最後のざくろ
田所米子
最後のざくろ
柘榴は人肉の味がする、と
――鬼子母神さまはなあ、今でこそ仏教を守る偉い御方やけんけど、昔は人間の子供を捕まえて食べとったんよ。ご自分には五百だか千だか一万だかの、沢山の子供がおるのに。
鬼子母神さまの振る舞いを見るに見かねたお釈迦さまは、鬼子母神さまが一番可愛がっとった末っ子を、隠したん。そしたら、鬼子母神さまは半狂乱や。可愛い我が子を求めて世界中を七日彷徨ったけど、それでも末っ子は見つからん。
それで困り果てた鬼子母神さまはお釈迦さまに縋ったんや。そしたらお釈迦さまは、鬼子母神さまを諭しなさったんや。これだけ多くの子がいるお前でも、子がいなくなったら悲しいのに、たった独りの子を喪った親はどれだけ悲しかっただろうか、ってな。
これまでの行いを心から恥じた鬼子母神さまは、二度と人間を食べないこと、仏教に帰依することをお釈迦さまに約束した。するとお釈迦さまは、隠していた鬼子母神さまの末っ子を、鬼子母神さまの許に戻したんや。そうしてお釈迦さまとの約束を守った鬼子母神さまは、子供と安産の守り神になったんやで。
ようやく秋の涼しさが漂い始めたとはいえ、晶子にとってはまだまだ日差しが強い日。晶子が根元にしゃがんで涼む樹は、見事に赤い、大きな実を付けている。きっともう少しで硬い皮が裂けて、宝石と見紛う種を覗かせるのだろう。
――晶子はなあ、丁度柘榴の時期に生まれたん。それで、晶子って名前にしたんやで。ほら、柘榴の種はきらきらしてて、水晶みたいで、綺麗やろ?
目蓋を下ろせば脳裏に響く声を、晶子は母の声だと認識している。自分と、一回り以上も年が離れた姉の陽子を産んだ母の、優しい声だと。
――お釈迦さまはな、柘榴は人肉の味に似てるからこれからは柘榴を食べればええって、鬼子母神さまにおっしゃったんよ。晶子は目の色も髪の色もなんとなく柘榴に似てるから、きっと鬼子母神さまが守ってくれはるで。
母は晶子を産んですぐに亡くなってしまったのだから、そんなはずはないのに。
晶子の誕生を言祝ぐ母が、柘榴の樹の下で生まれたばかりの自分を抱いて、鬼子母神と柘榴のいわれを語る。そんな出来事があったのだとしても、当時赤子だった自分が母の声を覚えられるはずもないのに。だから、これは自分が作りだした幻想なのだ。母亡き後はただ独りの血縁となった陽子が、晶子の誕生を喜んだはずはないのだから。
皮肉にも疎開先で空襲に遭って一家全員が死んだという富豪の屋敷の残骸の、こちらは幸運にも空襲に焼かれずに済んだ柘榴の樹の陰から一歩出る。降り注ぐ光は、一般的な日本人よりも色が白い晶子には――夫を戦争で喪い、娘を育てるためにやむを得ずパンパンになった母の股から生まれた混血児には強すぎた。
風が吹けば倒れそうなというより、未だ崩れていないのが不思議なぐらいのボロ家の戸に、息を殺して耳を押し付ける。何の音も、気配もしないから、入っても大丈夫だろう。
「……姉ちゃん。帰ったで」
それでも声を押し殺して帰宅を告げたのは、ただの癖だ。
「可愛い妹が帰って来たんやから、一言ぐらい返事してくれてもええんちゃう? 土産も持って来たんやで。――なあーんて、言ってみたところで無駄だってのは分かっとるし、期待もしてへんけどな」
姉の――といっても、父親違いだが――陽子はつくづく不思議な人間だ。
