第6話

 どんな駅でも構わない。僕は次に止まった駅でこの電車を降りようと決めた。背中に汗がつたうのを感じる。それでも残された理性は、電車がただいつも通りに走っているだけかもしれないと言い聞かせようとしていた。たしかにこの電車を恐れる十分な理由も根拠もない。しかしそんな冷静な思考より、身に危険が迫っているという直感が僕を支配していた。


 手すりにつかまって立ち上がろうとして、情けないひざが笑った。左手に拳を握り、ももを強く叩く。


 それと全く同時に、車内の照明が一斉に明滅を始めた。


「やめろ!」


 誰もいない車内に声が響いた。手すりを両腕で抱き、その中に顔を埋める。


「止めろ! もう降りる! 降りる!」


 不規則に照明が明滅する中で、車体が大きく揺れる。僕の体は手すりから引き剥がされた。


 尻餅をついたまま、扉へと這い進む。左手がようやく扉に触れて、僕は力任せにそれを叩いた。扉のガラス窓の向こうは相変わらず無限の闇が覆っている。車内灯が激しく瞬くたびに、曖昧に曇った顔が反射して、その残像がまぶたに焼き付く。


 僕は思い切り頭を下げて、窓ガラスに叩きつけた。激痛が走ったが、窓ガラスにはヒビも入らない。今度はガラスを殴りつけてみたが、やはりビクともしなかった。


 力の限り叫び扉を叩いても、運転士が現れることも、駅が現れることも、それどころか窓の外にいかなる景色が現れることもない。ただこれが電車であることを忘れないようにと、一定のテンポであの音が響いているばかりだ。


 ガタン、ゴトン


 このままどこかに連れていかれるというのだろうか。


 拳がしびれて、苛立ちが沸き起こる。


「ふざけんな! 降りるっつってんだろ!」


 腹の底から飛ばした怒号は、やはり車内に反響するばかりだった。


 もう一度強く拳を握る。もはや膝は笑っていなかった。

 腰に重心を乗せて、拳を引く。


 激しい点滅が、窓に僕の姿を反射させた。目は釣り上がり、眉間にシワが刻まれている。


 扉を叩き壊そうとしたとき、車内の照明が一斉に明滅をやめた。今や照明たちは白く冷笑的に車内を照らしている。引いた拳を叩きつける先を失い、僕はその格好のつかなさに余計に苛立った。


 どこからか、言葉の判然としない囁き声が聞こえる。

 左右の座席には誰もいない。それでも確かに声が聞こえてくる。

 さらさらとした声が耳から入って頚動脈けいどうみゃくを伝う。

 声は左右の胸のあたりで散り散りになって、胃のあたりで渦を作った。


 動悸。


 耳鳴りだ。僕は結論した。高血圧は耳鳴りを引き起こす。誰もいないところに声が聞こえるわけもない。僕は理性を失ってなどいないのだ。


 ——果たしてそうだろうか?

   ほんとうにここには誰もいないのだろうか?


 僕は進行方向を確かめる。その先にまた幻覚の車両が現れているのではないかと。しかしそこには、運転席の存在を示す扉があるばかりだ。


 その上の電光掲示に、次の駅名が表示された。

 H駅。僕の最寄駅だった。


 間の駅はどこに行ってしまったのだろうか。それとも、僕はまたしても微睡まどろみに幻を見たとでもいうのだろうか。


 


 体に慣性がかかって、車列の減速を知った。僕は残り短い乗車時間で、車列の反対側を見るべきか迷っていた。そちらを見れば、必ずこの列車に異常を見出すことになるという、根拠のない確信があった。


 だからこそ、後方車両を見てはならない。

 見なければ何も存在しないのだ。幻の3両目も、青いワンピースの女性も、あるいはそれを凌ぐ恐ろしいも。


 窓の向こうに見慣れた景色が滑り込む。

 H駅のホームが減速し、立ち止まる。


 不満げな息を漏らしながら、扉が左右に開かれた。夜の空気が汗にまみれた体を冷たく撫でる。ホームに左足を踏み出したとき、僕は自分がひどく疲れてしまっていることを知った。

 想像を凌ぐ重さに俯く。


『4号車前側乗降口』


 薄汚れた掲示に絶句する。夜が体温を失った。


 再びガタガタと立て付けの悪い音を鳴らしながら、硬直した僕の背で扉は閉ざされる。モーター音が鳴って、車列は加速をはじめた。


 バンッ!


 背後で車体を強く叩く音がした。

 ギョッとして振り返り、僕は自分の目を疑った。


「ねえ! 出して! 助けて!」


 閉ざされた車両の中で、窓を叩いて助けを求める女性……いや、ユキがいた。


 僕はホームを駆け出す。走り出した電車を追って、ユキが叩く扉を外側から強く叩いた。


「ユキ! 割れ! 叩け!」


 しかし加速を始めた電車に、僕の足が追いつこうはずもない。僕が遅れると、ユキは車内を走って僕に追いすがる。


「出して! ここから出して!」


 電車はすぐに僕を離れた。ユキを乗せたまま、ホームの明かりを残して闇の中へ消えてゆく。車両から漏れ出る明かりは今一度チカチカと点滅した。

 僕は深い闇の中に呑まれゆく車列をにらむ。


「1、2、3……4両」


 確かに4両編成に違いない。乗ったときには2両だった編成が、4両に変わっていた。しかも僕は後ろの車両に乗っていたはずだ。あの恐ろしい点滅の間に、僕は先頭車両、しかも存在しないはずの4号車に乗せられ……


 全身に鳥肌が走った。


(ここもじゃないか……)


 本来2両編成のE鉄道に、4号車乗降口の案内など必要ない。

 僕は飛び上がって退き、ほとんど四つん這いになりながら改札へ急いだ。もう一度振り返っても、長くなったホームが縮まることはなかった。


 ホームの先に続く闇を睨みつける。

 その先に列車は見えなかったが、僕の目には確かに1つの光明が見えていた。


 ユキを救えるかもしれないという可能性の光が。

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