第7章 odio<憎悪>

バゲットの焼ける芳ばしい香りが鼻をくすぐり目を覚ました。

「おはよう」

「ぉはよー」

「良く寝れた?」

「まぁな、そっちは?」

「うん、まぁね」

毎日変わらぬ一連の会話。ついでに良く寝れたことなんてお互いに一度もない。それでもお互いに良く寝れたと返し合う。特に意味はない。ただ私は彼女が夜に怯えているのを知っている。哀しみの向う岸にある幸せを浮かべて眠っているのを知っている。

「今日はやけに豪華だな」

「だって今日から私も仕事じゃない⁈」

私に向けられたその笑顔は、いっそのこと壊してしまいたい様な守ってあげたい様な儚くて美しい、そんな、心をどちらにしても揺さぶられるものだった。アンタは人を惹きつける魅力があるよ、良くも悪くも。彼女の何がそれ程までに魅力的なのかわからない。確かに彼女は美しい。でもそれだけではない、手を伸ばし引き寄せたくなる様な何かがあるのは私でも分かった。清水があれば手を浸けてみたくなる、あれと似ている。

朝ご飯はバゲットとスープ。オートミールばかりの私達には充分豪華だった。ふと顔を上げると彼女はまた左手の人差し指の付け根を…指輪を撫でていた。

「どした?関節でも痛めたか?」

私の声に我に帰った彼女は慌てて首を振りバゲットを口に頬張った。

ごめん……

意地の悪い事を言ったことぐらい分かってる。謝りたい。時々思うんだ、誰に思いを伝えたら心が満たされるんだろうかって。いるはずもないその誰かを心がさがしてしまう。


*****


私は随分と鯨骨げいこつ職人の爺さんの小者も手についてきた。アモーを妹って事で紹介させて貰えた。今日から二人で世話になる。

「初仕事に悪いが今日は都だ。せがれについて行って売り子の手伝いだ。」

爺さんの指示で若旦那と共に馬車で都に行った。馬車に乗るのも都に行くのも初めてだった。鯨骨細工は良く売れるらしい。それにコルセットにも使われるから都に行けば需要が高い。鯨骨細工を見ていると天界を思い出しちまう、私はいいがアモーは楽しくはないだろう。でも雇ってくれるのはここぐらいだし爺さんは私達に良くしてくれる。


*****


次の日の昼間都から帰り、若旦那の荷解きを手伝ってから私は爺さんの作業を手伝いアモーは掃除をしていた。都っていうのは疲れるもんだ、馬車に至ってはガタガタガタガタと最悪だ。物思いに更けているとに爺さん話しかけられた。

「倅が妹さんに気があるみたいじゃな」

「若旦那とアモーじゃ釣り合わないですよ。」

「安心しろ。お前さんの大事な妹さんを貰う気なんざないさ。見ればわかるさ」

そういうと爺さんは作業を一瞬止め自分の薬指を私に見せた。理由は分からない、だけど確かに胸が痛んだ。

「ここらじゃ見れんような上等な指輪じゃな、何故こんな街にいるか不思議なぐらいだ」

「幸せってのはいつか終わる。それだけの話です。」

嫌な所を突っ込まれた。もっと嫌なのはこの話をアモーに聞かれた事だ。一度も触れたことが無かった話を。

「棚の片付け終わりました。………神様のご意向ですから仕方ありませんよ。」

何か言わなければと思ったのだろう。彼女は悲しそうに笑った。

「神様はそんなことすらお決めになられるのか。幸せは掴んだ瞬間から終わることが約束されている。神様も随分とお人が悪い。幸福は消えるものではない。いつだって幸せがなくなる時は奪われてるんじゃな。」

どんな話が始まるかと思えば……何を言い出すんだ。

「何故そう思われるのですか?」

そう聞き返したアモーに、止めろという筋合いは私にはなかった。

「少なくとも儂は手放したり何処かに落として来た記憶がないからじゃ。妻が殺された時も娘を連れて行かれた時も」

家族を殺されたり誘拐されたって話はここらじゃ偶に聞く話だった。爺さんの寂声さびごえだけが心に波紋する。

「奪った者を憎めばいい。だが、それと同時に守れなかったのは己だという事も忘れるでない。」

アモーは何も悪くない。爺さんは自分の話をしたかっただけだ。そうは言ったものの今日の夕飯は不味かった。

静か過ぎる夕飯に耐えられず彼女に声を掛けた。

「大丈夫か?」

あっけない程笑顔で頷かれた。万遍で歪な笑みだった。言葉の裏側が透けている。

やめろ、そんな顔するな。

ちゃんと笑えてないんだよ。笑ってんのに目から涙溢れたんだよ。

だからもう笑うのやめろよ。

こっちの方が耐え切れなくてぶっきらぼうに立ち上がった。彼女の二の腕を思いっきり掴んで引き寄せた。驚くように彼女が私を見る。もう笑ってはいなかった。

「アンタは優し過ぎんだよ。もう、いいじゃないか。」

なんか声をかけないといけない気がした。

「どんな時も命ある限り神に忠義を尽くし、人を慈しみの心を持って導く。それが私達の宿命。私が葡萄の宮に仕えて最初に教わったこと。」

「もう天使じゃないだろ。」

まただ。彼女は左薬指を右手で包み込んでいた。

「エクスシア……」

語尾が甘くふやけて広がって行く。彼女は私となんか会話してないのかもしれない。

「もう天使じゃないだろ?天使のまま本当は私に殺されたくて堕りてきたんだろ?天使ってのは皆揃って嘘つきなんだな」

つい苛ついてバカなことを言ってしまった。怖くて彼女の顔を見れなかった。

「ねぇ。なんで?なんで?こんなになっちゃったの?ねぇ神様。私なんかした?なんでこんなに……私から全てを奪って何がしたいの?何かの試練なの?何かの意味があるんでしょう?じゃないと私こんな世界に生きてる意味がわかんないよ!」

彼女が取り乱しているのを初めて見た。優しい彼女の慟哭どうこく。後どのぐらい涙を流したら許して貰えるのだろうか…一体何の罪があるっていうんだ。

清水に手を漬けてみたくなる衝動が清水を汚している。そしてその事に誰も気が付いていない。

思わず彼女を抱きしめた。慰めの言葉も励ましの言葉も何も浮かばず、自分の体温だけが上がって行く。

夜更け。堕天使アモーの慟哭だけが冷たく響いた。

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