陽子は、晶子の姿を見ると不機嫌になる。それがどれくらい酷いのかというと、晶子はこれまでの十二年の生涯で、陽子の笑顔をついぞ拝んだ覚えがないぐらいに。だのに陽子は、晶子が目の前からいなくなると一層不機嫌になるのだ。その理由は、もしかしたら母ですら顔も名前も分からない父親の血を受け継いで、
それでも晶子は、燦燦と降り注ぐ陽光もなんのその、人目に付く時刻に散歩に出たものである。早朝、仕事に疲れて帰っきては夕方まで横になる姉のために。姉が好きな柘榴を持って帰るために。
つくづく、名前に陽が付くやつはうちに優しくないなあ。
そんなことをつらつらと考えながら、扉を開けた途端むわと鼻腔を刺した臭気を堪えつつ、姉と自分共用の布団の近くまで足を運ぶ。
薄っぺらな布団から突き出た女の頬や唇は、奇妙に青白かった。混血の晶子とはまた異なる白い肌と、この国の人間らしい真っ直ぐな黒髪を誇りにしていた姉。金髪に青い目とはいかずとも、頭髪も虹彩も赤みがかった茶色をした、
それでも自分たち姉妹は、顔立ちそのものは似通っているのではないだろうか。もちろん晶子の方が、陽子よりも彫りが深い顔をしているけれど。目元や口元などは、そっくりなのではないだろうか。
晶子の気配が近づいても怒鳴りつけてこない姉の唇に、主が帰らぬ庭の樹からもいできた柘榴の汁を塗りたくる。真っ白な頬には、道すがら集めた白粉花の種の中身は必要ないだろう。姉は、美しい人なのだ。晶子の前ではいつもいつも夜叉さながらに怒った顔をしていたから、気付けなかっただけで。その事実は、なぜだか晶子を誇らしくさせた。
どうして生まれたと晶子を罵り嘲り時に殴打する一方で、日本をぼろぼろにして占領した憎いアメリカの男に脚を開いてきた陽子。姉は、晶子が彩った唇で偽りの愛を紡いだこともあったのだろうか。米兵に集団で乱暴されたことが切っ掛けで、やむを得ず母と同じ道に進んだ姉だけれど。
そういえば、姉には想いあう相手がいて、しかもその男は無事に戦地から帰還してきたらしいが、その男は今でも姉のことを覚えているのだろうか。酒を呑むといつも姉が呟いていた名前は、結婚の約束までしていたという男のものなのだろうか。晶子は名前だけしか知らないその男のことが大嫌いだった。自分の父親よりも、ずっと。
どこから飛んで来たのだろう。姉の唇に留まった蝿は、追い払っても追い払っても姉に纏わりつく。姉にとっての晶子とは、もしかしたらこの蝿と同じような存在だったのかもしれない。どれだけ邪険にしても、自分にしがみ付いて来る妹は。
「あのな、姉ちゃん。うち、施設に入ることにしたんよ」
冷たいのに柔らかい、奇妙な肌をそっと撫でても、長い睫毛はぴくりとも震えない。
「親切な人が教えてくれてん。ちょっと遠い所に、うちみたいな子を沢山集めた施設があって、そこではアメリカとかイギリスの、子供に恵まれない夫婦の養子になるために、海の向こうに行った人もおるんやて。うちももしかしたら、アメリカさんとかイギリスさんに貰われて、毎日チョコレート食べれるようになるかもしれへんな。羨ましいやろ? 姉ちゃん、アメリカさんは嫌いでもチョコレートは好きやもんなあ」
嘘だった。晶子が姉を置いてどこかにいくはずがない。だが姉は、晶子の
「うちはどんなに嫌われてても、姉ちゃんのことが好きやった。だって、たった一人の家族やもん。せやから姉ちゃんも、うちを棄てずに育ててくれたんやと感謝してた。恩を返すつもりでもいた。冬の寒い日に、姉ちゃんと同じ布団に入って温めあう時ほど、幸せな時はないと思っとった。でも、姉ちゃんは違ったんやな。せやから……」
