第8話

 列車は走り続けていた。しかし窓の外は暗く、それが左に進んでいるのか、右に進んでいるのかもわからない。


 ひらひらと紙が落ちた。拾い上げると、それはユキの情報を求めるあの張り紙だった。その顔の中心から赤黒いシミが広がり、失われていく。


「やめろ……思い出せなくなる……やめてくれ……」


 シミを止めようと親指で擦り付けると、ポスターはそれ自体が自らの形を保てなくなったように崩れ始めた。まるで湿った灰のようにへりが割れて落ちると、足元で砕け灰色の砂となった。

 靴に粉が散ると、手元には汗でぬかるんだ泥のような感触だけが残っていた。さながら血のようでもあった。


「違うんだ。ユキを探してるんだ……」


 自分がいつ電車に乗ったのかなど、わかる由もなかった。あるいは昨日からずっと乗っていたとでもいうのだろうか。しかし僕はたしかに降り、そして——


 ユキを見た。車両に閉じ込められたユキの姿を。


「どうかしました?」


 いつも同じ車両に乗る女性が、心配そうに僕を覗き込んでいた。


「これがどうかしてないっていうんですか?」


 しかし電車はいつも通りの姿をしている。照明は明るく彼女を照らし、窓には僕の灰色の顔が写っていた。


「すごい汗ですよ。次の駅で降りた方が……」


「ええ、降ります! 降りたいんですよ! 降りれるなら、こんな電車……」


 気が狂ってしまったのだろうか。意識も混濁して、判断力も低下して、幻覚に見舞われて……


 キィィィィィィッ!


 激しい金属音が響く。体は慣性に備えたが、そんなものは生じなかった。ただ目の前にいたはずの女性の体が筋状に右に引き伸ばされた。グラフィックスのバグか引き伸ばされた絵の具みたいに輪郭が崩壊した彼女は、そのまま左の端から消えていった。まるでどこか別の世界へ引きずり込まれたようでもあった。


 あるいは、自分の方がどこか別の世界に運ばれているのか。


 だとすれば、ここにユキがいるはずだ。神隠しの先の世界。あるいはそこへと僕を運ぶ呪われた車両——幽霊列車の中に。


「ユキ!」


 立ち上がった。車両連結部では隣車両がひどい眩暈を起こしている。その先も、またその先も、そしてその先も。車両はいくつも続いて、その不規則な運動は蠕動ぜんどうを思わせた。僕を呑もうとでもしているかのような。


 隣の車両で、女性が立ち上がった。

 青い花柄のワンピースがふわりと揺れる。

 誘うように、彼女の背は遠ざかっていく。


 僕の喉は唾液さえも通れないほど硬かった。


 いったい誰なのか。僕が何をしたというのか。ユキさえも彼女が連れていったというのだろうか。


 扉に手をかけ、右に引いた。日常の冷笑的な滑らかさでスライドし、モーターの熱気を帯びた生ぬるい空気が汗ばんだ肌を舐めた。


 不吉なデジャビュが僕を襲った。隣の車両へと続くもう1つの扉に手を伸ばし、それを反対に滑らせたとき、僕は間違いなくその光景を記憶していた。扉がスライドし、ガラスの向こうの景色だったものが手の届く光景へと変わる。誰もいない車両、突如として揺れることをやめ、言い訳のような音がうなる光景。


 すでにあの女性の姿はなかった。それでも僕はその車両に足を踏み入れる。


 いったい何のためなのだろうか。

 ユキを見つけるためなのだろうか。


 僕はそれほどユキを愛していたのだろうか。僕を残してどこかに消えることを選んだ彼女を。


 囁き声が聞こえた。その声は僕の脳をくすぐったと思えば、次にはかき回した。言葉を結ばない空気が擦れ合うような囁き声が、僕の頚動脈を通って肺に広がる。肩から肘へと緊張が広がると、囁き声はそれを逃さず指先までも駆け抜け、そこで好き勝手に僕の体をすり合わせていてみせた。


