小夜の日記

九条ねぎ

第1話

 八月十日、アタシの十六の誕生日に祖母が亡くなった。

 首吊り自殺だった。

 原因はわからない。

 祖父はもう十年以上前に亡くなって、祖母には特に友達もおらず、家族とも最低限しか関わらない孤独な人だった。

 周りの大人たちが慌ただしく駆け回る中、アタシは祖母の家の夏座敷に寝転がっていた。

 縁側の窓から見える風鈴と紺碧の空と入道雲、そしてお線香の匂いだけが印象に残った。

 葬儀は近親者のみで執り行われ、セミがうるさい山奥の火葬場で火葬を済ませると、親戚は逃げるように帰っていった。

 時刻はお昼すぎ。祖母の家に残された両親とアタシはそれぞれの時間を過ごした。母は台所で湯呑みを洗い、父は居間でテレビを、私は夏座敷で青嵐を感じながら寝転んでいる。ここは私の特等席だ。

 祖母の遺品はほとんど無く、首を吊ったこの部屋も床にビニールシートを敷いていたおかげで特に片付けも必要なかった。

「あ、そうだ紗夜さや

 台所にいた母が、思い出したようにやってきてアタシを呼んだ。

「なあに、お母さん」

「これ、おばあちゃんから」

 そう言って1冊の少し厚みのあるノートを手渡された。

「何これ」

 黒い和紙に赤い彼岸花が描かれている和綴じのノートで、中をパラパラめくってみると日付と文字が書かれていた。どうやら日記のようだ。

「……なんでアタシに?」

「おばあちゃんの遺書に書いてあったの。それを紗夜に読ませろって……。紗夜以外の人は読むなって書かれてたからお母さんたちは読んでないけど、気になるから読み終わったら教えてね」

「……わかった」

「まだやる事があって今日はここに泊まるから、お父さんと荷物を取りに行くのだけど紗夜はどうする?」

「うーん……ここで待ってる」

「怖くない?」

「平気だよ」

 そうしてアタシは再び元の座敷へと戻った。

 お母さんに渡されたノートを開いてみる。どこに置いてあったのかはわからないけれど、なぜか甘い匂いが鼻をかすめた。


 * * *


 六月十五日

 今日から私は日記を書こうと決意した。

 何故なら気になる人ができたからだ。

 その人の名前は小百合さん。とても可憐で、麗しくて、高嶺の花だ。

 黒くて長い髪は綺麗にお手入れされていて、切り揃えられた前髪がよく似合っている。

 青白い、綺麗な肌に紅い唇。抱きしめると壊れてしまいそうな華奢な身体。

 せっかく同じ組になれたのだから、お近付きになりたい。

 明日、私は勇気をだしてお弁当に誘おうと思う。


 六月十六日

 勇気をだして小百合さんをお弁当に誘った。

 小百合さんは喜んで。と言ってくれた。

 その透き通った声を聞いただけで私は有頂天だ。

 中庭で隣合って食べたお弁当、緊張で味がわからなかった。

 おまけに何を話したかも覚えていない。

 小百合さんは細長い綺麗な指で握り飯を掴んでいる。ただそれだけなのに、その動作さえも美しい。

 私の今日の記憶はそれだけ。


 * * *


 そこから当分は小百合さんという人を賛美する文章と、些細な接触が記されていた。

 祖母はどうやら女性に恋をしていたらしい。

 関係が変わり始めたのは一月後からだった。


 * * *


 七月十四日

 小百合さんと私は一緒に帰ることになった。

 河川沿いを歩いていると、風が吹いて小百合さんの髪が大きくなびいた。

 うなじが少し汗ばんでいるのか、髪が少し張り付いている。

 私は堪らず小百合さんの髪を撫でてしまった。

 絹のように柔らかくて、指通りがよくて。

 小百合さんは戸惑いをみせつつも微笑んでいた。

「あっ、その……小百合さんの髪が綺麗でつい……」

「……小百合」

「……?」

「小百合、と呼んでください。小夜さん、私たちもう親友ではありませんか」

 小百合はクスクスと笑った。

「じゃあ、さ、小百合……私のことは小夜さよって呼んで」

「わかりました。小夜」

 私はこの時確信した。小百合が好きだと。


 七月十五日

 昨日の件から、私たちは親密な仲になった。

 日が長くなり、私たちはこれから毎日寄り道しようということになった。

 両親には学校での学習活動が忙しくなるから帰りは遅くなると嘘をついた。

 少し早いけれど、明日から私と小百合の楽しい夏の学習が始まる。


 七月十六日

 今日は山道の途中にある小川に二人でいた。

 冷たい水に足を浸して、二人で寄り添い川のせせらぎを聞く。

 こんな幸せがあっていいの?