こちらは本当だった。だが、姉はまたしても何も答えない。
「うちが何回も止めたのに、これからは姉ちゃんが前からそうしろって言ってたようにうちも稼ぎに出るって言ったのに、こんなことしたんやろ?」
耐えがたい憤りに駆られ、晶子は勢いよく姉が首まで包まった布団を捲る。すると露わになった腹は、僅かにではあるが膨らんでいた。
憎い米兵の子を孕んだ姉は、晶子の再三の制止にも耳を傾けず、悪評ばかりが聞こえてくる産婆の元に駆け込んだ。費用がただ同然だという理由で。これまでにも何度か世話になったのだから、今度もきっと大丈夫だと高を括って。
唯一の身内として呼ばれた晶子が産婆の家に駆け付けた時には、股からおびただしい血を流した姉の息は、小虫の羽ばたき同然になっていた。それでも年の割に上背がある晶子は姉を家までどうにか運んで、自分たちの布団に横たえた。が、姉の命の大半は血潮と共に流れ出ていたらしい。
蒼を通り越していっそ土気色になった姉は、晶子が濡れた手拭いを額に置くと、黒々とした目をかっと見開き、晶子を睨みつけた。
「……うちは、お前みたいな子とはさっさとおさらばしたかったんや。せやからむしろ、こうなってせいせいするわ」
「姉ちゃん、」
「お前なんか、生まれた時に鬼子母神さまに喰われてしまえば良かったんや」
――鬼子母神さま。鬼子母神さま。ここに、いなくなっても誰も悲しまない子供が一人おるで。こいつは、晶子は喰ろうてもええんやで。
身体に障るとの晶子の制止も聴かず、姉は一際高い哄笑を響かせた。しかしその笑い声も、ぱたりと聞こえなくなって久しい。
「姉ちゃん、」
幾度か垣間見た化粧する姉を真似て彩った姉の唇に己のそれを重ねても、やはり姉は動かない。
姉ちゃん、今までうちを散々馬鹿にしてきたけど、今度は無視かいな。
腹の底から湧き上がる怒りと、それでもかすかに残った憧憬に駆られて、血と汗を啜った衣服を引き剥がす。
「姉ちゃん、うちにこないされて悔しゅうないか? 悔しかったら、起きてみい。目を開いて、やめんか晶子って言ってみてい?」
もう姉の中にいない赤子のために大きくなった乳房の先端にしゃぶりつく。
「――うちの名前を呼んでよ、姉ちゃん!」
そうして、黒い繁みに覆われた柘榴の亀裂にまで潜り込もうとする蝿に目を留めた瞬間、晶子ははたと気づいた。姉の細く白い首には、赤い指の痕がくっきりと刻まれている。
――鬼子母神さま。鬼子母神さま。喰うなら柘榴じゃなくて、こいつを。晶子を……。
自分ではなく鬼子母神を呼ぶ姉に苛立った晶子が付けた、指の痕が。
「……ごめんな、」
辛うじて生前の名残をとどめる亡骸の腹部には、蚯蚓のような痕がいくつか這い回っていた。晶子が知る限り、これまで姉が身籠った命は皆、産婆の乾いた指に摘み取られていたはずなのに。
明るい色の瞳を裂けんばかりに見開いた娘は、数瞬の後に隠されていた真実に辿りつき、整った顔をぐしゃりと歪める。
「……ごめんな、姉ちゃん。ごめんなあ。ごめんなあ……。うちが……」
いつの間に、こんなに時が過ぎていたのだろう。小さな窓の向こうから赤い赤い、赤すぎる夕陽が射しこむ。求め続けた幻の母の正体を、その不在を悟った娘は、かつて自分がいたはずの腹の上に突っ伏して肩を震わせた。
最後のざくろ 田所米子 @kome_yoneko
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