後編 甘味仲間
背中にはその人間の人生が出るといったのは誰だったか。
人は自分の背中を直接見ることはできない。だけどもしかしたら、ぼくは
事情も状況もちがう。彼の後悔や自責と、ぼくのそれとではまったくの別物だ。それはわかっている。ただときに、人の死はどうしようもなく心を縛る。深く、きつくからみついて闇にひきずりこもうとする。
その渦中に、歩くんはいる。そう直感してしまったから、ぼくはたぶん、とおりすぎることができなかったのだ。
♯
ぼくが育った家庭は、安心とは対極の場所にあった。
酔っては暴れ、酔ってなくても暴れる父親。当時は家庭内暴力も虐待も『家の恥』として、隠される風潮が現在よりずっと強かった。母親もまた、家のことを人にいってはいけないと、ぼくに口止めした。
ぼくは律儀に母親のいいつけを守った。その約束が命綱のように思えたのかもしれない。母に嫌われたら父を止めてくれなくなるのではないかという不安。止める人間がいなくなればすぐにでも殺されるだろうという恐怖。その危機感がいいつけを守らせた。守って、守って、やがて命より先に心が壊れた。
症状は最初、
しかし、それが転機となった。
全身くまなく検査をしても、そこかしこに見える打撲傷以外は異常がみつからない。そこでぼくは、あらゆる心理テストとカウンセリングを受けることになった。家のことは最後まで話さなかった。
それでも、主治医は母にこう告げたらしい。『このままいけば、
♯
家から離れられたからか、入院して一週間ほどで症状は嘘のようにおさまった。そうしてぼくは十日ほどで退院することになったのだけど、そのあいだに母は離婚を決意していた。
話しあいの場がもうけられたのは、ぼくが退院してすぐのことだった。もちろんというべきか、父がすんなり受けいれるはずもなく、離婚話は決裂。ある意味想定内だったので、逆上した父が暴れだすよりはやく、ぼくらは家を逃げだした。そして、福祉の力を借りながら母子ふたりの生活をはじめることになった。
離婚届を郵送し、電話で交渉していた母だけれど、父は直接会わないかぎり離婚には応じないという。それでしかたなく、あらためて話しあうことになったのだが、やはり物別れにおわった。『おまえらを殺しておれも死ぬ』と、包丁を持ってこられては話しあいもなにもあったものではない。密室で会うのは危険だろうと、人目のある飲食店をえらんだのだけど、たいした
結局、駆けこんだ交番で父を足止めしてもらっているあいだに逃げ帰ったのだが、もう離婚はあきらめるほかなさそうな状況だった。
しかし、泣いてもおどしても自分のもとに帰ってくることはないと、そうさとったのだろうか。ぼくらが家を出て一年がすぎたころ、父はみずから命をたった。ぼくが中学一年生のときだった。
父が死んだと聞いたとき、ぼくの心に去来したのはかなしみではなく安堵だった。もう、いつ父にみつかるか、いつ父が殺しにくるかとおびえなくてもいいのだと。
それから、とてもイヤなことに気がついてしまった。ぼくは、よろこんでいた。
家を出てから、いや、ほんとうはもっとずっとまえから、ぼくは父の死を願っていたのだと思う。そして、やっと叶ったと、そうよろこんでいる自分に、このときぼくは気がついてしまったのだ。
その瞬間、安堵は罪悪感に姿を変えた。それは日に日におおきくなっていった。
♯
父の自死を知ったある人は、自分も若いころに親を亡くしたから、ぼくの気持ちがわかるといった。その人の親は病死だったらしい。
またある人は、お父さんはぼくのしあわせを願っているはずだといった。親なら誰だって子どものしあわせを願うものだと。
すごく不思議だった。
若いころに親と死別したからって、なぜそれでぼくの気持ちがわかると思えるのか。
なぜ『親』という枠だけで父の気持ちを語れるのか。ぼくにはまるで理解できなかった。
病死と自死はもちろん、ぼくはどんな別れも同列に考えることができない。
病死にしたって、闘病の末なのか、突然だったのかでもちがうだろうし、亡くなった相手との関係性によっても変わってくるだろう。
病気、事故、自殺、事件。ひとつひとつ。ひとりひとり。事情も状況もすべてちがう。そのおわりかた。別れかた。たとえおなじ事故で亡くなったとしても、
それを自分に引き寄せて、わかったつもりになる他人ほど
まとはずれな共感に、かたちばかりの感謝をのべる自分にも嫌気がさして、心は疲弊していくばかり。
だからぼくは、なんでもないふりをするようになった。事情を知っている人間には乗り越えたようにふるまい、知らない人間には、いつもヘラヘラと笑っている、お気楽な人間を演じるようになったのだ。
その一方で、父の命を犠牲に生き残ったという罪悪感は成長をつづけ、ふとした瞬間に牙をむくようになった。この世から、ぼくという人間を消してしまいたくなるほどに。
♯
