第5話

 掲示板に貼られたユキの顔は、今日も笑っていた。その隣で不機嫌そうな指名手配犯がカメラを睨んでいて、上には慰霊の掲示がされている。


(ユキがいなくなった日と同じ日じゃないか)


 昭和にまでさかのぼるその事故は、今ではほとんど知られていなかった。時間とは残酷なものである。ユキの消息がたった2ヶ月の間に忘却の闇に呑まれたことを思えば、40年以上も前のことなど実際には誰も記憶していないことだろう。


 それでも、ポスターには14もの名前が残されていた。

 男女も混じっていて、年齢もまばらだ。偶然乗り合わせた人々が運命を共にし、忘却という恐るべき敵との戦いを、駅の掲示板などという小さな戦場で40年も戦い続けている。

 その終わりなき戦いの不毛さは、まるで暗い触腕しょくわんとなってすぐ下で微笑ほほえむユキに襲いかかろうとしているようだった。すでに2年の時が彼女をむしばみ、無関心の暴力が僕の体にまでも無数の毒牙を突き立てている。


 ICカードをかざして、ホームへの階段を上る。その光景は昨日と何ひとつ変わらない。ホームではまた蛍光灯のジリジリいう音が聞こえて、今度は反抗的なコガネムシが体当たりを繰り返している。


 カツン、カツン


 その音は弱々しいが、いつまでも繰り返されていた。


 いつも同じ車両に乗る女性の姿はない。よりによって今日いないというのは、およそ迷信や心霊などを信じない自分であっても、不吉な予感を抱かずにはおれなかった。


 しかし昨日と何が変わったわけでもない。

 向かいのホームに人はなく、歯科医と専門学校の広告だけが2つ並んで、その四隅には薄く苔が這っている。ホームは明るく照らされていて、伸びゆく線路は闇の中に溶け込んでいた。


 視界の隅の方で、蛍光灯がひとつチカチカと明滅する。向かいのホームのどれかの電灯が消えかけているのだろう。


 いつもと変わらない陳腐ちんぷな発着ベルが鳴る。闇から車両が這い出した。金属の擦れる音がして、2両編成の赤茶けた車体はホームに肩を寄せた。


 立て付けの悪い扉がガタガタと振動しながら開く。誰もいない車内でいつもの席に腰を下ろした。左右を確かめても、車列は2両編成だ。当たり前のことだが、ただそれだけのことに安堵あんどする。


 恐怖は人の目を曇らせるものだ。人々が突然恐れ始めた伝説も、恐怖が彼女たちの目を曇らせ、事実から遠ざけていたのだろう。これがただの電車であるという、ありふれた事実から。


「でも、昨日までは何も言わなかった」


 懐かしい声がフラッシュバックする。

 ユキが消える前日、僕たちはちょっとした口論をした。何を巡って争ったのかなど、今となっては覚えていない。あの日から僕の記憶は曇ってしまって、ただ頭痛と窒息感だけが人生を共に歩んでいた。


 くたびれた扉が役割を思い出し、バタバタと閉ざされる。照明が舟を漕ぐように1つだけ瞬いた。


 今日はこういう光景をいくつも見た気がする。


 体が後ろに引っ張られ、電車は穏やかに進み始める。


 向かいのホームが流れていく。穏やかに、静かに過去になる。


 そのただ中に、青いワンピースの女性が立っていた。

 目元は黒い影に覆われ、美しい鼻と口元だけがのぞいている。


 僕の全身が凍りついた。

 喉に唾液がこびりつくのを感じる。


 まだホームが流れ去る前に、その照明が全て消えた。

 窓には生気を失った自分の灰色の顔だけが残されている。


 景色は流れているのか、止まっているのか、ただそこには電車が進んでいるということだけを語る、言い訳のような振動音が続いていた。


 ガタン、ゴトン


 臆病と恐怖が、僕の体を押さえつけていた。

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