藪の中の夢

詩一

第一話 藪の中

 気付けばいつもやぶの中に居た。


 手に持った一眼レフを構えて、滝壺付近の岩壁から突き出した木に止まる小鳥に狙いを定めた。水の白煙を浴びながらせわしく顔を動かしているそれは翡翠かわせみ。目にも鮮やかなだいだいを腹に抱え、光を浴びれば緑にも見える青を背負った渓谷の宝石は、助走も迷いもなしに枝から飛び立つと、水簾すいれん川面かわもの上で数秒ホバリングし、それからちゃぽんと音を立てて消え入り、ややあってから飛び出したときにはくちばしと同じサイズの蜊蛄ざりがにを咥えて、そのまま近くの岩場に飛んで行き、赤く短い脚でちょんと着地をすると、捕まえた蜊蛄を岩に二度三度と打ち付け、上を向いてそれを丸呑みにしてしまった。

 その一部始終を、カメラの連写は捉えていた。


 なかなかのレアショット。今回のは良い線行くかも知れない。頭の中にフォトコンテストの映像が思い浮かぶ。

 今撮った一枚一枚を見ながら、らぬたぬき皮算用かわざんようをしていた。


 写真家、と言ってしまえば聞こえは良い。売れない写真家と言ってしまってもまだ体裁は保たれる。なぜなら俺を呼ぶ上で最も適した言い方は、ニート、なのだから。


 高校を卒業する際に特にこれと言ってやりたいことが見つからず、なんとなく大学へ進学した。学びたいものなどなかった。モラトリアムが欲しかっただけだ。その中でなにかやりたいことを見つけられれば大学に行った意味はあるだろうと、高い学費を出してくれた親には心の中でそんな言い訳をしながらダラダラとキャンパスライフを送った。しかしそんな心持で、しかも人との交流を積極的に取らなかった俺にやりたいことなんかが見つかるわけもなく、大学生活は終わった。

 友達も恋人も居なかったものだから終わりこそ穏やかだったが、問題は終わってからだ。とてつもない焦燥感に駆られた。なにせ内定が決まらなかったどころか、就職活動すらしていなかったのだから。俺はなんとか働かない——いや働こうとしていなかったことに理由を付けるためだけに、カメラを手にしていた。あたかも初めからプロの写真家になりたいがゆえに就職を見送ったように見せかけるために。

 芸術の才能があるわけでもない俺は、絵を描く気にも文字を綴る気にもなれなかった。やったってどうせ、出来ないことはわかっていたから。同じ理由で音楽やスポーツに打ち込むこともなかった。けれども写真は違う。シャッターを押せば撮れる。それが良いものであろうが悪いものであろうが、形にはなるのだ。本物の写真家が聞いたら怒りそうなことだけれど、それでも形になってくれるか否かは努力不足が板についた自分にとっては大きかった。ただ空を撮っただけで、『ぽく』見えるし、ピンボケ写真も味わいなどという言葉で誤魔化すことが出来た。そうやって芸術家気取りを臆面おくめんもなく続けた。


 ある日、たまたま撮った写真が、とある小さなフォトコンテストで入選まで行き、自分には才能があるのだと確信した。たまたま撮った写真で入選なのだから、本気でやったらグランプリもあり得るだろうと思ったのだ。しかし確信が誤解だと言うことにはすぐさま気付かされることになる。そのフォトコンテストでグランプリに選ばれたのは、中学生がスマフォで撮った作品だったのだから。その一点をもってしても、採点基準などがガバガバでレベルの低いコンテストだったと言うことは明白だった。

 しかしその事実を知ってなお自分の中に芽生えた虚栄心を摘むことが出来ず、俺には才能があるのだと言い聞かせ、部屋の隅で増長していった。両親に徒花あだばなだとバレないように舌先三寸を上手く使いこなして作った塀の中には、青いままの双葉が日光も浴びることが出来ないで弱々しく咲いていた。おそらく二人は気付いていただろう。けれども、写真を撮り続ける俺を、親も止めようとはしなかった。就職もせず無気力に生きてきた息子が、珍しくやる気を見せているのだから、そのやる気を削ぐようなことはしたくなかったのだろう。その心根を知っていたから、味が失せたガムを噛み続けるみたいに、もうすでに終わったはずのモラトリアムを貪り続けた。少しでも時間が空いてしまえば就職の話をされてしまうから、逃げるように毎日毎日写真を撮りに藪の中に入った。


 シャッターを押せば、罪悪感や焦燥感が束の間消えてくれた。何千枚写真が積みあがったところで免罪符にならないことはわかっていながらに、写真に向き合うという逃走を真剣に続けて、やめる気にはならなかった。


 太陽が影を失くし始めた頃、リュックサックにしまっておいた菓子パンを取り出し、水筒からアイスコーヒーをコップに入れて昼食にした。


 この藪は世界最強のバリケードだ。親は俺の居る場所を知らないし、地元のクラスメイトだったやつらもこんなところには入って来ない。遊び場でないここには、好奇心から子供が入ることもない。やぶぎをして道は作ってあるから、山菜取りの人に会ったことはあるが、今はそんな季節でもない。


 アイスコーヒーで咽喉のどを潤すが、渇きの原因は嫌みなほどにぎらついていて、陰鬱としたこの人生を真っ向から否定しているように思えた。暑い思いをするのが嫌なら、さっさと家に帰って冷房の効いた部屋で求人情報誌に目を通せばいい。そう言われているような。


 それから空が茜色に変わるまで、藪の中で身を潜めてシャッターを押し続けた。


 ——ガサッ、ガサッ、ガサッ。


 不意に、藪の向こう側に足音を聞いた。


 ——ガサガサガサッ。


 大きく藪が動いたと思ったら、そこから少女が現れ出た。まん丸の眼は俺に出くわした驚きのせいか余計にまん丸になって、俺の眼を見つめた。多分濁っているだろうなあと思われるこの眼を。


「お嬢ちゃん、どうしたの? 迷子?」


 そう尋ねると6歳くらいの女の子はツインテールをぶんぶん振って、それから笑みを咲かせた。


「あそびにきたの!」


 明るい彼女のその顔は太陽を拒絶したかのように真っ白で、寧ろ彼女自身が太陽の化身であるかのようで。控えめに言って天使そのものの少女を前に、既視感のようなものが去来した。前にも見たことがあるようなそれは、確かに20年前の記憶そのものだった。

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