第2話

ガタン……


慣性はまどろみから僕の頭を引き上げた。窓の向こうで駅名表示板が逃げていく。僕の降りる駅だった。


ため息が漏れる。


前にも一度寝過ごしたことがある。おそらくユキもこうして帰り道を失ったのだろう。そしてそのままどこかにたどり着いた。


キィーーーッ


僕はそれをブレーキ音だと思った。


しかしブレーキ音ではありえない。車両の速度は下がっていないし、慣性で体が倒れることもなかった。それはただの金属の摩擦音だ。しかし車両以外のどこからそんな音が鳴り得るだろうか。


窓は相変わらず暗かった。そこには灰色の自分の顔だけが無表情に張り付いている。


右手にいたはずの疲れた女性の姿は見えなかった。前の車両にいたはずの男女の姿もない。車両の連結部には、画面の向こうみたいに揺れ続ける隣の車両の姿が見えている。そしてその先に、さらに隣の車両が揺れていた。


(……あれ?)


何かがおかしい気がした。


自分が最後尾の車両にいたからには、あれが先頭車両に違いない。2つの異なる周期で揺れる車体を経て、先頭車両の揺れは大きかった。その揺れの狭間で、ちらりと青い華やかな服を着た女性の姿が見える。市街地の始発駅以外から客が乗るのは珍しいことだ。


先頭車両の蛍光灯がチカチカと瞬いた。


ノースリーブのワンピースから、白い腕が光っている。その横顔は整って美しかった。近頃の女性は皆若く見えるが、その姿からまだ18かそこらの大学生だろう。

僕がそう思ったとき、電車はカーブに入り、彼女の姿は小窓の内側へと消えていった。


「次はー C駅ー C駅ー ホームとの間にわずかに段差がございます。お降りのお客様は足元にご注意ください」


減速がはじまると、ホームのか弱い明かりが差し込んできた。

あの女性はここでは降りないのだろうかなどと、よこしまな思いがぎる。口説くわけでもなければけるわけでもない。ただ容姿が好みかどうかを確かめたいなどという、くだらない興味だ。


不満げな息を漏らして、扉が開く。


『1号車前側乗降口』


ステップには剥がれかけた案内が敷かれていた。これまでどれだけ多くの靴に踏まれてきたのか、その表面は黒い幕が張ったみたいにくすんでいる。


1つ息をついて、去り行く電車を見つめる。2両編成の赤茶けた車体は、夜の闇に向かって躊躇ためらいなく進む。漏れ出る光は次第に小さくなり、やがてその姿は追えないほど遠くなっていた。


先頭車両の女性はどこまでいくのだろうか。


そう考えたとき、胸のあたりからひどい悪寒が走った。僕はその理由に気づいていた。そして自分が電車の中で悪い夢を見ている最中なのではないかと疑った。しかしもう一度慣性が僕を目覚めさせることはなく、激しい動悸が痛いほどに胸を締め付け、僕の喉を詰まらせるだけだ。


僕は2両編成の最後尾にいたはずだ。

だから2つ隣の車両など存在するはずはない。


だとしたら僕は何を見たというのだろうか。あのチラつく電灯の先頭車両は、いったいなんだったのだろうか。


大きく息を吸い、胸に手を当てる。混乱するのもやむを得ない。しかしおよそ超常現象など起こるはずもない。まどろみが幻覚を見せたのだ。青いワンピースの女性などという陳腐なヒロインを夢想し、同じ電車に乗り合わせる物語をまどろみに思い描いたに違いない。


僕は自分にそう言い聞かせ、薄暗い階段に歩みを進める。


蛍光灯が1度だけカチリと明滅した。

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