郵便社の一番長い日(四)

 薄明かりが夜更けの廊下を照らしていた。

 灯火管制のための布覆いをつけられた電球は、遠目にはまるでスカートを履いた人形をいくつも天井から吊るしているみたいに見える。

 一見すると滑稽だが、しかし、けっして笑いごとではない。

 ポラリア軍機はいまやアードラー大陸のあらゆる場所に来襲するようになっているのである。

 とくに夜間の照明は空襲の格好の目印となることから、軍当局によって厳しく制限されている。どうしても灯りを使う必要がある場合は、カーテンを締め切ったり、電球にスカートを履かせるなどの対策を徹底することが求められた。

 マドリガーレに疎開したカールシュタット・ザウアー合同設計局もむろん例外ではない。


 湯気の立つコーヒーカップを手にしたリカルド・ヴァレンティアーノは、足音を立てないよう慎重に廊下を進んでいく。

 やがてかすかな光が漏れるドアの前に立ったリカルドは、低い声で問いかける。


「ザウアー主任、ヴァレンティアーノです――」


 わずかな沈黙のあと、ドアの向こう側でコツコツと軽い音が響いた。

 部屋のなかにいる人物がペン先で机を二度叩いたのだ。

 それが入室を許可する合図であることを、リカルドはよく知悉していた。


「お疲れさまです、主任。すこし休憩なさってはいかがですか」


 リカルドの視線の先に佇んでいるのは、だぶだぶの白衣をまとった少女だ。

 女性らしさとはほど遠い華奢な体つき。

 クセのついた長い黒髪はうなじのあたりで適当に束ねられ、のたくった獣の尻尾が垂れているかのよう。

 机に向かう背中は猫みたいに丸まり、もともと小柄な体躯をいっそうちいさく見せている。

 科学者の仮装をして悪ふざけをしているようなこの少女が、英才ぞろいの設計第七課でも並ぶもののない知性の持ち主だとは、事情を知らない人間には到底信じられないだろう。


 テオファニアはリカルドのほうにほんのすこし顔を向けると、

 

「ありがとう。あとで飲むから、そのあたりに置いといて――」


 とだけ言って、ふたたび机の上に広げられた設計図面に目を落とす。

 リカルドは言われたとおりにコーヒーカップを机の片隅に置きながら、ちらとテオファニアの手元を覗き込む。


「リヴァイアサンの設計図ではありませんね」

「だったらなんだっていうの?」

「いえ――ただ、明日には初飛行だというのに、ほかの機体を熱心に調べていらっしゃるのがすこし意外に思えただけです」


 テオファニアはやはり机に視線を落としたまま、指先で図面を手繰っていく。


「自分が設計した機体のことなら、いちいち図面なんか見なくてもぜんぶ頭に入ってる。いまさらそんなことをしても無駄ってことだよ。僕は意味のないことをするのは嫌いなんだ」

「では、いまなさっていることは特別な意味があると……そういうことですね? ザウアー主任」


 試すように問いかけたリカルドに、テオファニアはだまって図面を差し出す。

 方眼紙に描かれているのは、機体のごく一部をおおきくクローズアップした三面図だ。

 ふつうの人間には、得体のしれない機械の断片としか見えないだろう。

 リカルドは悩むこともなく、ほとんど無意識に口を開いていた。


「サラマンドラ、それも最初期に生産されたAシリーズですね。主桁と縦通材ロンジロンのレイアウトを見ればすぐに分かりますよ」


 テオファニアの返答を待つまでもなく、正解であることは分かりきっている。

 カールシュタット・ザウアーの技術者であれば、その程度のことは即座に答えられなければ話にならないのだ。

 班長であるリカルドでなくても、第七課のメンバーなら誰でもおなじように即答してみせただろう。


「しかし、なぜいまさらサラマンドラの図面を?」

「さっき自分が言ったことを忘れたの。僕がそうするのは、意味があるからだよ」

「どうも腑に落ちませんね。サラマンドラが傑作機であることは異論の余地もありませんが、技術的には旧来の航空機の枠を出るものではありません。貴女が設計したリヴァイアサンに比べれば、前時代の化石と言ってもいい――――」


 言い終わらぬうちに、リカルドは「しまった」というように目を伏せていた。


「大変失礼しました……おじいさまの、クラウス会長の遺作にむかって……」

「べつにいいよ。はたしかに僕の祖父だけど、血縁上そうだというだけだもの。祖父らしいことをしてもらった記憶もないしね」


 CaZ-175”サラマンドラ”の設計主査チーフエンジニアは、戦闘機設計の大ベテランとして知られたアレクサンデル・ゴダロフ技師長とされている。

 すくなくともカールシュタット・ザウアー社が作成したサラマンドラに関する公的資料には例外なく彼の名が筆頭に記され、対外的にもそのように認識されている。

 もっとも、あくまで表向きそうなっているというだけにすぎない。


 ゴダロフが重い肺病を患い、実際の設計に関与することなく療養生活に入ったことを知っているのは、社内でもひとにぎりの人間だけだ。

 設計主査が突如現場を離脱するという不測の事態に、サラマンドラの設計チームは大混乱に陥った。

 取り急ぎ代わりの人材を手配しようにも、こと戦闘機の設計に関しては、ゴダロフに比肩するベテランは社内に存在しなかったのである。

 どんな事情があるにせよ、軍用機メーカーにとって納期の遅れはぜったいに許されない。

 発注主である軍の信頼を失えば、競合他社の躍進を許すことにもなる。


 やがてゴダロフの代わりにサラマンドラの設計主査に就任したのは、誰も予想していなかった人物だった。

 カールシュタット・ザウアー社の名誉会長クラウス・フォン・ザウアー博士その人である。

 かつて物理学者ヨハン・カールシュタットとともに世界ではじめて航空機を実用化したクラウスは、半世紀以上におよぶキャリアのなかで数々の傑作機を世に送り出し、航空業界の巨匠マエストロとして不動の名声を得ていた。

