郵便社の一番長い日(五)
七月十日は朝から快晴だった。
それもただ晴れているだけでなく、風はかすかな湿気をはらんでいる。
数値としては数パーセントの微々たる差にすぎないとしても、実際に操縦するパイロットの感覚にはおおきな違いがある。
カラカラに乾いているよりも、いくらか大気に湿りけがあったほうが
とはいえ、あまり湿度が高すぎると、こんどは機体の表面に水分がまとわりつくことで操縦感覚が悪化する。これもパイロット以外には理解しがたい感覚だ。
ほどよい気候に恵まれたこの日は、リヴァイアサンのお披露目にはまさしくおあつらえ向きといえた。
「いい? 離陸したら飛行場のまわりを右回りに三周。それから一万メートルまで急上昇。
リヴァイアサンの右主翼に立ったテオファニアは、手にした書類を事務的な口調で読み上げていく。
各種のテスト項目がずらずらと列記された書類は、もともと試験飛行の際に作成されたものだ。
通常の戦闘機なら面白みのないルーティンだが、常識はずれの異形をもつリヴァイアサンならば、そのままデモンストレーションの演目に転用しても充分に見栄えがするはずだった。
コクピットに身を沈めたリカルドは、慣れた手つきで計器類の最終点検を済ませながら、ふとテオファニアに問いかける。
「ザウアー主任、ひとつ頼みたいことがあります」
「なに?」
「もしリヴァイアサンの制式採用が決まったら、ぜひ複座型の機体を設計していただきたいのです」
怪訝そうな視線を向けるテオファニアに、リカルドはふっと微笑んでみせる。
「主任もご存知のように、リヴァイアサンにはこれまでの機体にはない独特のクセがあります。操縦に不慣れなパイロットが慣熟訓練をおこなうのであれば、教官といっしょに乗れる複座練習機があったほうが好都合でしょう。それに……」
「それ以外にまだなにかあるの?」
「これはあくまで私の個人的な希望ですが――――貴女をリヴァイアサンの後ろに乗せて飛んでみたいのですよ」
はにかみながら言ったリカルドに対して、テオファニアは解せないといった風に眉を寄せる。
「僕はべつに……自分が飛ぶのは興味ないから」
「そうおっしゃらずに。なにもかも知り尽くした機体で飛ぶというのも、なかなか気持ちがいいものですよ」
「君に頼まれなくても、複座型はそのうち作るよ。どうせ軍からも要求されるだろうしね。座席ひとつ分も機首を延長するとなると、動力伝達シャフトの強度試験と重量バランスの計算を一からやり直さないといけないのが面倒だけど」
「約束ですよ、ザウアー主任」
言い終わるが早いか、リカルドはすばやくテオファニアの指を取り、手の甲に軽くキスをする。
まるで犬に噛まれたみたいにすばやく手を引っ込めたテオファニアは、困惑と驚きがないまぜになった面持ちでリカルドを見つめている。
「リカルド、いったいどういうつもり?」
「今日のお披露目が無事に終わるように……というおまじないです」
離陸予定時刻が迫っていることを告げるサイレンが鳴り響いたのはそのときだった。
***
試験飛行場の一角に設けられたオリーブグリーンの
平均年齢は五十歳を超えるだろう男たちのなかにあって、白衣を着た少女の姿はいやでも目立つ。
ザウアー家の令嬢であり、リヴァイアサンの
やがて格納庫の暗がりからリヴァイアサンが姿を現すと、観覧席はにわかにどよもした。
この日、はじめてリヴァイアサンを目にした軍関係者の多くは、その異様な姿に驚きを隠せなかった。
無理もないことだ。新型機の概要はあらかじめ知らされていたものの、その姿は、彼らが見知ったいかなる航空機ともまるで異なっていたのだから。
コクピットの真横に配置された
無塗装の金属地肌が日差しを照り返し、まばゆい銀光を散らすリヴァイアサンは、別世界からやってきた未知の怪物のような趣がある。
