第二話 夢の中

 小学生の時分じぶん

 やぶは俺にとって最強の盾だった。


 家に居れば母親が友達と遊びなさいと強要した。そして母が友達と呼ぶそれらは、こぞって俺を無視した。なにがいけなかったのだろうと子供ながらに考えると、思い当たる節があった。あれは確かクラスの人気者のリュータローくんが俺に向かって「やれ」と言ったときのことだ。なにを「やれ」と言われたのかまでは覚えていない。俺はそれを拒絶した。それをやってしまったら、幼いながらも芽生えたプライドと言うものがへし折れてしまいそうだったから。それからだ。リュータローくんたちから無視をされ始めたのは。いわく、「菜葉斗なはとはイジリも理解できない冗談の通じないつまらないやつ」なのだそうだ。つまらないやつとは遊ばない。それがリュータローくんたちの流儀だった。もちろん、クラス全員が敵だったわけじゃあない。ただ、彼に逆らった俺とつるんで得をするやつなんて誰一人いなかったというだけの話だ。


 リュータローくんが居ないところでは普通に話しかけてくれる子も居た。「だが」と言うべきか「だから」と言うべきか、俺はクラスメイトの眼から逃げるようにして、隅っこや端っこを選んで歩くようになった。無視されているのに眼から逃げるとは皮肉なものだが。俺は俺のせいで他の子まで同じような目に遭うのを恐れていた。これはなにも、被害者を増やしたくないという友情や善意から来るものではない。ただ単にそんなことになっても責任は取れないと言うだけの話だ。


 逃げて逃げて逃げて。いつの間にか辿り着いたのは藪。

 藪の中は良かった。ここならば親もクラスメイトも居ない。遊具も勉強道具もないこの場所には、誰かが訪ねてくるようなこともなかった。


 空はいつもそこに在って、過ぎ行く時刻を教えてくれた。茜色に染まれば、誰にも文句を言われずに家に帰れた。

 藪には虫が必ずいて、孤独な時間をまぎらわせてくれた。バッタの無機質な複眼は、人間のそれよりも遥かに温かく、そこを一層居心地の良い空間にした。カナブンのしまいそこなった羽はとてもチャーミングで、家で真似して裾をちょろっとだけ出していたら、母親にみっともないと怒られた。


 しかしある日、平穏な藪に物騒な音が響いた。


 ——ガサッ、ガサッ、ガサッ。


 誰だろうか。耳をそばだてていたら、


 ——ガサガサガサッ。


 少女が入場してきた。


 大福のようにやわらかそうで白い肌は太陽の存在を知らないようだ。


「えっと……里英香りえかちゃん。どうしたの? こんなところに来て」


 彼女が笑うとツインテールがとぅるんと揺れた。まん丸のきらきらした瞳が、俺の視線を捕まえて離してくれない。


「菜葉斗くんを追いかけて来たの」

「え? でも、ぼくはみんなと遊ばないよ」


 里英香ちゃんはとてもいい子だった。模範的生徒とでも言うのだろうか。勉強もスポーツも出来て親からも先生からも褒められるし、かわいくてやさしいから男子も女子も大好きだ。そんな彼女のことだ。この仲間外れを群れの中に戻そうという企てがあるのだろう。そう思った俺は、警戒しつつきっぱりと断った。

 だが思いもかけない言葉が返って来た。


「つれてかないよ。だからわたしもここにいさせて? 菜葉斗くんのひみつきちに」


 秘密基地と言うつもりはなかったが、他人から見ればそのようなものなのだろうか。


「つれてかないなら、いてもいいけど、でも、どうして?」

「菜葉斗くん、いつもどこにもいないでしょ?」


 俺は眉を困らせて空を見上げた。


「どこにいるんだろうってずっとふしぎに思っていて、だから今日は菜葉斗くんがどこにかくれているのかを見つけたくて追いかけて来たの。わたしもいっしょにかくれたかったから」

「かくれたかったの?」

「うん」


 彼女は笑顔の下に、暗いものを隠しているようだった。


「まったくつかれちゃうんだよね」


 彼女は俺が敷いたレジャーシートに腰を下ろすと、教室では見せないような顔をしてため息を吐いた。ツインテールの先っぽを人差し指に巻き付けて、もてあそぶ。わざとらしいそのしぐさは、大人のフリをした子供のようでもあったし、そのまま大人のようにも見えた。


「菜葉斗くん、あこがれちゃうなあ。自由で」

「ぼくが自由?」

「うん、そうだよ。だってリュータローくんにさからったじゃない?」

「ああ、うん。そうだね」

「カッコイイなって思ったの」

「そ、そう?」


 かわいくてやさしいクラスのマドンナ的存在の彼女にカッコイイと言われて、まんざらでもない気になる。


「みんなは菜葉斗くんがリュータローくんたちにむしされたからかくれてるって思っているかも知れないけれど、わたしはちがうって知ってるよ」

「そうなの?」

「菜葉斗くんは、自由をおうかしてるんだよ。だから、うらやましいなあって。わたしなんか、毎日みんなのきげんばっかりうかがって、つまんないんだよ」


 里英香ちゃんは、俺が思うようなスーパーヒロインではなかった。普通の女の子だった。実は勉強も物凄く頑張って出来るようになったようで、天才と言うよりは努力家の部類に入った。親の期待に応えるために塾もさぼらず通って、みんなの期待に応えるためにやさしく平等に振舞って。