 しかしここには誰もいない。窓ガラスにはただ僕の灰色の顔が写っている。


 はずだった。


 しかし窓に映っていたのは、僕一人の姿ではなかった。

 灰色の顔をした太った男が、ガラスの向こうからじっとこちらを見ていた。

 しかし実際の車両に男の姿はない。


 囁き声が一層大きくなった。


 反対の窓を見ると、子供を連れた女性の姿があった。二人とも灰色の顔をして、ただ僕をじっと見ている。まるで僕の全てを見透かし、僕の運命さえも知っているとでも言わんばかりの冷たい視線で。


 囁き声が途切れ途切れに言葉を結ぶ。


——***どうかして*****あざ*******コワい***


……


「いちおうお尋ねしますがね、夫婦仲はいかがだったんですか」


 物知り顔のモリタ刑事がそう尋ねた。頬に不愉快な縦皺が目立つ男だった。


「なんですか。僕に愛想を尽かしたっていうんですか! ユキが!? ありえない! 仲は良かったに決まってるじゃないですか!」


「なにも言ってないのにひどい怯えようですね。いちおうですよ、いちおう。こういうときにはあらゆる可能性を考えなければならないんです。それに……」


——***どうかして*****あざ*******コワい***


 囁き声はいまや僕の胸を引き裂こうとしていた。モリタ刑事の姿は、砂嵐のようなノイズとともに消失する。まるでホログラムか何かのように。


 雑音混じりの音は、それでもあのときの言葉を確かに追唱した。


「近所では奥様にひどい痣があったのを見たとか、夫婦喧嘩の声を聞いた、と……」


「うるさい!!」


 拳を強く握り、今や姿を消したモリタ刑事を殴りつける。腕が虚空を切ると、肩が脱臼しそうなほどの悲鳴をあげた。


 右肩を押さえて膝をついた僕を、青いワンピース姿の女性が隣の車両からじっと見つめていた。それだけではない。窓ガラスの向こうで灰色の顔をした人々も、屈辱的な僕の姿を無感動に見つめていた。


「誰なんだ……なんの恨みがある」


「思い出せないの?」


 女性の声はあたりの空気から発されるようでもあった。肩を押さえたまま僕は立ち上がり、車両連結部の窓から僕を覗く暗い影に顔を隠した女性に近づこうと足を踏み出す。


「知ってるぞ……10年くらい前にこの電車で神隠しにあった……」


「10年前に?」


 扉に手をかける。たった2枚の扉が、この女と僕を隔てている。


 しかし扉のフレームが僕の眼前を通ると女の姿は消え、さらに1つ先の車両で同じように僕を見つめていた。その顔はやはり影に覆われてよく見えなかったが、そこに溢れる悪意だけは透けて見えた。


「ユキもこうやって食ったんだ、化け物め」


「ユキ?」


「そうだよ。俺の女だ」


 怒りに任せてさらに次の車両へと歩みを進める。囁き声は体を引き裂くほど強かった。




「何も覚えてないのに?」




 すべての音が止まった。モーター音も、レールの音も、囁き声も。


 照明がチカチカと揺らいだ。


 影に覆われた女の顔が、かすかに光を受けた。

 その顔には、たしかに見覚えがあった。


「ユキ? でもその服の女は10年前に……」


 記憶を辿る。何も思い出せない。いつこの列車に乗ったのかさえおぼつかない僕に、10年も前のことなど思い出すことはできなかった。


 窓の外に光が見えた。


 駅のホーム。駅名表示板はH駅。僕の降りる駅だ。

 恐る恐るドアに向かう。窓の外に、青い花柄のワンピースの女が立っていた。


「ユキ! ユキなんだろ!? 降ろしてくれ! ここから出せ!」


 ドアを叩いても、ユキには何も聞こえないようだった。列車は少しずつ加速を始めた。見慣れたホームの光景が遠ざかり始める。


 取り残されまいと後ろの車両へと走り出す。


 しかし眼前に飛び込んできたのは、車両連結扉の窓に連なる、無数の車両だった。


 立ちすくんだ僕が振り返ると、合わせ鏡のように無数の車両が前にも続いている。


 ゆりかごのような穏やかな揺れとともに、電車であることを思い出した車両は、言い訳じみた音で唸った。



ガタン、ゴトン——

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