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「あたらしいひと?」


 “彼”は、彼女が地下房の扉を開けて階段を降りきったところでそう聞いてきた。牢は数歩先へ行った左手、表は檻の形をしているが彼は奥にいるようだったので有機納ゆうきなの姿は見えないはずだ。有機納も彼が見えていない。

 必要以上に言葉を交わしてはならない規則だったので先の問いかけは無視する。食事を与えるとき以外は顔も合わせてはならない。不審な音がしない限りはこの、見えない位置に留まるように言い渡されている。


「夜の時代にはゴルゴポネー、今はプロテウスって名乗ってる。そっちは?」


 聞いていた通りよく喋る囚人だと思いながら、「不必要な会話は禁止されているので。私語も謹んでください」と呼びかける。相手は軽い笑い声をたてて、よろしくね、とだけ言った。


 彼の多弁はほとんど精神異常の領域に入りかけていたらしく、看守の多くが彼の見張りを嫌がっていた。ずっと何かの話をしていて、注意をすれば一度は黙るがやがてまた話し出してしまう。考えていることをそのまま口に出しているにしては語りかけているようだけれど、答えを待たないのでどちらかというと独り言に近そうだった。内容も咎めるほどのことではないだけにだんだん諦めがついてしまいそのままにするが、そうすると今度は彼の“考え事”に思考が巻き込まれて正気を失いそうになる。そんな理由で既に何人か、担当から外れるように申し立てをしていたと聞いた。

 刑務所は区分けされており、看守たちは配属された区で、休憩を挟みながら三時間ごとに監獄室を変えて仕事にあたる。プロテウスの居房を忌避した看守は順番が来ると別の区の監獄で見張りを行い、その代わりにそちらの区からひとり、看守を出して調整をはかることにしたらしい。それで有機納は所属外である西区の、この地下房へやってきたのだった。

 やがて申し立てを行う看守が有機納の所属する区でも出始め、週に一度か二度あたる頻度だったのが徐々に増えていった。


「よく来るね。名前を付けてもいい? 呼べないのは不便だ」

「………、私のことは『看守』と呼んでください」

「駄目だよ、ほかと区別ができない。俺の中ではできてるんだけど。几帳面でしょ、来たら必ず掃除をする。生真面目だし。一回も俺と目を合わせないようにしているね。あと神経質だ、他所ごとができない。いくつか当ててもいい?」

 有機納は無視する。

「俺より年上だと思うんだよね。でも若い。まだ悩みが多そう。そうだなあ、二十五?」


 狼狽ているのを悟られないように努めたが、そのとき掃除をしていて彼の視野圏内にいた。手の動きが一瞬止まってしまったのを彼はちゃんと見ていて、あたりだ、と笑った。

 私語は禁止だと何度繰り返したかわからないが、それでもそう返答するしかない。会話をしない、という体を保つことが大事だと思ったし、高圧的に言って黙らせるより自分で律してもらうことのほうが重要だろうと思って機械的な対応に徹することにしていた。

 いつもなら注意を受けると会話を終える言葉を継ぐ彼は、このときだけ聞き入れずにこう言う。「次はそっちが当ててよ」。困って、有機納は呼び嗜めた。


「………一番、」

「ああ、“一番”なんだ、俺。一人しかいないから番号もないのかと思ってた」


 誰も呼ばなかったのだ、とわかる。呼ぶ必要がないからだ。


「ほら、何歳に見える? 話し方が幼いってよく言われるんだ。顔を見た方がいいよ」


 こっちを見て、という優しい声音。黒髪の処刑人の影が脳裏にちらついて、見てやらなければならないような気持ちになる。僅かに面を囚人に向け、伏せた目をゆっくり上げると、「待って」と彼が言った。

 牢の中で薄汚れた青年が顔を隠していた。翳された左の手のひらだけがこちらを向いたまま、「これも前から思ってたことなんだけど」と言葉が続く。


「あなたはちょっと優しすぎる」


 口元が力なく笑んでいた。

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