 小百合からは花の蜜のような、とても甘い匂いがする。

 青白い手は冷たくて、とても気持ちよかった。

 ずっとこの時間が続けばいい。


 * * *


 そこからの日記は小百合さんとの甘い日々が書かれていた。

 付き合っている。という表現はないものの、二人の関係は恋人以外の何者でもなかった。

 祖母はアタシになぜこれを読ませたかったのかわからない。

 けれど祖母がアタシにこれを読ませたかったのには理由があるはずだ。とにかく読むしかない。

 部屋の隅にある仏壇に飾られた祖母の写真を横目で見つめる。写真の中の祖母は無表情で、口を固く結んでいる。

 アタシと祖母の思い出は全くと言っていいほどない。祖母の笑顔を見たことがない。

 常に笑顔の祖父とは対照的で、息子である父も祖母の笑顔を見たことがないと言っていた。

 しかし、祖母がたった一度だけ笑顔を見せたことがあるらしい。アタシが生まれた時だ。

「元気な女の子ですよ」

 そう伝えられた時、祖母は満面の笑みを浮かべたそうだ。そしてアタシに〝紗夜〟という名前をつけた。

 そこから祖母の性格も変わるかと思いきや、今まで通りの無表情でアタシにもかまわずにこうして今日を迎えた。

 外を見ると日が落ちはじめて、涼しい小夜風が吹き始めた。


 両親が戻り、居間に呼び出されたので行ってみると、ちゃぶ台の上にショートケーキが置かれていた。

 ここでアタシは今日は自分の誕生日だったことを思い出す。

「コンビニのケーキでごめんね」

 母が申し訳なさそうに言った。

「ううん。コンビニのケーキも美味しいよ」

「紗夜、今日はどの部屋で寝るんだ?」

 父がコーヒーを啜りながら聞いてきた。

「縁側の部屋にする。奥の襖を開けっ放しにして夏座敷にすると気持ちいいんだ。畳も新しいからいい匂いがするし」

「本当に平気なの? お母さんたちは奥の客間で寝るけど、一緒に寝てもいいのよ?」

「アタシは本当に平気。例えオバケが出てもそれはおばあちゃん。家族なんだから怖くないよ」

 アタシの言葉に両親は顔を見合わせ、しぶしぶ同意してくれた。

 さっさとお風呂に入って、日記の続きを読もう。


 * * *


 八月三日

 私たちは二ヶ月弱で深い関係になった。

 小百合の肌はこの八月の暑さでも冷たく、気持ちいい。

「小夜、私たちはずっと一緒よね?」

「ええ小百合。 お婆さんになっても、死んでもずっと一緒よ」

 私たちは惹かれ合う運命だったに違いない。私は小百合を愛し、小百合は私を愛してくれている。

 私たちの関係は誰にも壊せない。


 八月四日

 今日は私の家に小百合が来た。

 両親はデパートに出かけたので、私と小百合だけの世界を創ることができた。

 縁側の大きな窓と奥にある私の部屋の襖を開けて夏座敷にして風を楽しんだ。今日の風は湿風だ。

 外から聞こえる蝉の声と、風鈴が鳴り響くだけの室内。

 小百合は私と手を繋いで寝転がっている。

 床に広がる小百合の長い黒髪、呼吸に合わせて控えめに波打つ胸。長いまつ毛はしっかりと上を向き、紅い唇は艶めかしく微笑んでいる。

 私は我慢できずに小百合に馬乗りになって、そして……

「小夜! 何をしているんだ!」

 デパートにいるはずの両親が廊下側の引き戸からこちらを見ている。

 父が顔を赤くして、母は反対に青ざめていた。

 私は急いで小百合から身体を離し、両親の方を向いて座った。もう腹を括るしかない。

「お父さん、お母さん、私はこちらの小百合さんと愛し合っています!」

 状況を理解した小百合も、私の隣に正座して頭を下げた。

「私は、小夜さんを愛しています。どうかお付き合いさせて下さい」

「お前たち、自分が何を言っているのか分からないのか!?」

 父は手に持っていたステッキを勢いよく小百合に振り下ろした。

 叩かれた勢いで横に倒れた小百合は、頬を抑えて静かに泣き出した。

「私はお二人にこの関係を理解されようとは思っていません。けれど、これだけは知ってください。私が小夜さんを愛する気持ちは死んでも変えられないのです。それくらい本気なのです」