 ここ十年ほどは設計の現場から遠ざかり、もっぱら回想録の執筆や大学での講義をおこなっていたクラウスは、直弟子であるゴダロフの代役をみずから買って出たのだった。


 クラウスがみずから陣頭に立つことに、現場からはすくなからず戸惑いの声も上がった。

 いかに業界で並ぶもののない偉人といえども、すでに八十歳を超えた老体であることに加えて、ながらく設計から遠ざかっていたブランクもある。

 航空業界において技術の発展はまさしく日進月歩。今日の最新技術が明日には陳腐化するかもしれない世界なのだ。

 技術者エンジニアたちは最先端の知識を追い求め、時代に取り残されまいと研究に打ち込んできたのである。

 そんな生き馬の目を抜くような業界にあって、現役から退いた人物がその能力に疑問を持たれるのは当然でもあった。


 そうした懸念の声は、しかし、実際に開発が始まるとぱったりと熄んだ。

 もっともらしく最新技術の重要性をうそぶいていた技術者たちは、みずからの見識の浅さを思い知らされたのである。

 クラウスが図面上に描き出してみせたのは、これまで誰も見たことがない美しい戦闘機だった。

 ただ美しいだけではない。大火力と高速を実現しながら、軽快な機動性とすぐれた操縦性をも兼ね備えたサラマンドラは、これまでの重戦闘機の常識――火力と速度は優れていても空戦能力は劣悪――を覆すものだった。


 もちろん最新技術の恩恵もある。

 軽量で強度のある新素材をふんだんに使用し、あらたに実用化された電気駆動システムを大胆に採用しなければ、要求性能を満たすことは出来なかっただろう。

 しかし、サラマンドラが卓越した飛行特性を発揮したのは、そもそも航空機としての基本的な設計がすぐれていたからだ。

 どれほど先進技術を盛り込んでも、空力的に無理がある機体は、実際には使いものにならない。たとえ数値上の速度や旋回性に秀でていても、機体を運用するにあたってさまざまな問題が噴出するのである。

 クラウスは、スロットルや操縦系の応答性レスポンス、機体からパイロットへのフィードバックといったカタログスペックには表れない性能にこそ精魂をかたむけた。

 それは老エンジニアがこれまでの人生で培ってきた技術と経験の結晶にほかならなかった。


 サラマンドラの試作機が初飛行に成功してまもなく、クラウスは心臓発作によって急逝した。

 享年八十七歳。航空機の歴史を創った男は、人生の集大成ともいえる作品を作り上げたあと、戦争の行く末を見届けることなく世を去ったのである。

 奇しくも孫娘テオファニアがカールシュタット・ザウアー社に入社した数日後のことだった。

 

「なにかが足りない気がするんだ……」


 テオファニアはサラマンドラの図面を睨みながらひとりごちる。

 リヴァイアサンの性能には絶対の自信がある。偉大な祖父が設計したサラマンドラにも負けはしないだろう。

 しかし、こうしてサラマンドラの設計図を眺めていると、言葉に出来ない違和感がこみ上げてくる。

 それが喉に引っかかった小骨みたいにテオファニアを悩ませているのだった。


 リカルドは壁にかかった時計に目をやる。

 時刻はまもなく深夜二時を回ろうとしている。

 納期が迫った時期には夜どおし作業にあたることも珍しくないが、今日はテオファニアとリカルドのほかには居残っている人間はいない。

 

「ザウアー主任、そろそろお休みになったほうがよろしいのでは?」

「それは僕の台詞だよ。せっかくの初飛行なのに、が寝不足じゃ困るからね」


 明日の正午、リヴァイアサンはいよいよ初飛行を迎える。

 初飛行とはいうものの、機体がはじめて空を飛んだのは二週間ほどまえのことである。それからポラリア軍の目を盗むようにして三回の試験飛行をおこない、基本的な性能に問題がないことは確認済みだ。

 明日催されるのは、会社重役や軍関係者を招待したいわばお披露目イベントだった。

 リヴァイアサンはすでに三機が完成し、格納庫ハンガー内でいまやおそしと飛び立つときを待っている。

 リカルドがみずからテストパイロットに志願したのは、自分たちが設計した機体への愛着にくわえて、誰よりもうまく飛ばしてみせるという自信のあらわれでもあった。


「お言葉に甘えて、私は先に失礼させていただきます。主任もどうかご無理なさらないでください――」


 リカルドは自分のコーヒーカップを手に取ると、そのまま部屋を出る。

 去り際にわずかに振り返れば、ちいさな白衣の背中は、ふたたび机に向かって丸くなっていた。

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