(都市)伝説を作る男

RAY

(都市)伝説を作る男


 午前二時十五分。東京都心のとある高層ビルの地下駐車場。

 エレベーターの扉が開いた瞬間、ひっそりと静まり返った空間に英語混じりの陽気な笑い声が響く。


 降りてきたのは、薄い青色のワイシャツに紺色のネクタイをした男。

 長身で細身の身体。短めのブロンドの髪。コバルトブルーの優し気な瞳。口髭くちひげを蓄えた、端正な顔立ち。さわやかさとワイルドさが同居したような風貌は、往年のハリウッド俳優ブラッド・ピットの若い頃を思わせる。


 携帯電話を耳に当てた伊達だて男は、大きな目を輝かせて興奮気味に話をする。


「――トミタ自動車の中山取締役とは、年俸百八十三万ドルの五年契約で話をつけました。今回の引き抜きハンティングはこれで終了です。依頼人クライアントから提示された基準額が二百万ドルですから、五年分の差額の十パーセント……八万五千ドルが追加報酬インセンティブとして上乗せされます。社長ボス、今夜は久しぶりにグッスリ眠れそうです。特別ボーナスの件よろしくお願いします。では、おやすみなさ……おっと、ニューヨークそちらは、これからランチタイムでしたね。失礼しました」


 男は、社長に聞こえるようにわざとらしくコホンと咳払いをする。


「では、美味しいハンバーガーを召し上がってください。僕の報告をスパイス代わりにして」


 お道化どけた挨拶に電話の向こうから笑い声と労いの言葉が返ってくる。

 電話が切れたのを確認すると、男は「本日の業務は終了」と言わんばかりにネクタイを緩めてワイシャツの一番上のボタンを外した。


 男の名前はライアン・ケリー。ニューヨークに本社を置くヘッドハンティング会社のスタッフ。弱冠三十二歳ながらその実力を買われて日本支部の責任者を任されている。来日してかれこれ四年が経つことで、日本語はもちろん日本の文化もそこそこ理解している。


 ヘッドハンティングとは、もともと企業が自社の事業を優位に展開するため、同業他社から優秀な人材を引き抜く、経営戦略の一つ。ただ、現在は、同業に限らず、幅広く優秀な人材を求めるのが一般的となっている。

 ライアンの会社は、依頼人クライアントに代わって標的となる者ターゲットとの条件交渉を行ったり、様々な情報ソースを駆使して依頼人クライアントの要望に合致する、最適な人材を探し出したりする引き抜きハンティングを生業としている。

 設立当初はアメリカ国内の案件がほとんどだったが、企業活動が地球規模で展開されるようになり、日本の企業文化や市場動向に詳しい経営スタッフのニーズが高まったことで、日本に支部を立ち上げることとなった。

 なお、依頼人クライアントは企業や団体に限られるものではなく、例えば、プロの野球選手やサッカー選手といった個人の依頼に基づき、代理人エージェントとして移籍チームを探したり、特定のチームから良い条件を引き出したりすることもある。


 今回の仕事もそうであるが、骨が折れそうな事案は決まってライアンにお鉢が回ってくる。それは、社長が全幅の信頼を置き大きな期待を寄せていることの表れであり、そのことは、彼も十分理解していた。

 結果として、一日の大半を仕事に費やしてはいるものの、ライアンは、仕事にやりがいを感じそんな生活も悪くないと思っている。


★★


 愛車のBMWに乗り込んだライアンは、ご機嫌な様子でエンジンキーを回す。

 重厚なエンジン音が響く中、カーオーディオからキング・オブ・ポップことマイケル・ジャクソンのナンバー「ビート・イット」が流れ出す。八十年代に流行ったそれはライアンが生まれる前のもの。ただ、彼はマイケルの大ファンで、自宅にはCDやDVDがほとんど揃っている。

 特に気に入っているのが「スリラー」という曲。アップテンポで軽快な曲調もさることながら、ハリウッドのホラー映画を彷彿させるミュージックビデオのデキが素晴らしく、墓場から蘇った、たくさんのゾンビとともにマイケルがブレイクダンスを踊るシーンは何度見ても飽きることがない。


