【まとめⅡ】「良い日本語」を使うには


 前回のまとめでは、「間違いな日本語」が完全な悪ではないとお話ししました。むしろ言語の流れとしては当然であると。しかしながら、一方でそれは「間違いな日本語」が好ましいということかといえば、そうではないのです。このまとめでは、私がより良いと思った「良い日本語」を使うために意識したいこと、やるべきことを語っていきます。小説や文章を書く方はもちろん、向上意欲のある方も是非参考にしてください。



 〈正しい知識を身に着ける〉

 一つ目の助言です。間違いな日本語はなぜ生じたかといえば、その言葉について正しい知識がないためです。「うがった見方」「耳ざわりの良い」などはその一例ですね。ですからそれを防ぐにはやはりが大切です。例えば「うがった見方」この表現については「芯を食った見方・曲がっている、変な見方」という意味がありますが、後者が誤用ということにせよ、もうかなり広まっているので、二つの違った意味を内包していることになります。すると「それはうがった見方だね」と言われたとき、とっさの判断が難しくなるのです。相手はどちらの意味で言っているのだろうと。この点は「間違いな日本語」の明らかに悪い点なので、兎に角知識をないがしろにしてはいけません。

 さて、しかし正しい知識と言われても、一体どのようにして得ればいいのかということですが、これについては疑問に思った日本語について自発的に調べたり、あるいはまさにこの文章のような「間違いな日本語」について論じている本・サイトを見ていくしかないでしょう。つまり地道な勉強なしには正しい知識が身に付きにくいということです。抽象的で時間がかかりますが、これが最も効果的な日本語力の付け方ということになります……。ただ、それ以外にも二つ助言がありますから、ご安心を。



 〈知らない言葉を使わない〉

 私から言えたことではないかもしれませんが、皆様には是非とも「知らない言葉を使わない」ことを肝に銘じていただきたく思います。理由は二つありまして、まず一つ目は意味がぼやけてしまうということにあります。

 例えばあまり使われない、難しい言葉や、とらえどころのない「エモい」などはきちんと調べた上で使うか、使わないのが吉です。なぜなら、意味がぼやけるということは、それすなわち本来情報を伝えるはずの道具である言語の意義を逸脱してしまうことに繋がるのです。

 また、もしあらゆる現象や程度などを「やばい、すごい、エグい、エモい、ぴえん」など曖昧な意味の言葉で済ませてしまっては、日本人が長年培って受け継いできたありとあらゆる形容詞などの修飾語が軒並み消えていくことでしょう。言葉が消えるということは何も文化、文明が消えるだけに留まりません。例えば「もったいない」という言葉が無くなれば、その感情自体が薄れていく可能性だってあるのです。


 二つ目に、知らない言葉が言語の逸脱、変化を生む、という理由があります。先の「うがった見方」を例にとって見ましょうか。

 Aさんはこの言葉をきちんと知ったうえで使ったのですが、Bさんは初めて聞く言葉でした。そこでBさんは自尊心が邪魔をして意味を聞けず、かといって調べるのも面倒なので、「よくわからないけどAさんが使っているから意味を想像して使ってみよう」ということで、間違った意味で使っていきます。そしてCさんやDさんに対して、Bさんは間違った意味で話して教え込み、それで覚えたC、DさんはAさんの言葉を全く違う方向に取ってしまう……。

 何度も言っていますが、意味が分裂したり曖昧になると、言葉にある言葉としての機能が正しく働かなくなっていきます。これを防ぐには、やはりBさんがきちんと聞くか調べるかをして、正しい知識をもって使うということをするか、あるいは知らない言葉を使わないということが大切になります。絶対に調べるよりは「知らないから使わない」の方が楽なはずですが、せっかく知らない言葉に出会ったときは、少なくとも皆さんはせっかくなのでいちいち調べていくと、さらに知識が深まりますよ。私もそうしています。



 〈自分が好きな言葉を使う〉

 三つ目の助言はとても簡単なことですが、一方で抽象的でもあります。とはいえだからこそ大切なのです。結局複雑なこととか難しい知識を入れ込むより、ご自身の心のまにまに言葉という道具を使っていく方が、確実に身になりますし、間違いも少なくなります。

 これについては私から言えることはこれ以上ありません。皆さんの心が道しるべです。ただ、例として自分のことを話しますと、私は外来語や漢語より和語・大和言葉が大好きです。それゆえに少し前から漢語はともかく、横文字は極力使わないようにしてみました。するとどうでしょうか。私としても心地のよい様々な和語が出てくる他、曖昧な外来語によって悩まされる時間も少なくなったではありませんか。試しにこの文章をもう一度見返してみても、カタカナ語はほぼないことがわかります。ここでも私は別に意識して英語なんかを排除しようとかは思ってなくて、もはや和語を優先的に使うという無意識がそうさせてるのだと思います。

 私はこうした説明的文章の他、小説も書いていますが、それらを作る際に心がけているのは「文章の歯切れ」です。英語を使えばリズムということになりますね。これについてはごちゃごちゃ説明しても仕方ありませんし、この文章にたどり着く方ならわかっているでしょうから説明しません。でも文章の歯切れについて一つ言っておくと、和歌や短歌などで分かるように、日本人は五七五の拍数に慣れ親しんでいるので、コミュニケーションとか、インターネットとか、かなり長い拍数の外来語は本来そぐわないのです。だからこそ私は「自分が好きな言葉を使う」ということを念頭に置いて和語を多く使うようにしたので、今や自分の理想的な文章を書く道を歩いています。皆さんもぜひ、ご自身の好きな言葉を見つけて、心と体の赴くままに文章を書いてみてください。きっと良い日本語と巡り合えるはずです。


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「間違いな日本語」について思うこと 凪常サツキ @sa-na-e

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