第2章 Angelus<天使>
楽園。そこはそれ以外の言葉では人間の言語で表せない、そんな場所であった。神と下界を繋ぐ柱、神通柱に造られた天界の地。
神はかつて一つであったこの世界を天界と下界の二つに分けた。人間の一部を神と人間界を繋ぐ神通柱の番人にするために。天界に選ばれた人間は翼と力を与えられ、天使となったのだった。だがいつの時代も、どの世界でも力を持てばそれを悪用し始める者はいる。その者たちは神に裁かれ堕天使として下界の海に堕とされた。翼をもがれ足を封じられ陸で生きることのできないように。堕天使達に与えられた名はセイレーン。その存在は下界では不確かな物とはされていたが船が戻らぬ海域には
天使は九つの階級に分けられた。順に熾天使、智天使、座天使、主天使、力天使、能天使、権天使、大天使、一介天界。そして天界は神通柱を軸に螺旋状三部九段構成となっていた。神の御告げを受ける熾神殿が中央にある熾天使の宮殿六ノ宮、智ノ宮、座ノ宮から成る上位三隊段。中位三隊段。下位三隊段と。
≪天使の階級と役所とその宮≫
<上位三隊段>
*
*智ノ宮…智天使の宮殿である智ノ宮には黄金の林檎のなる林があり、エデンの宮と呼称される。
*座ノ宮…神の戦車を運ぶ座天使の宮。その為庭にペガサスがおり、馬の宮と称される。
<中位三隊段>
*主ノ宮…神の威光を知らしめる為働く主天使の宮。裁き宮とも。
*力ノ宮…自然の力を操る力天使の宮。その力で季節に問わず花が咲いている為園の宮と呼称される。
*能ノ宮…堕天使から天界を守る魔界の管理者、能天使の宮。葡萄の木が多く八つの宮の中で最も美しいとさせている。葡萄の宮とも。
<下位三隊段>
*権ノ宮…魔界から人間を守る権天使達の宮。
*大ノ宮…天界と下界を繋ぐ使者、大天使達の宮。
*広場…一介天使達の住処。
能天使エクスシアが司った六段目の楽園は、純白のエンタシスの柱に絡み付いた黄金に輝く葡萄の実が熟していた。吹き抜けの城の中央には金細工のあしらわれた玉座が威厳を放っている。そこに座っているエクスシアの膝に抱かれている一介天使はまさにコケティシュの権化のようだった。
湯上りのような少し熱を含んだ柔肌に濡れ色の唇。肌に張り付いた絹は彼女のプロポーションを妙に引き立たせる。本来なら名を与えられぬ一介天使にエクスシアはアモー*と名付け扇情的な彼女に骨抜きになっていた。一介天使達の間では八段に分かれる宮殿のうち一番美しいとされる能ノ宮、その美しさから葡萄の宮とも称される段の主にただ一人愛された女として、彼女を葡萄の姫君と呼ばれていた。
キュビキュルム*の天蓋から降りるレースの隙間から漏れる光の粒がエクスシアと彼女の寝顔を照らし始めた。眩しさに目を覚ました彼女はエクスシアを優しく揺すり起こす。彼は一向に起きる気配がないどころか
「ねぇ、今日は評議会でしょ?起きなきゃだめよ。」
布団を彼から剥ぎ取りゆすり起こす。そんな彼は眩しそうに薄目を開けて自分を覗き込んでいる彼女の首に両手を回し抱きしめる。
「ねぇ評議会の後でセラフィム様に報告に行くんでしょ?」
彼の腕の中で幸せに満ちた茶色の大きな瞳で彼を見つめた。彼もまた、愛おしそうに彼女を見つめながら、ああ。と相槌をうち彼女の唇にキスを落とす。彼は自分の体の上に乗っかっている彼女を抱きしめたままうつ伏せになった。
ほんとにやめてって、重いって。もうちょっとぐらいいいじゃないか。だぁめ。お堅いなぁ。
城の中は他の誰も入り込む余地の無いほどの二人の愛と幸せで溢れかえっていた。
暖かな日差しがベールのようにその空間を包み込む。
*****
「これにて評議会を終了とする。」