 ライアンは、曲に合わせて歌詞を口ずさみながら、右手でサイドブレーキを下してアクセルをグッと踏み込んだ。

 ライアンのオフィスは、青山通りに面した高層ビルの三十七階にあり、周辺は人と車でごった返している。駐車場から出るのも一苦労で出口に行列ができるのは日常茶飯事。しかし、この時間帯は人も車もまばらで、待つことなくスムーズに流出することができた。

 ドリンクホルダーに置かれた、ペットボトルのブラックコーヒーを口に含むと、ライアンの顔にホッとした表情が浮かぶ。長い一日がようやく終わりを告げようとしていた。


 赤坂消防署入口の交差点を左折して一方通行の路地に入ると、景色がガラリと変わる。オフィスビルやマンションが消え失せ、前方に広々とした空間――青山霊園が姿を現す。

 二十六万平方メートルの敷地に約十三万の墓地が設置された空間は、夜の闇と深い静寂に包まれ、都心とは思えないような雰囲気を漂わせている。

 真夜中にタクシーが青山霊園の辺りで女を乗せたところ、いつの間にか姿が消えて後部座席がぐっしょり濡れていたという都市伝説は有名であるが、この光景を見れば、そんな話がまことしやかに語られる理由も理解できる。


 ライアンの自宅は、首都高速三号線の用賀出口にほど近い賃貸マンション。六本木通りの渋谷入口から首都高速に乗って十五分ほどのところにある。

 青山通りと六本木通りを結ぶ道はどれも渋滞が激しく、ライアンはいつもこの道を通って通勤している。知る人ぞ知る抜け道ではあるものの、環境が環境だけに知っていても通らない人も多い。

 よくよく考えれば、この時間帯はどの道も空いていることからこの道を通る必要もなかったが、いつもの習慣で身体が勝手に動いていた。日本に来た当初は少し抵抗はあったものの、これまで心霊現象に遭遇することもなく、今では全く気にしていない。


 霊園の中心に差し掛かったとき、前方の黄色の点滅信号が赤に変わる。

 押しボタン式信号ではあるが、横断歩道の付近に人の姿は確認できない。ブレーキを踏んで横断歩道の手前で停止すると、それが合図であるかのように、カーオーディオからライアン一押しの「スリラー」が流れ始める。


「タイミング、バッチリ」


 ライアンの口から流暢りゅうちょうな日本語が漏れる。

 顔には笑みが浮かび、曲に合わせて身体を小刻みに揺らしながら鼻歌を口ずさんでいる。怖がっている様子は微塵もなく、むしろ雰囲気が盛り上がってきたのを楽しんでいるように見える。


 青色の歩行者信号が点滅を始める。

 そんな中、バックミラーを覗いたライアンの目が一点で留まる。五十メートルほど後方にいる、白っぽい何かが目に入ったから。ミラーに顔を近づけて目を凝らすと、街灯の光に照らされたそれは一人の老婆だった。白髪を後ろで束ねて和服に身を包んだ彼女は、両手でボールのようなものを抱えている。表情はよくわからないが、笑っているようにも見える。

 いぶかしい目で老婆を眺めるライアンだったが、信号が青に変わったことに気付いてアクセルを踏み込んだ。


 確かに真夜中の墓地に人がいるのは違和感がある。ただ、都心部であるがゆえに人の姿が無くなることはあり得ない。それに、墓地と言っても二、三分歩けばマンションや商業施設があり、夜間にこの辺りをジョギングする人だっている。

 ライアンは、小さく頷くと、気を取り直してマイケルの曲を熱唱し始めた。


★★★


 墓地沿いの路地から都道へ出たBMWは六本木通りを目指して疾走する。

 車の姿はほとんどなく、昼間の大渋滞が嘘のようだった。信号で止められることもなく、通勤時間帯であれば三十分はかかる、約二キロの道のりが五分もかからなかった。

 都道と六本木通りが交差する、南青山七丁目の交差点に停止したライアンは、右折のウインカーを出す。曲がって三百メートルほど走ったところに首都高速の入口があり、ガラガラの高速道路を走ればわが家に到着する。


 ライアンは、ドリンクホルダーのペットボトルを手に取って口へと運ぶ。

 しかし、次の瞬間、その手が宙ぶらりんの状態で止まった。バックミラーに向けられた、両の目が大きく見開き口が半開きになる。その顔には、驚きと恐怖の色がはっきりと見て取れた。


