落ち合ふ
小余綾香
不見仕舞<みずしま>
波頭が白い泡を立てて崩れ、果てながら岸に打ち寄せる。
程なく
黒い島々の浮かぶ先、遠く
海が蠢く闇と化そうとするのを見届けたように、それは動き始めた。
途端、浜風が吹きやる。駒が強かに打たれて
その隙に
飛びやった
絶え間ない波音が重く横から騎に被さり続ける。
辺りは暗闇に包まれ、馬は丘へと鼻を向けた。遠ざかる彼等の背を尚も潮騒は追う。しかし、響きは少しずつ、少しずつ距離を離され、後ろで未練気に唸った。
いつしか走りは歩みに変わり、枯れ枝と下生えを踏む音が静けさを挟む。前方から
「
老いた葦毛を認めた兵が苦々しく声をかけた。
「
「
女は淡々と答えた。兵は渋面を
幽かな濤声と騒ぐ木々の鞘当てに、火の
「若殿様はお留まりに?」
女は瞠目しながら誰にと言うでもなく問うた。馬
「御前をお待ちです」
先刻の兵が冷ややかに答えた。
雑然とした足音と葉擦れの
――流泉。
女は胸内で呟いた。
夜が明ければ波間に浮かぶ島々の先、水島途にて戦が開かれる。本三位中将を大手の大将に、門脇中納言家より嫡子とその弟も将と立てられた。率いられた千艘程が
しかし、奏者の音色はそれからは遠い。瑞兆の現れたとして勇むこともない静かが調べに宿る。
――若殿様の心は悟りにおありか……。
琵琶の
弾き手が六萬寺の行宮へ赴かず、この地に留まったは、これを奏でる為であったかもしれない、と思いながら。
琵琶の音色が不意に途絶える。
無粋な気配を携え、女が静謐の奥へ歩を進めると、坊の外廊に坐する人の姿が見えた。灯火を受け、花やぐ直垂の錦の紫。それを纏う人は彼等の訪れを闇の一部を見るかに迎える。兵達が膝をついた。
女は欄干近くへと歩み寄る。男もそれを拒まなかった。
「勇ましいことだ。
何を、と語らない人に女もまたはぐらかし、婉然と微笑んでみせる。
「私如きの舞ではご不興を買いましょう。海神は雅に慣れておしまいです」
息を詰めて兵達の下がる音がじりじりと遠ざかり、やがて
「若殿様の琵琶にお力添え頂いても宜しゅうございますか?」
女が問うた。焔を宿して艶めく双眸を男は見つめ返す。円かな楽器が微かに起きかけ、止まった。物憂げに細められたその目はやがて閉じられる。琵琶が横たえられた。女の瞳から婀娜な色が褪せる。
それを見ることもなく男は立ち上がった。衣擦れが鳴り、袖が翻る。再び静寂の訪れた時、男は女に背を向けていた。
「亡き伯父上は島を築くに経を埋めた御方ぞ」
告げる声にだけ
暗闇から遠く細い鳥の
「……
自ずと歌の欠片が唇から零れた。
女は眠らぬ儘、
その朔日は昼中を
波の彼方に水戦は始まる。
海は闇と同じに容易に人を吞む。昨夜にも劣らず風荒ぶ海原は殊更に贄を欲するようでもあった。
女は小さく息を漏らした。
芸を頼み、時めく一門の目に留まろうとした身には、思う人の
しかし、それが
日輪は欠け始めた。地に薄闇が落ちる。成す術もなく翳り行く世を見届け、女は鞘を払った。黒々とした垂髪を手繰り寄せ、短刀を宛うと次の刹那、鋭い刃は肩下の髪を落とす。
一房、二房、三房……黒蛇の如き髪が風に分身を散らしながら体を投げ出す。未だ命あるかに渦巻くそれを風がまた攫って行った。
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<用語解説>
……頭上で髪を束ねて一つ結う髪型。毛先を根元に巻き付け処理するのが基本だが、作中ではそこから垂髪している。
雲客
……清涼殿へ昇ることが許されている殿上人。雲上人。
……十二律で、Aに当たる音。
……十二律で、Eに当たる音。
……十二律で、C#当たる音。
流泉
……琵琶で独奏する三秘曲の一つ。弥勒菩薩が浄土で菩提心へと導く為に奏でている曲とされ、別名「菩提楽」。
本三位中将
……平清盛の子、重衡。
門脇中納言
……平清盛の弟、教盛。
行宮
……帝の行幸時に設ける仮の宮。
汝が鳴けば心もしのに古へ思ほゆ
……柿本人麻呂の詠んだ『淡海の海 夕波千鳥 汝が鳴けば 心もしのに 古へ思ほゆ(淡海乃海 夕浪千鳥 汝鳴者 情毛思努尓 古所念)』の一部。琵琶湖の夕波に飛ぶ千鳥、お前が鳴くとしみじみと昔が思われる、の意。かつて都であった荒れた近江を目にした後の歌。
平経正は都落ちより前、琵琶湖の竹生島に参詣し、戦勝祈願の法楽を行い、流泉を弾いた、と『平家物語』の一部は語る。
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落ち合ふ 小余綾香 @koyurugi
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