 しかしそれが彼女のではない限り、どこかで破綻はたんする日が来る。彼女はいつでも逃げ出す準備をしていた。家出の準備もばっちりだ。親と一緒に出掛けたときに水とお菓子を少しだけ余分に買って貰って、バレないように隠しているらしい。いつかその日が来たら、それらを持って飛び出す計画だ。でも、その日が来ることは一生ないことを彼女は幼いながらに悟っていた。ただ、いつだって逃げ出せると自分に言い聞かせることで、同時に無理を言い聞かせていた。そんな折、誰にも見つからないで一人で居る俺のことを知って、彼女は家出気分であとを追ったのだと思う。

 この藪の中は非現実的だ。学校からも家庭からも隔絶かくぜつされた閉鎖空間だ。ここでやったことは誰にもバレないし、現実になんら影響を及ばさない。彼女にとってこれほど都合の良いプチ家出はないのではなかろうか。


 居心地の良さを気に入ってくれた彼女は、それから毎日のように藪の中を訪れるようになった。


 学校と家とで疲れた彼女がふらっと寄っていく。この藪の中は、さながらサラリーマンが立ち寄るスナックのようでもあった。


「わたしはみにくいんだよ」


 里英香ちゃんはかわいかった。でも多分、そんなことはないよって否定して貰いたいから言ったわけではなくて、本当に醜く在りたいという願望が彼女にそう言う言葉を吐かせていたのだと思う。醜くなれたら、どれほど楽だろうと思っていたに違いない。

 クラスメイトは知らない彼女の姿を自分だけが知っている。そんな特別感が、心を満たしていった。


 そしていつからかこの藪は、一人で過ごすためのものではなく、彼女を待つためのスペースへと変わっていた。


 彼女にどんどん惹かれて行くのを自覚していた。それが恋心なのかどうかはわからないけれど、ともあれ自分の中で晴空はるそら里英香が大きくなっていくのは間違いなかった。もっと彼女のことを知りたいと思ったし、みんなが知らない一面を知ることで優越感に浸りたかった。そんな思いが藪の外でも夢の中でも出てきたものだから、ふわふわとした好奇心はいつしか恋というものに変わっていった。


 しかしそんな日も突然終わりを告げる。


「好きな人が出来たんだぁ」


 嬉しそうに語る彼女は、まったく別の顔をしていた。

 みんなが知らない彼女を知っている俺でさえも知らない彼女。里英香ちゃんは、別人になってしまっていたことに気付いた。だから同時にその好きな人と言うのが、絶対に自分でないこともわかった。


「おうえんしてくれる?」


 応援もなにも、彼女に告白されて断る男子なんていない。絶対100%成就する恋だ。どちらかと言うと問題は、その彼氏と付き合い始めたあとも、この藪の中に来てくれるのかと言うところだった。だが、ここは現実と切り離された空間。もしも里英香ちゃんに生きる場所が出来たなら、ここには来てはいけない。


「うん。おうえんするよ」


 そのときの俺には、他に言う言葉がなかった。例えばそのとき俺が彼女に告白したとして、彼女が受け入れてくれたとする。だがどうだ。俺が彼女に提供できるものは藪の中。クラスメイトの前では手を繋ぐことも出来ないし、勉強を教えてあげることも、スポーツを一緒にやることも出来ない。彼女にとってこの藪の中は、現実逃避するには二つとない特別な空間だったことは間違いない。だがそれ以上でも以下でもない。彼女にとって本当に必要なのは、現実から逃げるための居心地の良い場所ではなくて、現実の中で呼吸をしやすくしてくれる場所だったんだ。きっと彼女に選ばれた彼氏は、上手に呼吸をさせてくれることだろうし、息苦しさを感じなくなった彼女は、現実で生きて行くことに意味を見出すし、それによってますます彼女は輝いていくことになると思う。

 だから俺は、彼女の手を握る権利がなかった。待ってくれって止める権利がなかった。


 それから数日、里英香ちゃんが好きになった男子の話を聞かされると言う苦痛を味わうことになったが、それでもあまりに彼女が嬉しそうに話すので、もしかしたら俺はそのためにこの藪を守って来たのではないかとすら思えた。彼女の笑顔には、そう言う魔法みたいな力があった。


「じゃあ、明日、告白するね」


 神妙な顔で彼女にそう言われた次の日、学校の帰り道に彼女が男子に向かってなにかを言っているところを見かけた。わかっていたことなのに、受け入れがたい現実が胸を締め付けて、走り出したら藪の中に居た。


 空が茜色をやめるまで待っても、彼女は藪の中に来なかった。


 ぼうといつまでも空を見上げていたが、この空虚を空は吸い上げてくれなかった。一番星が輝きを増す頃、そろそろ帰るかと立ち上がって——しかし尻餅をいた。


 蛇が居たのだ。

 頭が三角形。マムシだ。噛まれたら死ぬ。


 けれども俺は、どういうわけだか手を差し出していた。そうして遅まきに知る。そうだ、死にたいんだな。俺はきっと。死を渇望していた。ずっと藪の中なら良かった。でも藪の外で、夢の中で、彼女を思ってしまった。そしてやはり藪の外で、新しい晴空里英香を見てしまった。俺が俺のためではなく、彼女の居場所を創るために藪漕ぎをしてこの場所を守って来たのならば、役目はもう終わっている。だからもう、エンディングとしては今がベストなのだ。


 しかし蛇はきょうが削がれたとでも言うように方向を変えて、どこかに行ってしまった。


 最後からも見放された俺は、エンドロールが流れたあとの世界で生きるしかなくなってしまった。

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