落ち合ふ

小余綾香

不見仕舞<みずしま>

 波頭が白い泡を立てて崩れ、果てながら岸に打ち寄せる。

 程なく閏十月うるうかんなづき、浜をすさぶ風は冷たい。その寒々しい海辺に一騎、黄昏を臨む影があった。かずいて身に巻き付けた布のひるがえる儘、時に砂を掻く白けた葦毛を手綱捌きが一所ひとところに縫い留めている。

 黒い島々の浮かぶ先、遠く幽冥ゆうめいの狭間に錆朱さびしゅが棚引く。その置き去られる艶へ騎馬は半身を向けていた。夕日の名残は刹那毎に青み、明かりを手放して行く。


 海が蠢く闇と化そうとするのを見届けたように、それは動き始めた。

 途端、浜風が吹きやる。駒が強かに打たれてかしらを振るう。綱を軽く絞りながら、人影は馬首に片手を添わせた。上躯がかしぐのをこらえ、手は柔らかに獣の怯えを宥める。

 その隙に被衣かづきが解け飛んだ。舞い上がった髪は一髻いっけいを結って尚長く、大蛇おろちに似てうねる。それは帯びた腹巻鎧と釣り合わず、此方こなた彼方かなたの混じり合う時を彼岸に寄せる怪しさがあった。

 飛びやったきぬは挑発的に辺りを漂い、伸ばした指先をあしらって去る。女は俯きながらたてがみに身を寄せた。落ち着きなく空足を踏んでいた馬が駆け出す。


 絶え間ない波音が重く横から騎に被さり続ける。

 辺りは暗闇に包まれ、馬は丘へと鼻を向けた。遠ざかる彼等の背を尚も潮騒は追う。しかし、響きは少しずつ、少しずつ距離を離され、後ろで未練気に唸った。

 いつしか走りは歩みに変わり、枯れ枝と下生えを踏む音が静けさを挟む。前方からとぼしの明かりが漏れ伝った。


御前ごぜ、どちらに……」


 老いた葦毛を認めた兵が苦々しく声をかけた。


しおが引くに合わせ、牟礼むれへ渡られるよう、お伝えした筈です」

雲客うんかくの地には参れません」


 女は淡々と答えた。兵は渋面をあらわに黙し、後顧して頷く。男が二人進み出て差縄さしなわを取った。

 幽かな濤声と騒ぐ木々の鞘当てに、火のぜるが割り入る。おとが闇を生々しく息づかせ、秘められた気配が沈黙を一層張り詰めさせた。

 じょう

 げんを弾ずる響きが俄に夜を震わす。


「若殿様はお留まりに?」


 女は瞠目しながら誰にと言うでもなく問うた。馬きが互いを見交わす。いとまに琵琶が夜気を伝い来る。調べは一滴ひとしずく、一滴、滴り出て水を打つかに奏でられる。


「御前をお待ちです」


 先刻の兵が冷ややかに答えた。

 雑然とした足音と葉擦れのに、澄み渡るが闇より滾々と湧き出る。黄鐘おうしき平調ひょうじょう上無かみむ、上無、黄鐘、平調、平調……。


――流泉。


 女は胸内で呟いた。

 夜が明ければ波間に浮かぶ島々の先、水島途にて戦が開かれる。本三位中将を大手の大将に、門脇中納言家より嫡子とその弟も将と立てられた。率いられた千艘程がとまりを出てより絶えることなく一門の必勝を祈念する姿がそこここにある。

 しかし、奏者の音色はそれからは遠い。瑞兆の現れたとして勇むこともない静かが調べに宿る。


――若殿様の心は悟りにおありか……。


 琵琶のは唯、果てなく美しかった。この世の情、全てを忘れてしまいそうな響きが身の内を抜ける。何とも知れない涙が浮かび、それさえも心を素通るようだ。女は気を張り直し、水を散らした。

 弾き手が六萬寺の行宮へ赴かず、この地に留まったは、これを奏でる為であったかもしれない、と思いながら。


 がくは巡り続けた。女は西海に臨む門前で下馬し、内へと進む。鎧のさねが鳴り、妙なる調べに被さった。

 琵琶の音色が不意に途絶える。

 無粋な気配を携え、女が静謐の奥へ歩を進めると、坊の外廊に坐する人の姿が見えた。灯火を受け、花やぐ直垂の錦の紫。それを纏う人は彼等の訪れを闇の一部を見るかに迎える。兵達が膝をついた。