セラフィムの一声に8人の天使達は立ち上がり、セラフィムも熾神殿の出口へと向かう。
「お待ち下さい、セラフィム様。少しよろしいでしょうか?」
セラフィムを引き留めたエクスシアは自分の神殿使えの一介天使の一人と結婚すると決めたことを話し始めた。
「あの、あそこに座っているでしょう?あの薄茶色の髪の。彼女です。」
ギリシアのアテネ神殿いや、それを越える美しさを持つ熾神殿の庭。そこに咲き乱れる花々に美しい彼女はよく映えていた。
熾神殿の中から彼女の方をエクスシアは愛おしそうに見つめる。彼の
「…美しい…良いではないか。噂には聞いていたがそれ以上に美しい娘だな。今度私の六ノ宮にでも遊びに来させるがいい。」
「本当ですか?ありがとうございます。」
若いエクスシアは嬉しそうに頷いた。それから、六ノ宮に帰ったセラフィムは鎮まり帰った広間の冷たい石造りの玉座に腰をかける。
「良い女だ。実に良い女だ。この白一色の城にも花が欲しかったところだ。一介天使の分際でこの熾天使の心を一瞬にして奪うとは罪な女だ。あぁ、なんだこの気持ちは。こんな感情を誰かに抱くのは初めてだ。この世の全てを焼き尽くしてでも手に入れたい。彼女が頭から離れない。美しい。美しい。」
唯一、炎を司る熾天使は全身を炎に包まれている。その炎は神への忠誠心に燃える熱い心からだと言われている。今まで彼は命の限り神へ忠義を尽くしてきた。そんな彼は今初めて情慾を知った。没我の境に陥るほどに。
独り、広間で燃える翼体を覆うセラフィムは笑っていた。彼は生まれて初めて全身で渇きを感じたのだ。
渇き。それ程人を闇に染める魔物はいないだろう。悪魔とは本来全ての人の中に飼われているものなのだ。
*****
「今日は降りる日だから、遅くなる。」
「えぇ、気を付けて下さいね。」
「お前も粗相のないようにな。でもまぁ心配ないだろう、セラフィム様はどうやらお前の事を気に入ってくださったようだ。きっと明日にでも許可をくださるよ。」
「そしたら、直ぐに花園でウェディングね。そうね、きっと許可してくださるわよ。」
鏡台に座るアモーの肩にエクスシアが手を掛けた。
「あぁ、勿論だよ。こんなに君は美しいんだ。綺麗だよ。」
エクスシアは前屈みになり、そのまま彼女に口付けをした。
「こんなに可愛いんだ。嫉妬されちゃうかもな!」
自分の冗談に笑っているエクスシアの肩に置かれた手を握り彼女は上を向いて彼の顔を見た。
「ほんとにそんなことになっても私は貴方だけのものって分かってるから逆に嬉しいんでしょ。」
上を向いている彼女の額に頭を下ろしエクスシアは笑った。
「お見通しかい?少しぐらい自慢したって罰は当たらないさ!じゃあ行ってくる。」
軽やかなステップ混じりの足取りで出て行くエクスシアを見送ったあと彼女も六ノ宮へ行く支度をした。飾り帯の付いた純白のシルクのキトン*を彼に貰った純金のブローチで肩を留め、髪には生花をあしらい、金細工を手と首にも付けた。これが一介天使の最大の正装であった。
「ヒエラルキー第六段能天使治める能ノ宮に仕える一介天使アモーと申します。今日はお呼びいただき誠にありがとうございます。」
見られぬ宮の冷たい床に膝を付いた彼女は肩を縮こまらせた。
「堅苦しい事は良い。表を上げよ。」
彼女が恐る恐る額を上げると、そこには石造りの玉座に金細工の施された紫色のキトンを纏ったセラフィムが片膝を立て、その上に頬杖をついていた。彼女を見つめ少しの間を置いてから立ち上がる。
「少し遠いが熾神殿でも案内しよう。なにせ花籠とも言われるほどに殺風景でここにはお見せするほどのものは何もないんだ。すまないね。」