「私もですお父さん。小百合がいなければ私は死んでしまう」

 私たちは二人の言葉は火に油だったのか、父は更に小百合に暴力を振るった。

 私が必死に止めても力で適うはずはなく、小百合はボロボロになって帰っていった。

「小夜、お前は私の大事な一人娘なんだ。こんな事が町の人に知られたら私の診療所の評判も悪くなる。あの女は品良さそうにしているが、隣町の農家の娘じゃないか。あんな貧乏人との恋愛ごっこにうつつを抜かすんじゃない」

 父に私と小百合の、一体何がわかるのだろう。


 八月五日

 私は深夜、縁側からこっそり家を抜け出して小百合の家へ向かった。

 小百合の顔は痛々しかった。

 ブラウスの袖からみえる腕には打撲の痕が、頬には湿布を貼っていて足首にも生々しい傷が見えた。

「小百合……私のせいで……」

「違うの小夜……私たちを受け入れてくれない、この世界が悪いの……」

 私たちは二人で静かに泣き、慰めあった。

 そして明日もこの時間に逢おう。と約束して別れた。


 * * *


 こうして祖母と小百合さんのプラトニックな逢瀬が数日続いたところで、雲行きが怪しくなってきた。


 * * *


 許さない。

 許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない

 ……


 * * *


 日付もなく、数十頁にわたって「許さない」がびっしりと書かれていた。

 その頁を開いた時思わず悲鳴を上げてしまうほどだ。

 許さないが終わったと思ったら次は


 殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる


 これがまた数十頁続く。

 一体何が起こったのかわからず、アタシはまともな文章が書かれている頁を探した。


 * * *


 六月十五日

 今日は私が小百合に初めて話しかけた記念日。

 大事な大事な記念日。

 でも、小百合はもういない。

 全員地獄に落ちてしまえ。


 * * *


 小百合さんは祖母と離れてしまったようだ。

 そこから数日は小百合さんとの思い出、そして誰かへの恨みつらみを記している。

 ノートの残りのページが少なくなってきた。


 * * *


 八月十日

 今日は小百合の一周忌だ。

 私はこの忌々しい事件を忘れない。

 あの日の事を、昨日のように思い出す。

 私と小百合の逢瀬が見つかったあの日を。

 私たちは父に連れられて自宅に戻った。

 私の部屋で机を挟んで両親と向かい合う。

 最初に口を開いたのは父だった。

「……私は根負けしたよ。認めよう。二人の関係を」

 はじめは耳をうたがった。けれど優しく微笑んでいる父を見て、私は小百合と抱き合った。

「小夜、これは夢じゃないのね」

 小百合は涙を流していた。

「私たち、ずっと一緒にいられるのよ」

 私も泣いて喜んだ。

「まあまあそんなに喜んで。二人とも暖かいミルクを飲んで落ち着きなさい」

 母が私たちの前にカップを置いてくれた。私がいつも使っているカップと、来客用のカップを。

 私たちは喜んでミルクを飲んだ。

 その直後、小百合はカップを落として苦しそうに悶えはじめた。大きく目を見開いて、ついに床に倒れてしまった。

「……さ……よ…………」

 小百合は息も絶え絶えで私の名前を呼ぶ。

「大丈夫だよ小百合! お父さん!! 小百合が!! 小百合が!!」

 私は小百合を抱きしめ、父に助けを求めた。しかし父は真顔でただじっとこちらを見ている。

「お父さん! お医者様でしょ!! なんで小百合を診てあげないの!」

 この間にも小百合は苦しんでいる。小百合の力ない手が私の頬に触れた。紅い唇は吹き出した血で赤黒くなっている。

 そしてついに小百合は動かなくなった。

「小百合……? 起きて、起きてよ!」

 この時ようやく父が小百合のもとへやってきた。

「もう脈がない。瞳孔も開いている。血さえ拭き取れば発作で死亡……というのが無難か」

 そう言って父は私から小百合を取りあげ、部屋を出ていこうとした。

「小夜、こうするしかなかったんだ。この娘は病死した。今から処理をしてご両親に返すから安心しなさい」

 そうして父はこの部屋を後にした。母も逃げるようにカップを持ってその後に続いた。