誰がどんなかたちで死んだって、お腹はすくし、あくびだって出るし、たわいない冗談に笑うことだってある。
日がたつにつれて、笑う時間が増えて、故人を思いだす時間が減っていく。生きてるのだから当然だ。だけど、その当然のことにすら強い罪悪感を持ってしまう別れがある。
ちょうど、ぼくと父の別れがそうだったように。
そこに解決はない。こたえもない。自分の中で、どうにか折りあいをつけていくほかない。自責も後悔もからみついて離れないのなら、抱えて歩いていけるようになるしかない。
そうしてもう大丈夫だと立ちあがってみても、数日後にはまた転んで大丈夫じゃなくなっている。
何度も、何度も、そのくり返しだった。
父の死からもう、二十年以上たつ。
病をえた母も五年ほどまえに旅立った。
さすがに一時期より間隔は遠くなったけれど、未だに強烈な罪悪感に襲われることがある。たいてい虚無感や無力感もセットでやってくる。
そんなとき、ぼくはあえて明るい言葉をつむぐ。バカみたいにやさしい、ぬるま湯みたいな歌を、頭んなか花畑かよってくらい甘ったるい恋の歌をつくるのだ。
それは、幼かったぼくが夢見た世界。母も、もしかしたら父でさえも渇望していたかもしれない、やさしい世界。
綴った言葉に乗せる感情は自由だ。明るい言葉にかなしみを、しあわせな言葉に絶望を乗せたってかまわない。それは、ぼくだけの鎮魂歌になる。
たぶんぼくに必要だったのは、共感でもアドバイスでもなく、ありのままの感情をありのままにだせる場所だった。
ぼくにそれを教えてくれたのが、音楽であり、作詞だった。同級生に誘われ、軽い気持ちで入部した軽音部が、その場所になってくれたのだ。
家庭という密室で、母は母できっと葛藤があっただろう。
もしかしたら、感情をコントロールできなかった父もまた、苦しんでいたのかもしれない。
そう冷静に考えられるようになったのも、自分の気持ちを外にだすことをおぼえたからだった。
#
「歩くん。ぼくと友だちになってくれないか」
「は……え?」
とうとつである。自覚している。しかし、彼の苦しみにかける言葉を、ぼくは持ちあわせていない。
「いっただろう? ぼく、引っ越してきたばっかで、このへんに知りあいもいないんだよ」
苦しんでいる人間や、大変な目にあった人間をまえにしたとき、自分のことを話しだす人間はすくなくない。
つらかったこと、かなしかったこと、その人の力になれるのではないかと思う自身の経験を過去からかきあつめてくるのだ。
ぼくもまた、歩くんの話を聞いて、反射的に過去を振り返っている。力になれないかとも思っている。
だけどそれは、励ましたい側の勝手な都合だ。苦しみの渦中にいるときに他人のむかし話を聞かされたところで『よし、がんばろう』とはなかなか思えない。すくなくとも、ぼくは思えなかった。
「だめ?」
「いや、だめっていうか……友だちになってとか、まさか大学生になってまでいわれると思ってなくて」
思わず吹きだしてしまった。いわれてみればそうだ。
「ぼくもこの年になってこんなお願いするとは思わなかったよ」
笑うぼくにつられたように、歩くんも表情をゆるめた。
これならもう一歩、近づけるだろうか。
「このあと、すこし時間ある?」
「まあ、すこしなら」
「じゃあ、ちょっとつきあってよ。あ、このへんにさ、地元の人しか知らないような甘味屋さんとかスイーツ店とかない?」
「……は?」
「このあたり、和菓子も洋菓子も隠れた名店が多いって聞いたんだよね」
「まさか、それでこの町に引っ越してきたんですか」
「そうそう。よくわかったね」
もっとも、引っ越しのきっかけは以前住んでいたアパートが老朽化で立ち退きになってしまったからなのだけど。この町をえらんだのは歩くんのいうとおりである。
「歩くんはつぶあんとこしあんだったらどっち?」
「ええ? ものによりますよ。どら焼きならつぶあんだし、
「生クリームとカスタードなら?」
「ケーキなら生クリームですかね。シュークリームならカスタード」
「歩くん……甘いの、いける口だね?」
「……きらいでは、ないです」
「そっかそっか」
「なんでそんなうれしそうなんですか」
「そりゃあうれしいよ。近所に甘味仲間ができた」
くだらないことを話して、どうでもいいことで笑って、彼が話したいときに、話したいことを、安心して話せる存在になれたらいい。それに、利害のからまない友人というのは、ぼくにとっても貴重だ。
ピィーキュロピィーキュロ、頭上に響く陽気な声は、お嫁さんを探しているのか、それとも浮気相手を物色しているのか。
あれこれ想像をめぐらせながら、ぼくは歩くんを雑木林からつれだした。
(了)
願いをさえずる鳥のうた 野森ちえこ @nono_chie
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