セラフィムはそう言うとアモーを連れて熾神殿を訪れた。九段の螺旋状の宮の上に建ち、唯一神通柱が建物内に通っている熾神殿は熾天使の許可が無ければ立ち入る事が出来ない。八位までの天使でさえ評議会の時のみ許され、一介天使のほとんどは一生に一、二度見る事ができるかどうかだった。一介天使の中でも直々に八位の天使に仕える者が評議会時に庭入れるぐらいだ。
もし中に入れるとしたら八位の天使の冠婚葬祭のみだった。今回はその婚儀の許可をとりにアモーも訪れたのだった。そんな熾神殿の中をセラフィム直々に案内してくれると言うのだ、アモーは粗相の無いよう平然さを必死に装っているも、セラフィムの前で無ければステップを踏んでいただろうと思われる程その表情は喜びと期待に満ち溢れていた。
*****
六ノ宮に戻って来た二人。奥の間でしばらく話をしていた。一連の社交辞令を交わしアモーは帰ろうと腰を上げた。疲れ切ってはいたが結婚の許可を得て上機嫌であった。最後まで能天使の名に恥じぬよう満遍の笑みでセラフィムに挨拶をした。そのなんとも愛らしい笑みに吸い込まれるように惹かれたセラフィムは無意識にも彼女に寸前まで近づいた。
「やはり結婚は認められぬ。そなたにはテュロス*の貝紫*がよく似合う。」
穏やかで威厳のあったセラフィムの目は血走り広げられた六枚の翼は一介天使の目にはあまりにも威圧的に写った。そのまま彼はアモーの手を強引に掴み、驚きで突っ張った彼女を無理矢理アルコーブ*に引き摺り込み彼女を突き飛ばした。
天蓋から降りるレースが揺れる。
突き飛ばされた弾みでアモーはヘッドボードに頭を打ち付ける。
慌てて起き上がろうとするもクッションが多く手元を取られ思うように体を立てられない。
睨み付けるような目を彼女に向けながらセラフィムはゆっくりと閉じていたレースを引いた。静まり返る部屋にレールの引かれる音だけが響く。彼女は意味も分からず、恐怖で固まっていた。まだ瑞々しいしい髪に付けていた色とりどりの生花はシーツの上にバラバラに崩れ散らばっていた。膝を突き前のめりになったセラフィムはそっと折れた花びら達を下に払い除ける。一連の動作を彼女は釘付けになる。
セラフィムはグッと彼女の顔に近づき、腕をアモーの首に掛け引き寄せた。傾きかけた太陽が反射し、白い陶器のような肌はほのかに朱色に色付く。それは彼女の心と裏腹に彼の劣情を煽り立てた。セラフィムはまた、痛い程に手首を掴む。自分の置かれている状況が飲み込めず彼女は抵抗すらも出来ない。完全に硬直してしまっていた。
「いい女だ。」
そう、耳元で囁くと彼女の腰に手を掛けた。
彼女のドリース式*のキトンの金糸の織り込まれた腰紐を解く。
アモーは抵抗をしようと体を少し傾けるが、権威と威圧の恐怖に思うようには体が動かない。
彼はブローチを外し、ベッドボードに静かに置いた。興味深そうに彼女の表情を見つめながらキトンを開く。恐怖と恥じらいから彼女の顔は蒼白くも紅くも見えた。
「能天使には勿体ない代物だ。私の物になれ。愛してやるぞ?」
骨張った彼女の顎を撫でながら呟いた。セラフィムの手の中で彼女は涙ながらに小刻みに小さく首を振る。その動作に彼の眉はひそんだ。
「この世は全て私のものだ。私の手の内にある。」
そっと冷たい空気がセラフィムの頬を撫でる。
「何故だ?私は熾天使だぞ。何故拒む?何故私を恐怖の目で見つめる?」
彼女に跨り強く肩を掴んだ。彼女は恐る恐る口を開いた。
「私はエクスシア様を」
