幽霊列車

早瀬 コウ

第1話

 ユキがいなくなってから、もう2年が経とうとしていた。


 しかし悲しみより、警察への憎しみが積もる2年間だった。彼らにしてみれば、既婚者の失踪ほど軽んじるべきものはない。およそ夫婦喧嘩が発展して、実家か愛人の元に逃げ込んだというのが関の山だ。どれほど僕が主張しても、彼らが事件の可能性を検討し始めるまで2ヶ月を要した。


 当然2ヶ月も前の記憶は失われている。街ゆく人々がユキの消息を語るなど、期待すべくもない。傲慢ごうまんなまでの日常性が街を支配していた。無名の往来はいつも僕を右左へと揺さぶって過ぎ去り、眩暈めまいと耳鳴りだけが胡座あぐらをかいて居座り続けた。


 駅の掲示板には、指名手配犯と並んでユキが笑っている。この駅が彼女の最後の消息だった。


「その後いかがですか、奥様については……」


 表情の作り方に迷いながら、駅員はそう尋ねた。その手には新たな掲示物がある。


「いえ、なにも」


 クリップを打ち込む駅員の姿をぼんやりと見る。

 頭が重かった。


「人がたくさん通るところですから、いろんな方の人生が行き交うんです」


 掲示には慰霊の文字がある。


「私が勤めるよりずいぶん前のことですが、事故があったそうで。いまでも毎年この日には朝礼で黙祷もくとうですよ」


「はあ」


「でも奥様は改札を通ったのが確認されていますし、あの日は事故も起きていませんから、必ずどこかに送り届けていますよ。まだ黙祷もくとうする必要はないはずです」


「そうですね」


 僕の返事に力はなかった。この気休めがどれほど無意味か知っていたからだ。

 この駅の改札を抜けた後、路線のすべての駅の監視カメラの映像にユキの姿はなかった。つまり彼女は電車の中で姿を消したのである。


 しかし担当したモリタ刑事が“神隠し”と漏らしたとき、僕は彼の胸ぐらを掴んでいた。2ヶ月も訴えを聞かずにいた無責任な組織が、そんな言葉で事件を畳もうとすることが許せなかったのだ。


 事件以来、ユキが消えたのと同じ時間帯の電車に乗って帰るのが習慣になっていた。日が落ち、街の明かりさえもほとんど失われた深夜、ホームにだけ白々とした明かりがあって、どこまでも続く線路は闇の中に吸い込まれている。蜘蛛の巣が張った蛍光灯はジリジリとノイズを立てていて、不眠症の蛾がたわむれていた。


 線路を挟んで対面するホームには誰の姿もない。始発駅の下りホームにはベンチもなく、ただ歯科と美容外科のつまらない広告がぼんやりと光っている。ただその角に苔が少しずつ増えることだけが、時間の経過を語っていた。


 ありふれた発着ベルが鳴って、2両編成の小さな車両が姿を表す。暗がりの向こうに車庫があって、そこで前後を入れ替えた電車はこちらのホームで呆けた口を開くことになる。赤茶けたマットな質感で塗装された車体は、どこか丸みを帯びているようにも見えた。


 自分を含めても、この時間の電車に乗り込む客はほんの4人しかいなかった。1人はいつも乗っている女性で、疲れた表情で決まった座席に座っている。残りの2人は学生風の男女だった。2人はこそこそと会話をしていたが、やがて女が腕を組んで男にもたれると静かになった。


 もう一度発車ベルが鳴った。わざとらしいため息に似た音がして、扉がガタガタと閉ざされた。五線譜に階段を置いたような独特なエンジン音がして、シート越しに重たい振動が伝わった。


 ガタン……


 時折思うことがある。


 こうして同じ時刻の車両に乗っていれば、ユキが送り届けられたどこかにたどり着くのではないかと。しかしホームの明かりが流れ去った窓には、生気を失った自分の灰色の顔が映るばかりで、いつまでも新しい光景は現れなかった。

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