「あんな形でほんとうに飛べるのか――――」
「……飛べるに決まってるじゃないか」
テオファニアはちいさな、しかし自信に充ちた声で応じる。
最高速度は時速八百キロ。
実用上昇限度はおよそ一万五千メートル。
一万メートルに到達するまでの所要時間は七分三十三秒。
武装は機首の四十ミリ機関砲一門にくわえて、両翼には三十ミリ機関砲を合計四門……。
速度も上昇力も火力も、
テオファニアが手がけたCaZ-205”リヴァイアサン”は、まさしく究極のレシプロ戦闘機と呼ぶべき機体だった。
リヴァイアサンは
試験飛行場の滑走路はあえてアスファルト舗装を施していない。施設の素性を秘匿し、さらには実戦での運用性をテストするためだ。
よしんばリヴァイアサンの量産が間に合ったとしても、ほとんどの機体は未舗装の滑走路しか持たない野戦飛行場から飛び立つことになる。
過酷な環境で多少手荒に扱われても、兵器として充分な性能を発揮しうることは、新型戦闘機に課せられた条件のひとつであった。
滑走路脇の
耳を聾する爆音が一帯に轟いたのは次の瞬間だ。
リヴァイアサンが前後の
串形に配置された液冷V型十二気筒発動機は、それぞれ単発では千六百馬力ていどの凡庸な機関にすぎない。
動力伝達シャフトで二基を連結することで、リヴァイアサンはゆうに三千馬力を超える巨大なパワーを手に入れたのだった。
発動機をふたつ搭載しているとあっては、双発爆撃機なみの凄まじい騒音が生じるのも当然だった。
リヴァイアサンは
尾部にプロペラを装備する特殊なレイアウトのため、その離陸姿勢はいきおい独特のものになる。
すなわち、通常の航空機のように機首を上げて離陸するのではなく、離陸速度に達したあともしばらく地上すれすれを這うように飛行し、プロペラが地面に触れないようにじょじょに高度を上げていくのである。
技術者としてリヴァイアサンの機体特性を知りぬいたリカルドは、あぶなげなく離陸を成功させる。
事前の打ち合わせどおり、リヴァイアサンは空におおきく弧を描くように右旋回。
二度目の旋回のさなか、木の葉が風に踊るみたいに機体の上下がひらりと入れ替わった。
リカルドは背面飛行を演じようというのだ。それも、二度三度とせわしなく
予定にない
「勝手なことをして――――」
抗議とも呼べないぼやきは、高官と重役たちの驚きの声にかき消された。
リヴァイアサンの並外れた運動性を目の当たりにしたことで、奇抜な形状からくる先入観はすっかり払拭されている。
それどころか、彼らはすっかり異形の新型戦闘機の虜になったようだった。
この調子でお披露目が終われば、近日中に正式な生産契約が結ばれるのは確実だろう。
この戦争が終わるまでにどれだけのリヴァイアサンを前線に送り出せるかは未知数だが、ともかくも、第七課がはじめて手がけた機体が実戦投入されることはまちがいないのだ。
それしきのことで喜ぶのはバカげていると思いながら、テオファニアは期待に胸が高鳴るのを認めざるをえなかった。
そうするあいだに、リヴァイアサンは三度目の旋回を終え、上昇に入ろうとしている。
四十五度ちかい高仰角を取った機体は、地上からはほとんど垂直に天空へと駆け上がっていくようにみえる。
リヴァイアサンの上昇性能に問題がないことはこれまでの試験飛行で分かっている。
リカルドほどの腕前なら、万に一つも予期せぬ
みるみる高度を上げていく銀色の竜を見逃すまいと、男たちはいつのまにか
テオファニアが天幕を出たのは一番最後だった。
滑走路にむかって数歩も進んだところで、白衣の少女ははたと足を止めた。
不吉な悪寒が背筋を走り抜け、金縛りに遭ったみたいにその場から動けなくなったのだ。
たんなる思いすごしではない。
「ここにいたら危険です!! いそいで避難を――――」