彼女の言葉を彼は唇で塞いだ。熱を帯びた体を押し付け息の出来ない程に彼女の固く閉ざされた口の中に舌を捻じ込む。彼女に覆い被さるようになり、愛おしそうに絹糸の様な髪を撫でた。恐怖で固まった体をどうにか動かし、手をついて後ろへ下がろうと彼女は必死だ。そんな彼女には構わず彼は触れる。
「温かい…。こんな風に誰かに触れるのは初めてだ。」
彼は厚織の紫色のヒマティオン*を取る。その色、丈、全てが彼の権力の象徴だった。キトンの肩のピンを外すと、ひらりと布は腰の革ベルトの所までしなやかに垂れた。猛々しい顔つきで彼女を見下ろす。彼女は声を振り絞りやめてと言った。涙が零れ落ちる目尻にセラフィムはもはや目もくれないで彼女の肌を触り始めた。彼の動きが荒くなるに連れ、彼女は必死に抵抗し始める。もはや相手が誰であれ本能が警告を出したのだろう。だが、綺麗にシワ一つなく手入れの行き届いたシルクのシーツは手で掴みにくく、思うように彼女も抵抗は出来なかった。肩書きだけでは無く全てに抜きん出ている熾天使は圧倒的に力も強く、六枚の翼は彼女の動きに邪魔をする。力の無い彼女には残酷だった。セラフィムは彼女にお構いなしだ。だが、アモーは上半身の自由が効く一瞬の隙間を突き、天蓋支柱に手を掛けた。腕を曲げ力の限り体を引く。逃る動作にセラフィムは彼女の脚を持つ手に力を込める。
「やめて、痛い。」
金切声が喉を裂く。
彼女は手の先に触れた横の置物を咄嗟に掴み彼の頭上に浴びせた。
響く喚き声。
花びらが宙を舞う。
怒りに満ちた視線が彼女を射抜いた。彼女の背筋は凍りついた。やめて……。お願い。低く唸るように出された彼女の声は彼から立ち昇る炎に掻き消された。
涙を光らせた彼女は羽ばたいた。翼が起こした風が炎とぬけ落ちた羽を巻き上げ、天蓋から垂れたレースが大きく揺れる。その光景は、もし描けば下界で賞賛を浴びるどんな名画よりも美しく幻想的なものになると確信すら出来るほどただただ美しかった。
縁に炎が回った花びらがゆっくりと縮こまる。
蝶が鱗粉を飛ばす様に、宙を舞う羽は火の粉を飛ばした。
*****
焼け焦げたベッドの前に立ち尽くすセラフィム。所々残っている炎に花瓶ごと勢い良く投げつける。雪が舞う様に焼けた布団から漏れた羽が散った。焦げのついた彼女のキトンの布を握り締める。酷く焼け焦げた匂いが彼の鼻に纏わり付く。神のみに人生を捧げて来た彼が初めて主以外の何かの為に神から授かった炎を使ったのだ。そしてそれを知る者は彼女以外誰も居ない。誰一人この胸に刺さる様な匂いを知る者は居なかった。
アモーは全身にひどい火傷を負い、六ノ宮の入り口で意識を失った。緋く染まりきった空は崩れ落ち夜を呼び覚ます。
セラフィムは静かに彼女を抱き上げる。そっと奥の間の水銀の泉に彼女を沈めた。水銀の触れた所から彼女の傷は塞がっていく。銀色の光の粒に包まれる彼女は神秘的だ。
「そなたを手に入れるためなら闇に手を染めよう。それ程そなたは美しい。」
そう呟くと懐からナイフを取り出し彼女の指先を切った。指先から滴る血液を小瓶に落とした。そして彼女の手を再び泉に戻す。彼の付けた傷は一瞬で消え失せた。それと同時にセラフィムもまた、六ノ宮から姿を消した。
*脚注
アモー…ラテン語で愛
キュビキュルム…古代ギリシャ時代の寝所のようなもの
テュロス…フェニキアの古代都市
貝紫…帝王紫とも。天界では熾の位を持つ者のみが纏う事が出来る色。
アルコーブ…部屋の窪み
キトン…古代ギリシアの衣服
ドリース式…裸体に一枚の布を肩と腰のみで留めた貫頭衣の一種。
ヒマティオン…ギリシアの上着
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