第3章 Diabolus<悪魔>
神がこの世から姿を隠してから実質的にこの世の最高権力者とも言える熾天使様々が直々にとは随分と面白いじゃないかい。泉の底に手を付いて体を起こし目を開く。それにしても裸じゃないかい、この娘。随分と熾天使も趣味が悪いもんだ。
足を立て泉を出る。
体に付いている水銀の粒が真珠が転がる様に落ちた。水とは違う、随分と不思議な落ち方をする。面白い。流石、神様の水だ。呑めば永遠に近い命を与え、浴びれば傷も疲れも癒す。もっと面白いのはそれがどうしたことか下界にも出回ってることよ。ふっ、バカめ。でもお陰様で偶に襲った船の中や人間から水銀が手に入る様になった。私らにしてみりゃありがたいお話だ。
近づいて来た熾天使がキトンを差し出した。私でも分かる程の上物を。
「良い取引だ。思う存分楽しませていただくよ。天界ってやつをね。」
「ああしばらくの間好きにするが良い。私は例の能天使に話をしてくる。」
宮を後にした彼の背中を見つめた。天界ってやつは随分可愛そうな所だねぇ。渡されたキトンを羽織りながらつい悪魔の癖で無意識に唇を舌でなぞった。水銀に映る美しい私は決して熾天使が欲しい彼女じゃないって事は知っている。熾天使もいつかそれに気がつくだろうがそれまではここを満喫する。鏡の様な水面を覗き込んで「良い女だね。可哀想に。」鼻で笑うと少し水面が揺れた。銀色の波紋が静かに広がった。
この私はアマデウスという名を与えられた。最高級のキトンとヒマティオンだけでなく下界の各国の王朝のドレスや贅沢に宝石が散りばめられた冠や首飾りを好きなだけ堪能した。彼女の体は元の私と違って美しいから楽しかった。甘ったるいフルーツを好きなだけ食べた。この足の感覚と空気に触れている感覚が心地よい。そしてなんと言っても、全て私の思う通りになるこの感覚が堪らなく心地良くて堪らない。
彼女と入れ替わってどのぐらい経っただろうか…私にはどうでもいい話だが。能天使という奴にあいつがどう言ったのかは少しだけ興味がある。だが面倒は御免だ。ここでの自由気儘な生活を壊したくなんかない。まさにこの世の極楽だ。気持ちの良い太陽に照らされてふかふかになっているベッドに顔を埋めた。魔界では決して感じることのなかった日光の香り。神に愛された天使ってのは良いものだ。
いつの間にか寝ていた。気持ちが良いからそのまま目を瞑っていた。足音が聞こえる。私は知っている。一度、たった一度だけ肌を重ねたあの日以来、熾天使が私を抱こうとしないことも、私が寝ている間だけ私に愛おしそうに口付けだけをしていくことも。目を瞑っていても感じるほどの熱い眼差しを向けられる。熱を帯びた吐息が掛かった時目をしっかりと見開き奴の顔をそっと両手で触れてみた。それから挑発的な視線をで見つめ返してやった。ここでの生温い生活もそれはそれで良いが、私は生まれ持った悪魔だ。生ぬるい天界育ちの堕天して羽を切られて悪魔になった悪魔ならここに心地よさだけを感じられたのだろうか?今までは知らぬふりをしていたが人の弱みに漬け込むのが悪魔の癖だ。そっちの方が性に合っている。
「神様気取りの熾天使様よ。人が寝てる間にキスとは随分奥手なんだねえ?いや、違うね。奥手なんじゃない。私は知ってんだよ、あんたも知らないことを、知りたいかい?死ぬ程手に入れたかった私、いや彼女に何も出来ない理由を?天界の熾天使様が一介天使如きになんでこんなにもご心酔なのか教えてやろうか?」
目を見開いて動かないヤツを横目に、採れたての果実を頬張りながら話を続けた。私は言いたい事だけ言って宮を出た。涙も流すことも何もできずただ呻く彼を独り置き去りにして。段を降りる前に振り返り思う。相変わらず殺風景だ、この花籠の宮は。いや、宮なんかじゃない。ただの神様の人形箱だ。
足を一歩出すたびにジャラジャラと宝石が動く煩わしい音が私から鳴る。足の感覚も空気の柔らかさも、この暖かさも食べ物も全てが心地良かった、生まれて初めての魔界にはない快感だった。だが人間が言う程に、この金銀や宝石にそれほどまでに価値があるとは思えなかった。この渇き、いやもっと違う初めての感情が求めているものはそんなものではない。本能の赴くままに葡萄の宮へ私は降りた。翼より、足の方がずっと心地よい。
「能天使……?」
名の通り麻薬のように癖になるような甘さに包み込まれた。
「アモー⁈まだ四十参り終わって…」
「四十参り?あぁ、40日かかる能天使の補佐官昇進式ってことにしてたのか、そりゃいいね。私はアモーって名だったのかい?それは私にぞっこん惚れ込んでるね、いや彼女にか。にしてもその愛とやらもその程度か。分かんないのかい?私が私じゃないことに。」
正義感とか同情とかそんな馬鹿げたものは生憎、中身は悪魔のままなんで持ち合わせちゃいない。が、好奇心だけは有り余ってる。可哀想な能天使に事の全貌を教えてやった。魔界を管理する能天使だけに事が早く進んだ。彼はすぐに重い扉を押し、羽ばたいて行った。
「さぁ神が創った傲れた花園もカオスの始まりだ。」
私は悪魔。慈愛だの悪を許さぬ心とかなんだので動いてるわけじゃ決してないが何をやろうと私の勝手だ。誰がどうなろうと知ったことじゃない。魔界に捨てられた私らには神様のルールなんて知ったことか。
その後ヤツの逆鱗に触れたことぐらいは誰にでも分かることだ。だが悪魔と契約を交わしたことがヤツの落ち目だ。いや、元はと言えば神が人間と契約を交わしたことが全ての落ち目だ。世界は神様が暇つぶしに遊ぶチェス盤じゃないんだ。たとえ駒でも意思がある。それに神が思っている程神は神じゃない。天使も同じだ。私ら悪魔の方がよっぽど役割を果たしているよ。現に今ここに絶望を思い出させてあげたじゃないか。
「宣戦布告ですか?私を怒らすと大変なことになりますよ。」
静かなその怒りに満ちた声色。その瞳には私なんか映っていもしなかった。琥珀色のガラスの様なその瞳には。
次に目を開いた時は、いや、目を開かずとも分かった。そして鼻に付く鉄の香り。体を這う様に伝わる不快な程の寒冷。そっと目を開ける。海風に
「天使っていう奴は昔惚れた女を手に入れるのに随分殺生な真似をするもんだ。私らよりよっぽど残酷だね。いや、奴を動かしているのは違うか。天使ではないか。」
一つは触れた生きてる人間の人生を知ること。悪魔が喰らうのは血肉だけでない。生きた負の記憶も喰らう。
もう一つは全ての生物の死に刻まれた記憶を読める。
そっと目の前の紅に手を置く。
彼を殺したのは自分だ。彼を愛し愛された女の魂を宿した自分だ。
暗中、手を伸ばし彼に触れた。
死の歴史。それは完美で残忍だ。指先から押入る訃。今、彼の屍の記憶が脳裏に広がった。
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