第5章 Mea<罪悪>

 かつて神は爪を立てこの世界を3つに引き裂いた。神によって着けられた美しい足枷は誰にも外せはしない。力という鎖に引き摺られて行く。夜は明けない。

今、立ち竦む月の雫が闇へと溢れ堕ちた。

その感情は希望を持ってこの世界に救いを求める、とは程遠かった。犯された痛む想いが、もう何も残ってなどいないと死に縋り付くように終わりを求めるものであった。いっそ、切り裂かれ溺れたいと。

神の意に反する、それは死をもって償うことを意味する。それがこの世界の掟。救いとは神の意思。神によってのみ与えられるものなのだ。


能天使のみ開けることを許された重い扉を押し開いたアモー。魔界に初めて降りた彼女は扉を閉めた。この扉は天界側からのみ開けられる。扉が閉まった途端魔界から光は消えた。その一瞬の光に気が付いた者は居なかった。ただ一人を除いては。

光と影は如何なる時も対となる。今、引き離された光と影が混じり溶けた。


手を伸ばす光と影。

「わ、私と……逃げて。逃げてください。私を救って?」

天使と悪魔の言葉は熾天使以外伝わることはない。それでも言葉ではない何かが触れ合った。天使の頬を伝い彼が泡となり散った海に溶け込む感情は言葉がなくとも悪魔には伝わった。叫んでも叫んでも彼に届かなかったものが悪魔には伝わった。

「私はこんな世界の為に生きたくない。」

鬼哭のように風が鳴る。法を犯すなど簡単なことだった。誰もが知る平均血の違背。泣く幼子をあやす様に悪魔は血に染まる手を差し出した。天使もまた手を伸ばす。鮮紅の血が宙を舞う。





16世紀前半ヨーロッパの日脚ひあし

一人の子供が女にぶつかった。

「おい、今林檎取られたぞ。」

「一つぐらいいいじゃないの」

「そういうのが募ってうちも金が足らなくなるんだよ」

「そうかしら?わたしは十分よ」

「降りる時に金目の物の一つ二つ持ってくりゃ良かったんだ。下界なんて金次第ぐらい分かってたろ」

「うわ酷い。貴女が下界に上がってくれるなんて思わなかったんだもん」

「ん?じゃああたしがこんな美人だったとも思わなかったかい?」

「そうね、でも目付きが悪すぎるわよ中身と違って」

「何にやけてんだよ、気持ち悪りぃ」

アモーは部屋に帰るなりバスケットの中身に手をつけた彼女の向かい側の椅子に腰をかける。左手で頬杖をついたアモーは彼女を微笑ましそうに見つめる。彼女はアモーの癖を知っていた。必ず左手で頬杖を付くことも、そして唇をそっと薬指に当てることも。

「仕事行って来る。」

彼女は立ち上がった。そしてもう一つ、そのアモーの癖に目を逸らす自分がいることも知っていた。


*****


あたしはこの地上の街に逃げてからずっと知っていた。そっと指輪をはめた指元に口付けするあんたが嫌いだ。哀しみを封じ込めた瞳。雄弁に物語る視線が痛い。天使に聴かせる様な綺麗な慰めだの励ましの言葉なんて見当たらない、だから。だから見て見ぬ振りをする。そんな卑怯を許してくれる彼女を何故誰も救わない…。

何も起こらない日々が彼女を支えているのか分からないが、あの日堕ちて来た時に感じた死を望む色は少なくとも瞳から消えていた。

彼女はこの世界のことを何も知らない。私は人間に触れてきたから彼女よりは色々知っていた。人がどういう人生を送ってきたのか触れれば分かる能力は当たり前だが人間になってからは消えた。この世には知らなくて良いことが沢山ある。それは下界だろうと天界だろうと魔界だろうときっと同じだ。

仕事帰り、満月を見ながらそう思った。

あたしはセラフィムも知らなかった事を知っている。彼は追って来はしない、多分。

私が触れてきた人間達の中で面白い人生な奴の話を夜彼女に一つずつ話していた。千夜一夜物語の真似事をしてみるもの悪くない。今日でちょうど101日目。今日はあの話をしよう。彼女の隣に腰を掛ける。寝床は固くて冷たかった。でもそれで十分だ。


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