5

 夕方だった。

 窓辺から西日が差し込んで部屋があかい。長く見つめていると気分が悪くなってしまうので目を瞑るようにしている。

 ノックの音がしてそちらに顔を向けた。天神のときと同じように容姿で誰だか判別できないかと思ったがやはりわからないので、彼は本当にここに来てからはじめて出会った人物なのだろう。相手は真っ直ぐ視線を注がれていることに面食らって、入室するときの挨拶から二の句を継ぐまでが遅かった。


「あなたは誰なんですか」


 先手を打った彼女に男はまた少し呆気に取られ、しかしこれまで見せてきたように穏やかに、そしてどこか不謹慎に笑む。「はじめに名乗った」

 自分の不義理に一瞬怯み、しかし拳を握って感情を律する。問わなければならないのはこれではない。瞼を伏せて冷静をさがす。


「………あなたがここに来るより以前に、彫刻刀は“プロテウス”のものだということで決着がついていたと聞きました。てっきり聴取かと思っていたんです」


 違うんですね、という言葉とともに目線を投げる。そこにあるひとのかんばせが、すこし逸らされて濃い影を作った。


「………バレたか」


 やはり男は笑っていた。どうしようもなさそうに。「なぜこんな……、…何のために?」物言いから故意に騙していたのだということがわかるが、非難めいた言い方が正しいかどうかもわからないまま問いかけて、戸惑いまで彼に伝わってしまう。これまでと同じ足取りでベッドの傍までやってきて椅子を引いたその面差しはやはり若かった。男と呼ぶより青年、あるいは少年と呼ぶべき容相で、おそらく二十に満たないだろう。十代にしてはなにもかも垢抜けてしまっている印象もやはりあるのだが。

 彼はその妙に大人びた顔で「誓って、」と始める。


「あなたに嘘は一度も言っていない。ただ、立場を利用してあなたから事実を遠ざけたことは申し訳なく思う。悪かった」

 悩んだが、有機納ゆうきなはこれを掘り下げた。「、立場?」

「俺は色々と融通が利くんだ。管轄外の件に首を突っ込んでもある程度放っておいて貰えるくらいには……、……もしかして話していなかったか?」


 いまいち理解していないふうなのを感じたのかそう問いかけられるので、出会った時点では人の顔や名前のような情報が認識できなくなっていたことを打ち明ける。そんな障碍が出ていたのか、と険しい顔をする相手に心配げな色が見えた。……悪い人ではないのだ。疑念の、暗い部分が和らぐのを感じながら今は回復していることを伝えると一応医者には話すようにとも勧められた。「ここの医者はそういうの専門だから」

 彼は姿勢を正して、改めて名乗る。


坂本さかもとたかっていう。拉那ラダ警察所長の息子で、警察機構の一部だ」

「それは………」


 明かされた身分は予想もしていなかったもので、有機納は言葉を失った。拉那は君主国ではないが、具体的な国の元首もおらず、議会もない。国の機能はほとんど拉那警察にその最終的な是非を委ねられていると聞いていた。……要するに、センの感覚でいえば所長息子は重大な地位の人間である。非礼を重ねて詫びるべきだろうかと焦ったが、「警察機構の一部」という表現を選んだのももしかしたらわざとなのではないかと思い当たる。そうしているうちに相手が察して、畏む必要はないことを添えた。


「他所から来る人にはよく勘違いされるけど、一介の高校生なんだ。楽にしてほしい」

「はい、……」気持ちを切り替える。「“彼”の自死について調べていたのはあなたの管轄の仕事のためですか」

 青年は微笑んだ。「ある意味では。でも、正確には私的な理由からだ」

「……お聞きしても?」


 夕映えの尾は急速に宵闇に呑まれ始めていた。いつの間にか赤色がほとんど喪われていることに気づいた有機納は、思わず窓の外を見る。仄かな落日の名残を薄めて夜の帳が降りようとしているのを――彼女が止める術はない。

 ひそやかに、けれどはっきりと空気が震える。彼は一言、人がなぜ自死を選ぶのか知りたい、と言った。

 振り返ったのと同じとき、高はサイドテーブルにある室内灯のスイッチを入れる。表情が切なげに見えて、やっと年相応にも感じられた。


「…………」


 有機納は言葉を迷った。プロテウスの死んだ理由を彼女は思い出せていないし、果たして死刑囚の自死の理由が何かの参考になるのかという点でも疑問がある。それは常人には理解できない理由で―――、(………?)


「わたしは…………」


 常人には理解できない理由、だと、知っている?


「有機納?」


 彫刻刀を取っておいて、と彼が言ったのは邪魔だったからだ。その直前・・・・の景色を見ていない。目を逸らしたから。

 赤に沈む牢獄。それをなんと呼んでいた?


(―――思い出した)


『楽園』、だ。

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