声を枯らして叫んだ直後、リヴァイアサンが見えてきた。
銀色の機体の外観は、ほんの数分前までとはおおきく異なっている。
右の垂直尾翼は根本から完全に脱落し、左側もほとんどちぎれかかっているのだ。
外板一枚でかろうじて繋がっている状態とはいえ、
いかにリカルドでも、主翼のフラップと
なぜこうなったのかは見当もつかない。
それでも、現実に事故は発生し、機体は無残なほどに破損している。
原因究明よりも、いまはすこしでも被害を軽減するために動くのが先決だ。
それはリヴァイアサンの開発責任者としてテオファニアに課せられた義務でもあった。
転瞬、快晴の空に雷鳴を思わせる轟音が響きわたった。
むろん本物の雷ではない。
リヴァイアサンの
コクピットのすぐ後ろから引き裂かれた銀色の竜は、空中でさらに細かく砕け、燃えさかる破片となって降りそそいだ。
最先端技術の粋を集めた異形の新型戦闘機は、あっけなくこの世から消滅したのだった。
呆けたように立ち尽くす軍高官と重役たちを尻目に、テオファニアはとっさに駆け出していた。
破片に混じってオレンジ色の
ふと背後を振り返れば、けたたましいサイレンを鳴らしながら一台の消防車が近づいてくる。
テオファニアは迷うことなくその荷台に飛び乗っていた。
***
国防委員会からCaZ-205”リヴァイアサン”の開発凍結が示達されたのは、一九四五年の八月初頭のこと。
事故発生からというもの、夜を日に継いで原因の究明に当たり、それと並行して設計上の問題点の洗い出しを血まなこになって進めていた第七課にとって、それはすべての努力が水泡に帰したことを意味していた。
事故の影響は第七課だけに留まらない。
戦局打開の切り札と目されていたリヴァイアサンが失敗したことで、カールシュタット・ザウアー社の航空機メーカーとしての命脈は断ち切られたのだ。
今後は新型機の開発を中止し、前線部隊への部品供給に注力せよという正式な辞令が下ったのである。
それもポラリア軍の爆撃によって鉄道と道路網が寸断された現下の状況では、いたずらに工場に積み上がる在庫を増やすばかりだった。
リヴァイアサンの顛末についてなおも述べる。
事故が発生してからまもなく、関係者には厳重な箝口令が敷かれた。
新型機が墜落したことが露見すれば国民の士気が低下し、ひいては戦争遂行の妨げになるというのがその理由だった。
搭乗していたリカルド・ヴァレンティアーノはかろうじて一命をとりとめたものの、落下の衝撃で全身を骨折したうえ、ガソリンを浴びたことで背中に深刻な熱傷を負い、さらに風防の破片で右目を失明するという重傷を負った。
マドリガーレ市内の空軍病院に搬送された彼は、そのまま長期入院を余儀なくされたのだった。
事故原因の聞き取り調査をおこなおうにも、半死半生の怪我人から有益な情報を引き出せるはずもない。
ほどなくして、マドリガーレの港町に疎開したカールシュタット・ザウアー社はポラリア軍の艦砲射撃と爆撃を受けた。
工場や社屋は跡形もなく破壊され、完成していたリヴァイアサンの試作機はことごとく失われた。
本社に勤務していたテオファニア・ヴィルヘルミーナ・フォン・ザウアーは、この混乱のなかで行方知れずとなった。他の社員たちが防空壕に避難するなかで、彼女は研究資料を持ち出すためにオフィスに向かい、そのまま戻らなかったのである。
そして、終戦から一年あまりが経過した一九四六年の秋。
ようやく自力で歩けるほどに回復したリカルド・ヴァレンティアーノは、病院からひっそりと姿を消した。
戦火に散った若き天才技術者を追悼する記事が地元新聞に掲載された翌日のことだった。
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