最終話 藪の外
あのときの蛇が、今少女の形をしてここに現れたのだったらいいなと思った。天使のような彼女に噛まれて死ねるなら、そんな幸せな終わりなど他にないだろう。だが残念なことにそんな夢のような話は起こり得るわけがない。
少女をよく見ると、脛の当たりを切っていた。俺はリュックサックから消毒液と絆創膏を取り出して、手当てをしてやった。
「ありがとう!」
少女の笑顔は相変わらず底抜けで、この心のくすみが洗われて行くような感覚を覚えた。
「お嬢ちゃん——」
「
「英美ちゃんは、さっき遊びに来たって言ってたけれど、一人?」
「んーん。ママといっしょなの」
それとほぼ同時に、遠くから声が聞こえた。
「英美ー。どこー?」
透き通った女性の声だ。
「ママー!」
英美が大きな声を張り上げると、遠くから足音がやってくる。
——ガサッ、ガサッ、ガサッ。
白い指先が藪を切り分ける。
——ガサガサガサッ。
「ママ!」
「英美!」
英美が母親の元へ向かうと、母は膝を折って彼女を抱きしめた。
そこで母親と目が合う。少し気まずい。最近は物騒な事件も多いし、勘違いされないといいのだが。
「あ、あなたもしかして……
電流が走った。
まん丸のきらきらした瞳は、あのときのままだ。
「
なぜ彼女がここに。と言うか、英美は里英香ちゃんの娘だったのか。納得の既視感である。
「あー! やっぱり! こんなところで会うなんて奇遇ね!」
「それは俺のセリフだよ」
思わず笑ってしまう。
「菜葉斗くんはここでなにしてたの?」
「パンたべてたんだよー!」
英美が口を挟む。
「あとわたしのきずもなおしてくれたの!」
「まあほんと。ありがとうね、菜葉斗くん」
「いえいえ」
「で、なにをしてたの?」
俺はカメラを持ち上げた。
「撮影」
「趣味で?」
「いや、まあ、一応は仕事……いや、ほんと一応だけど」
「写真家かあ。カッコイイね!」
あのときの無垢なままで、彼女は笑う。カッコイイと言われると、まんざらでもない気になる。同時に罪悪感も込み上げる。
「里英香ちゃんはどうしてこんななにもないところへ?」
彼女は英美を抱きかかえて立ち上がる。スキニージーンズに枯れ葉が引っかかって、ふらふらと揺れた。
「お盆で久しぶりに帰省しててね。ここ、菜葉斗くんとの思い出の場所だから、久しぶりに来てみたいなあと思って」
「覚えてたんだ」
意外だった。
「特別な場所だもん。そりゃあ覚えてるよ。あのときは、特別な時間をくれてありがとう。あなたが居てくれたおかげで、素敵な学校生活を送れたよ」
「なんにもしてないよ」
思わず、ははっと乾いた笑いが漏れた。
「この藪の中に居てくれた。それでレジャーシートを敷いて、わたしにも居場所を作ってくれた。愚痴も聞いてくれたし、本当に感謝してるんだよ?」
そんな風に思われているだなんて、想像すらしたことがなかった。
「どういたしまして」
照れくさいけれど、感情の始末に困ってしまって、とりあえず普通の返事をした。彼女も微笑んでくれた。
「陽も暮れて来たし、わたしたちはそろそろ帰ろうかなって思ってたところなんだけど、もし良かったら一緒に行かない?」
「いや……その」
彼女は藪の中から出て、真面目に生きて来た。だから今こんなにも眩しい笑顔をしている。
「足が痺れちゃって」
立ち上がれば嘘だとわかるそれ。でも立ち上がらなければバレはしない。俺はいつの間にこんなに嘘が上手くなってしまったのだろう。あのとき「やれ」と言われて断った正直さはどこで失くしてしまったのか。どこを探しても見つからない。あのときからずっと藪の中に居たというのに。
「もう、しょうがないなあ」
里英香ちゃんは英美を降ろして俺に手を差し出した。
「え?」
「立ってしばらくしたら痺れって引かない? 偶然にもわたしが来て良かったね」
「ママー、わたしのおかげー!」
「そうね」
英美に微笑んでから、俺に向かい直って改めて掌を見せる。
あのとき掴めなった、手。掴む権利などなかった、手。
藪の中に彼女を引き留めることは出来なかったから。でも、今、目の前に差し出されたこの手は、俺のために差し出された手だ。
恐怖で震える。俺に出来るだろうか。誰かのためなんて言う言い訳をしないで、この手を取って藪の外に出ることが。
俺はじっとりと汗ばんだ指先を彼女の掌に乗せた。グッと掴まれ、起き上がった。
「どう? 痺れ」
「案外平気みたい」
「良かった」
藪を抜けて、舗装された道路に出たとき、俺は一眼レフを里英香ちゃんに向けた。
「二人の写真、撮ってもいいかな?」
二人はお互いに見合って、それから笑顔を弾けさせた。
「わーい! とってとって!」
「お願いします」
恭しく頭を下げられる。きっと彼女は、俺のことを本物の写真家だと思っているからだろう。なんだか申し訳ない。
「じゃあ、撮るよー」
月並みに、ハイチーズなどと言ってシャッターを押した。
「今度データにして送るよ」
「あ、じゃあ電話番号教えておかないとね」
二人には今日中にデータを送る旨を伝えて別れた。
カメラに入った映像を確かめて、思わず頬が緩んでしまう。
夕景に
それは、今まで撮り続けて来たどんなレアショットよりも輝いて見えた。
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書くよ無/詩一
★137 エッセイ・ノンフィクション 連載中 50話
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