサラマンドラが勝ったらどうする?」

。私はこの一件から潔く手を引き、あなたがたはいままでどおりこの場所で非合法モグリの航空郵便社を続けることが出来る……」

「勝っても現状維持がせいぜいでは、俺たちにすれば割に合わない喧嘩だ」


 ユーリはべつに不平不満をぼやくでもなく、ただ思ったことを口にしただけだが、その言いようがリカルドのプライドを刺激したらしい。


のリヴァイアサンが旧式のサラマンドラに負ける可能性はかぎりなくゼロに近いのは大前提として、そのうえでひとつ報酬を提案しましょう」

「……」

「この飛行場をわが社がマドリガーレ政府から買い上げたうえで、無償であなたがたに譲渡します。そうすれば、今後は知らぬまに競売にかけられるような心配もなくなることでしょう」

「ありがたい心遣いだ」


 ユーリが言葉に忍ばせた毒気に気づいているのかいないのか、リカルドは愛機のほうに視線を移している。

 陽光のなか、リヴァイアサンは先ほどにも増して光り輝いている。


「出発は午前六時ちょうど。ザウアー主任には、副操縦士コ・パイロットとして私のリヴァイアサンに同乗していただきます――――」

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