第4話

 餃子屋が定食屋の役割を果たすのは、この地域だけらしい。だからといって、食後もたった1杯のビールをだらだらと傾けて長い時間を潰そうとする迷惑な客は、僕の他にいなかった。


 板張りの壁に日に焼けたメニューが並んで、いつの時代と知れないポスターには水着の女性が弾けるような笑顔を見せている。厨房では鉄板にさらされた水が激しい蒸気を立てたかと思うと、その湯気は蓋に押しつぶされた。


 黒縁の丸い時計は、文字盤まで油で曇っていた。僕はその針が進むのをただただ待っている。客の少ない時間ということもあって、僕のそういう振る舞いをこの店は許していた。

 あるいは駅のポスターを見て、僕の事情を知っているのかもしれない。一方的にプライベートな問題を知られているのは良い心地とは言い難いが、この問題について言えば、知られていないよりは知られている方が僕には安心できた。


「帰りはまた電車ですか?」


 汚れたエプロンの奥さんが尋ねた。今日は珍しいことが続く。


「はい。家にいるよりここが落ち着くもので」


「ありがとうございます。でも、お帰りはタクシーになさった方がいいですよ」


 客のいなくなったテーブルから食器を拾い集めながら、その表情は固かった。僕は彼女の言葉に傾けかけたグラスを止めた。テーブルの上に残された円い水の跡に合わせて、慎重にグラスを置く。


「悪い噂でもあるんですか?」


「いえ、そんな……迷信みたいなもので……」


 カウンターに食器を並べると、テーブルを荒く拭きあげる。その迷いのない動作の中で、言葉だけが行き場に困っていた。


「神隠しですよね? 今日部下から聞いたんです」


「ご存知ならいいんです。お気をつけて」


「いえ、それより」


 少しだけ声が大きくなって、奥さんは手を止めた。布巾を曖昧に握った右手を胸に寄せて、眉は下がっている。


「この1年もずっとそうしていたのに、どうして今更おっしゃるんです?」


 軸のずれた換気扇が、妙に強弱のある空気音を鳴らした。食器を洗っていた大将も、なぜかその手を止める。


「どうして……どうしてなんでしょうね。気分みたいなもので……」


 まるで叱られた子供のように、汚れたエプロンで適当に手を拭いてごまかしている。その態度に、僕も思わず口元に手をやっていぶかしむ。しかし僕が次の質問を決めかねていると、彼女は足早に厨房へ逃げ込んでしまった。


「それがね、わかんねぇんですよ」


 滅多に口を開かない大将が、厨房から大きな声を出した。


「わからない?」


「そりゃね、夜の電車は危ねぇって当然言うはずだと思うんだけどね、たしかに今日までなんでか言ってねぇんだ。わかんねぇよこればっかしはサァ」


 口をへの字に曲げてしばらく考えると、大将は頭をかいて愛想笑いで続けた。


「というよりさ、なんでぇ有名な話だから知ってるもんかと思ってさ」


 なんと返すべきなのかわからなかった。グラスの水滴を撫でて気まずさをやり過ごすのは、今度は僕の方だ。そんなに有名な話を、事件の真ん中にいながら知らなかったのだから、たしかに他の誰を責める権利もない。


 飲み残したビールを口に運び、ようやく僕は口を開いた。


「……ありがとうございます。でも、あれに乗らないと帰れないので」


 いつも通り千円札をテーブルに置いて立ち上がる。


「まぁ迷信だからサ、明日も来るかい」

「そのつもりです」

「うい、ありがとさん」


 大将の景気のいい声が店内に響いた。

 ザラザラした感触の引き戸を開いて外に出ると、夜は霧雨に覆われていた。路地の先で街灯がひとつカチリと明滅すると、あたりに舞う無数の白い粒が輝いた。


(傘はなくてもいいくらいか……)


 ジャケットからハンカチを取り出して、僕はいつもの駅へ歩き始めた。

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