 ライアンの瞳には一人の老婆の姿が映っていた。

 二十メートルほど後方にいる老婆が柔和な笑みを浮かべて軽快にまりをついている。唇が動いているところを見ると、手毬歌てまりうたでも歌っているのかもしれない。


 ライアンの脳裏に様々な思考が飛び交う。

 真夜中の国道に人がいるのは違和感がある。ただ、都心部であるがゆえに人の姿が無くなることはあり得ない。それに、沿道にはマンションや商業施設もあり人がいても何らおかしくはない。

 問題は、それが青山墓地で見かけた老婆に間違いないこと。そして、彼女が少しずつライアンの方へ近づいていること。

 背筋に冷たいものが走った。心臓の鼓動が早鐘のように鳴っている。ライアンは自分の身に危険が迫っていることを悟る。


「オー・マイ・ゴッド……」


 喉の奥から絞り出したような、英語の言葉が口を突く。

 信号が青に変わるか変わらないかのうちにアクセルを踏み込んだ。

 急発進したBMWがキキッとタイヤを鳴らしながら六車線の交差点を右折していく。進路をさえぎられた車が、急ブレーキをかけて、けたたましくクラクションを鳴らす。しかし、そんなものを気にしている余裕などない。


 首都高速のETCレ―ンを猛スピードで通過したBMWは、上り坂のランプを一気に駆け上がる。本線に合流したときには、速度は既に九十キロに達していた。本線に入ってもさらに加速は続き、中央環状線の大橋ジャンクションでは百三十キロを超えていた。いくら車がまばらな深夜だと言っても、警察に見つかればただでは済まされない。しかし、そんなことはお構いなしだった。


 不意にカーオーディオからゴスペル調の曲が流れ出す。マイケル・ジャクソンの八十年代のヒット曲「マン・イン・ザ・ミラー」。

 荘厳なゴスペルのコーラスとマイケルの神がかった声を聞いた瞬間、ライアンはハッと我に返った。安堵感を抱いたのは、心のどこかで、幽霊の対極にあるもの――神の存在を実感したからなのかもしれない。

 ライアンは、息を吸ったり吐いたりを繰り返して呼吸を整える。


「あれは……ジャパニーズ・ゴースト?」


 冷静さを取り戻したライアンは、ポツリと言葉を発する。

 三十二年間生きてきて初めての心霊体験だった。知人から幽霊を見たとか金縛りにあったという話は何度か聞かされたが、とても信じる気にはなれなかった。

 しかし、今は違う。あの状況は常識では説明がつかない。現実であることに疑いの余地はない。冷静に受け止め適切に対応する必要がある。

 頭の切り替えが速く、TPOに応じて思考を多角的に展開できるのがライアンの強み。社長が全幅の信頼を置いて高く評価しているのも頷ける。


 ただ、ライアンには誤算があった。

 を過去形として論じるのは、いささか早過ぎた。


「オー・マイ・ゴッド!」


 バックミラーを覗き込んだライアンの口から、車内に響き渡るような、大きな声が発せられた。

 十メートル後方にあの老婆の姿があったから。白髪をなびかせながら必死の形相で、百三十キロで走行するBMWを追い掛けている。しかも、信じられないことにこの状況でまりをつき続けている。


「ジャパニーズ・ゴースト、ヤバイ! ヤバイヨ! ヤバ過ギル!」


 ライアンの口から興奮したような声が上がる。ただ、その表情は、動揺して我を忘れたときの彼のものではなかった。

 ワイシャツの胸ポケットから携帯電話を取り出したライアンは、電話帳の「BOSS社長」というボタンを押す。呼び出し音が三回鳴った後、社長が電話に出た。


社長ボス、ライアン・ケリーです! お食事中、申し訳ありません! 至急お願いしたいことがあります! 一刻の猶予も許されない状況です!」


 社長にしゃべる間を与えず、ライアンは一気にまくし立てる。

 その話ぶりが尋常でないと思ったのか、社長は、ライアンの申し出を二つ返事で了承する。

 ライアンは、再びバックミラーに目をやるとアクセルを緩めながら言った。


全米バスケットボール協会NBAに連絡を取って、二点確認してください。一点はプレイヤーの年齢制限、もう一点はプレイヤーが人間以外でも認められるかどうかです」



 RAY

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