 女は欄干近くへと歩み寄る。男もそれを拒まなかった。


「勇ましいことだ。海神わたつみへ捧げに赴いたか?」


 何を、と語らない人に女もまたはぐらかし、婉然と微笑んでみせる。


「私如きの舞ではご不興を買いましょう。海神は雅に慣れておしまいです」


 息を詰めて兵達の下がる音がじりじりと遠ざかり、やがて静寂しじまおとなう。薪が爆ぜ、火の粉が散った。篝火の届く中に息遣いが2つ、重なり合えずに命を紡ぐ。


「若殿様の琵琶にお力添え頂いても宜しゅうございますか?」


 女が問うた。焔を宿して艶めく双眸を男は見つめ返す。円かな楽器が微かに起きかけ、止まった。物憂げに細められたその目はやがて閉じられる。琵琶が横たえられた。女の瞳から婀娜な色が褪せる。

 それを見ることもなく男は立ち上がった。衣擦れが鳴り、袖が翻る。再び静寂の訪れた時、男は女に背を向けていた。


「亡き伯父上は島を築くに経を埋めた御方ぞ」


 告げる声にだけ幾許いくばくかの熱が宿る。返らぬ背を女は見送った。

 暗闇から遠く細い鳥の声色こわねが伝い渡る。


「……が鳴けばこころもしのに古へおもほゆ」


 自ずと歌の欠片が唇から零れた。




 女は眠らぬ儘、東雲しののめを待った。

 その朔日は昼中をが訪う、と以前、男は囁いた。しかし、常と変わらず東天は明けに染まり、刻々と増す光が地を照らし出す。丘腹からは朝日の中、五百重波いおえなみ立つさえもが見えた。

 波の彼方に水戦は始まる。

 海は闇と同じに容易に人を吞む。昨夜にも劣らず風荒ぶ海原は殊更に贄を欲するようでもあった。


 女は小さく息を漏らした。

 芸を頼み、時めく一門の目に留まろうとした身には、思う人のさきくあるを願い、己を捧げる方が似合う。戦の勝利がそれを叶えるなら今、この時にでも海神の元へと行けた。

 しかし、それが勝戦かちいくさをもたらしたとして最早、男の心がうつつに戻ることはない。


 日輪は欠け始めた。地に薄闇が落ちる。成す術もなく翳り行く世を見届け、女は鞘を払った。黒々とした垂髪を手繰り寄せ、短刀を宛うと次の刹那、鋭い刃は肩下の髪を落とす。

 一房、二房、三房……黒蛇の如き髪が風に分身を散らしながら体を投げ出す。未だ命あるかに渦巻くそれを風がまた攫って行った。





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<用語解説>

一髻いっけい

 ……頭上で髪を束ねて一つ結う髪型。毛先を根元に巻き付け処理するのが基本だが、作中ではそこから垂髪している。


雲客

 ……清涼殿へ昇ることが許されている殿上人。雲上人。


黄鐘おうしき

 ……十二律で、Aに当たる音。

平調 ひょうじょう 

 ……十二律で、Eに当たる音。

上無かみむ

 ……十二律で、C#当たる音。


流泉

 ……琵琶で独奏する三秘曲の一つ。弥勒菩薩が浄土で菩提心へと導く為に奏でている曲とされ、別名「菩提楽」。


本三位中将

 ……平清盛の子、重衡。

門脇中納言

 ……平清盛の弟、教盛。


行宮

 ……帝の行幸時に設ける仮の宮。


汝が鳴けば心もしのに古へ思ほゆ

 ……柿本人麻呂の詠んだ『淡海の海 夕波千鳥 汝が鳴けば 心もしのに 古へ思ほゆ(淡海乃海 夕浪千鳥 汝鳴者 情毛思努尓 古所念)』の一部。琵琶湖の夕波に飛ぶ千鳥、お前が鳴くとしみじみと昔が思われる、の意。かつて都であった荒れた近江を目にした後の歌。

 平経正は都落ちより前、琵琶湖の竹生島に参詣し、戦勝祈願の法楽を行い、流泉を弾いた、と『平家物語』の一部は語る。

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落ち合ふ 小余綾香 @koyurugi

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