第7話
「——さん! ——さん!」
僕はデスクに突っ伏していた。いつの間に出社したのだろうか。あの電車を降りてからの記憶が曖昧だ。空調の音だろうか、低い唸るような音が続いている。
「ごめんごめん、なんだったっけ」
「なんだんたっけじゃありませんよ、大丈夫ですか?」
発注書を受け取って0の数を確かめる。ペン先を弾ませながら、口の中で桁を
乾燥した瞳が痺れて、瞼を下ろす。暗闇の中で、何かがチカチカと瞬いた。
呼吸を整えて目を開くと、数字たちは紙の上に散らばっていた。縦横に走った檻から逃げ出した数字たちが、僕の視線に気づく。その一瞬の硬直のあと、数字たちは紙面の端へ向けて駆け出した。
その異様な光景を前にしても、僕の頭はぼんやりとして、ペン先を見ているだけだった。いよいよ最後の数字が——たしかそれは2だった——が紙から逃げ出したとき、僕はようやくそれを差し出した部下を見上げた。
女性の顔は判然としなかった。口元と鼻先が見えるが、その目は暗くてよく見えない。ただ彼女は薬指で前髪を整えた。
「どうかしましたか?」
「数字が逃げた」
「はい?」
「ちゃんと檻に入れないといけないんだ。数字っていうのは結構自分勝手だから」
「大丈夫ですか?」
手元を見ると、ペン先に0が引っかかっている。引きずって檻の中に離すと、細い筋が描かれた。0はそれを引っ張って内側に取り込み、黒々とした円に姿を変える。
「ほら」
「え?」
指し示したところを覗き込む。胸元に鎖骨が見えた。つい先ほどまで事務の制服を着ていたはずの女は、青い花柄のワンピースに着替えていた。
「職場でそういう格好はどうかと思うな」
オフィスは色彩を失っていた。灰色の人たちが壊れた映写機で映し出されたみたいに曖昧な動作で作業を続けている。白黒の明滅が彼らの動きをコマ送りみたいにしていた。
「制服ですよ」
「だろうね。これ、大丈夫なんだろ」
発注書には数字たちが戻っていた。しかし今更それを数える気にはなれない。
「え? はい。でも……いいんですか?」
印を押して押し返す。女は戸惑いを向け続けている。
恐る恐る差し出された指先がかすかに震えているのが見えた。わずかなためらいが覗いたあと、指が再び伸び、発注書に絡む。
僕はその腕を掴んだ。
「きゃっ!」
怯えた瞳が丸く輝いた。腕を振りほどこうとする弱々しい抵抗が、拳の中で暴れる。その袖は、事務の制服のそれに違いなかった。
「……ごめん」
握った手を離す。部下は崩れ落ちて腕を抑えた。
オフィス中の視線が僕に向けられている。
「違うんですよ、何か……幻覚が……」
誰にということもなく、張り詰めた空気の中に愛想笑いを浮かべる。しかしそれが誰かのところに届くことはなく、オフィスを曖昧に漂うばかりだった。
部下は自らのデスクに発注書を投げると、そのまま休憩室へ逃げ出した。2人がそれを追う。
「パワハラですよ。何かミスでもしたんですか」
「いや。何かがおかしいんだ。気が狂いそうで、意識が曖昧だし……今日どうやってここに来たのかも……」
若い男は腕を組んで目を細めていた。黒々としたスーツは喪服のようにも見える。
「精神科にでもいったらどうですか」
「それがいいかもしれない。妻がいなくなってからこっち——」
口にしかけて言葉を飲み込む。職場では妻の失踪についてあまり話さないできた。むろん、多くの人がそれを知っているには違いないのだが。
「それですよ。忘れてたんですか?」
男の声に高い声が重なっていた。
視線を上げると、男はいつのまにか青いワンピース姿の女性に姿を変えていた。
「E鉄道ですよ」
太陽までも停電した。
言い訳のような音が響き始める。
ガタン——ゴトン——
足元が大きく揺れた。
崩れ落ちた僕を、座り慣れたシートが受け止めた。
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