6

 あれからプロテウスが有機納ゆうきなに話しかけることはなくなった。

 話しかけないとは言っても例によって独り言は絶えず、それはときにこちらに語りかけているようでもあるのだが、彼自身が「話しかけない」と決めたことを有機納は知っていたので強いて言えば自分自身へ向けたものなのだろうと納得することができた。


「…実はこれはメガラニカの人間に共通して言えることなんだよね。この大陸の絵画って“外”の模写ばかりでしょ。俺も彼らの創造の道筋を辿ることが好きなんだ。美しいものがそうやって仕上がっていくこと自体に価値を感じて絵描きは筆を取るし彫刻家はのみを持つ…」


 暗い地下房に響くこともなく生まれ続ける言葉を眺めるように、彼女は壁のくすみを見つめている。彼の話は外界の芸術や文化に関することが多く、ときどき“あちらの亡霊”ではないかと思うほど強い執着も感じられる。

 有機納はプロテウスの話を聞き流しながら最後に見た表情のことを考えていた。ほんとうは孤独なのではないだろうか、と過ぎる不安は抱いてもしかたがないものではある。彼は法を犯した。それもかなり非道な行いだったことは確かだ。ここは死刑の横行しているセンとは違う。

 ―――だけどそれでも“彼”なら案じるだろう。


「…不思議だと思ってたんだ。一体何が彼らをそうさせるんだろう。自分の手で何かを生み出したいと、遺したいと、そう思う理屈はなんだろう。……だけど分かったような気がするんだ。今なら俺にもできる気がする。美しいものがたくさんあった。『俺が』『美しいと』『感じた』もののことだ。遺さなきゃほら、勿体ないでしょ? だから遺そう。タイトルは、そう…」


 遠くに雨音がし始めた気がした。意識があのときの記憶に引かれすぎたのかと思って額を抑えたが、そうではないことに気づく。

 何かが重吹しぶいている音がする。

 怪訝に思って音源を辿るように檻のほうを見ると、確かに壁に何かが吹き付けられるようにして飛沫がある。咄嗟に囚人の見える位置まで進んで、その正体を知った。

 プロテウスのくびから霧のように、血が吹き出している。

 それは驚くほど見事に牢の壁を染めたてていた。異常な光景になんの判断も下せない有機納は、次に彼の手が、握った刃物で喉元に一閃を引くのを見届けてしまう。今度は波のような血潮が落ちて床を穢した。

 止めなければ。

 一度目の静止は心臓に張り付いて息も届かない。彼の手の中で得物が踊って、恭しく掲げられてから、迷いなく眉間へ突き立てられる。「や―――」止めなければ。


「やめなさい! やめて!」止めなければ、また死んでしまう。「やめ、」

「ちかよらないで」


 一歩進んだ足が固まった。力強く丁寧に抜かれる凶器を見る。それに連なるようにして流れ出た赤色が、いっとき放物線を描いた。


「いまいいところなんだから……………」


 言いながら頽れる様は奇妙に精巧なものだった。夥しい血の中へと還っていく肉体。

 何を見ているのだろう、と遠くにある自分の意識がつぶやく。―――これは『死』なのだろうか。


「あぁ……これ…取っといてくれる………?」


 ほとんど音を喪った声が何かを言った。反射的に聞き返そうとしたときに、横倒れになって顔の見えないその死体からいやにはっきりとした言葉が聞こえてくる。

「彫刻刀を取って。そしたら完成だ」と。




「ごめんね、もうあなたを困らせるようなことは言わないよ、……『看守さん』」


 やさしすぎる、と評価した上でそう彼が決めたのは、何かの感情を由来に有機納の正しさを守ってくれたということではないかと思うことがあった。

 ならば守らなければならなかったんじゃないかと後悔している。彼の遺したかったものを。




「現場は」自分の口が何かを吐き出すのに混乱しながらなんとかして続きを絞り出す。「どうなりましたか」背中が熱かった。いつの間にか身体を屈めて充てがわれたゴミ箱に吐いていて、背中をさすっているのがたかの手だと、徐々に分かってくる。最低限の発音をしたつもりだったが充分ではなかったようで「現場?」と問い返された。息が苦しい。背が熱い。生きているからだ。

 あれは死だっただろう。紛れもなく死だ。けれど死に逝く中に何かを籠めたはずだ。有機納はその完成・・を、見ていない。籠められた『何か』が恐ろしくて、目を逸らした。「彫刻刀は…………?」泣きそうな声だ、と他人事のように考える。高の手が頭を一度だけしっかりと撫ぜた。


「彫刻刀は回収されてる。現場はもう片付いてる」

「だれが、最後に見ましたか」

「何?」


 彫刻刀を取ったら完成だと彼は言ったんです。

 顔を覆って魘されるように言葉にしながら、それが現実にはどんなに意味を為さなかったのか――否、意味を為してはならなかったものなのかを知る。プロテウスはあれ・・を、作品と称したのだ。まるで人ではないかのように赤い液体を注ぎ出す肢体。躊躇いのない自傷。あまつさえ彼はその惨い光景を『楽園』と名付けた。

 身体が自分のものではないかのように震えている。奇術のような小刀捌きは『美しかった』。それが理解わかってしまっただけでいまこんなに恐ろしい。けれどあのとき、有機納はプロテウスの願いを叶えてやるべきだと思ったのだ。そうしてやらないといけない気が、していた。


「………担当官に聞けばどう処理されたのかはわかるだろう。でも有機納、あなたはそれを知る必要はない」

「………………」

「……優しいんだな、あなたは」


 そっと肩に置かれた手の温みに救われてしまう。そうやって触れてやれば彼らも、と不毛なことを考えてしまうのは側久も一緒だったんだろうか。抱き締めてやれば彼は首を括らなかっただろうか。きっとそれらは有機納のエゴでしかなくて、永遠に解き明かされることではないのだろう。

「……これは、あなたの為になる話でしたか」もがく様に手繰った問いにどう答えて欲しいのかわからなかった。相手の方も躊躇うように微笑みを零して、「どうだろうな」と呟く。


「だけどあなたがそうやって優しいことは彼への手向けになる。……そちらのほうが大切なことのようには思えた」


 囁きは満たされた水甕のゆらめきに似て貴い。この身に巣食った彼らの死に、居場所を与え続けることで充ちるものがあるのなら、無を抱くかいなも虚しくないと思っていいのだろうか。


 夜空は一様に闇に溶けている。

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ゴルゴポネーの『楽園』 外並由歌 @yutackt

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