 小百合の死から二週間後の八月二十四日、父が嬉しそうに仕事から帰ってきた。

 小百合を殺したくせに楽しそうにしている父に腹が立った。

「小夜に会わせたい人がいるんだ」

 嫌な予感がした。

 私が訝しんでいると、父は玄関の方を向いて「入ってきなさい」と誰かを呼んだ。

「お邪魔します」

 父に呼ばれてやってきたのは二十歳半ばくらいの男で、遠慮がちに家の中に入ってきた。

 気まずそうに父の隣に立ち、私の方をじっと見つめている。

「この人は私の部下で最上 啓一郎くんだ。小夜、お前の旦那さんになる人だよ。お前は高等女学校を辞めて啓一郎くんの奥さんになるんだ」

 父の思わぬ発言に、私は固まった。最上とかいう男が何か言っているが、私には何も聞こえない。

 まだ小百合の四十九日の法要も終わってないのに?

 この仕打ちはなんなのか。

 そんな考えがグルグルと頭に回りだし、怒りで身体が震え、頭に血が登りすぎたのか私の目の前は真っ暗になった。


 目を覚ますとそこは自室で、襖が開放されて夏座敷になっていた。

 小百合が死んだのを思い出したくなくて避けていたその場所は、血で汚れた畳が取り替えられてその場所だけ真新しい、い草の匂いがする畳になっていた。

 静かな空間に風鈴が鳴り響き、湿風が吹いている。

 八月四日のあの日のように、小百合が隣にいる気がした。

 でも実際にいたのは最上で、月明かりが頼りの真っ暗な部屋で、二人きりだったことに悪寒がする。

 結婚を断るタイミングは今しかない。意を決して私は乾いた口を開いた。

「あの、私は貴方と結婚する気はありません。まだ十六歳の青臭い学生で世間を知りません。貴方の奥さんになれるような器ではないのです。父には私から……」

「大丈夫だよ小夜」

 最上が荒い息づかいで私に馬乗りになった。

「やめてください。父を呼びますよ」

「大丈夫、大丈夫なんだ。お義父さんは多少乱暴しても構わないと言っていた。男の良さをわかるはずだと……」

 その言葉を聞いて私は絶句した。

 嗚呼、この世は地獄だ。



 私は小百合を追って自殺しようと計画していた。

 綺麗な身体のまま死んで、同じ墓に入りたい。

 ずっと一緒。その約束を守りたかった。

 でもそれももう、叶わぬ夢。

 私は汚されてしまった。



 八月一日

 久方ぶりにこの日記を書く。

 夏が来る度に小百合のことを思い出し、泣いて、絶望する。

 私は生き人形のような生活をしている。

 何故、私は生きているんだろう?

 汚れたままの身体では小百合に顔向けできないからか。

 この自問自答を何千回、何万回してきたのか。

 その間に憎いあの男との息子が生まれた。

 人形のように動かない私を抱くあの男は、私以上に頭がイカれているのだろうか?


 八月十日

 孫が生まれた。

 八月十日に。

 小百合の命日に。

 女の子が。

 私は慌ててこの日記を取り出した。

 紙が悪くなっているかと思ったが大丈夫そうだ。

 孫を一目見たとき笑みが出た。

これは小百合が私のために与えてくれたものに違いない。

 私はこの子に紗夜と名付けた。


 八月九日

 十六年、紗夜は順調に育ってくれた。

 私の若い頃にそっくりだ……。

 ありがとう紗夜。

 そしてさようなら。


 * * *


 日記はここで終わった。

 読み終わったと同時にアタシはどうしようも無いほど強烈な眠気に襲われている。

 無理もない、もうすっかり深……夜……。




 目を覚ますと、まだ日は昇っていなかった。

 月明かりが部屋を照らしている。

 湿風が吹いて縁側の風鈴がチリン。と鳴り響く。

 体を起こして、夏座敷になっている部屋の奥を何気なく見てみると、そこに誰かが座っている。

 綺麗に手入れがされている黒くて長い髪、切り揃えられた前髪、青白い、綺麗な肌に紅い唇、抱きしめると壊れてしまいそうな華奢な身体……。

 アタシはこの人を知っている。

 ずっとずっと、会いたかった。

 会えたのが嬉しくて、涙が止まらない。

 アタシは彼女の正面に座った。

 紅い唇が動く。

〝サ、ヨ〟

 アタシは……私は小百合を抱きしめた。

 やっと私たち、一緒になれたね。

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