3
胸に湧いた感情は悲しみに違いなかった。何を悲しんでいるのかわからないが、自然と思い起こされる、雨の日。
まっさらなキャンバスのようなところに横倒れになっている体がある。手には小刀。むこうを向いているから顔はわからないが、それが
彫刻刀を取っておいてくれないか。
「………なぜですか」
彼女に答えるように、彼の血が地面を這いはじめる。
近寄れない。死体になろうとしているこのひとに。
「なぜ、」
涙を溢していた。由来もわからないままただ悲しい。
相変わらず広がる赤は彼女を避けていく。悲しくて、どうしようもなくて、その場に蹲み込んで顔を伏せて泣いてしまう。見ていてやらなければ、寂しかろうに。
彫刻刀を取るまで、おそらく彼は死に切れない。
目覚めたときも有機納は泣いていた。日の差し込む部屋の色がひどく優しくて、自分は生者なのだという事実に胸を裂かれるような心地がする。きっと生きているうちは、本当に彼らを理解することはできない。そうは思っても考えてしまう。
なぜ自死を選んだのか。
死なないで、ほしかった。こんな頼りない人間ひとりに影を遺して、世界から消えてしまうなんて、きっとあなたの価値はそんなに軽いものではないのにと。自分の中に棲んだ彼を生かしている感情の行く先が外界にない。いや、自らに死を齎した時点で彼は死ぬべき人間となってしまったのだ。有機納の中ですら生きていけない。必死に生かそうとしていても、そうだ、何度も死んでいく。
空虚を抱こうとする腕だった。そこにはもう何もない。
落ち着いて書き付けを終えた頃、来室があった。どうも、と明るく挨拶をくれる彼はまた別の人物で、ここでは初めて会うがそれ以前にも会っていることに気づくことができる。回復の兆しがあるのだと知って少し心が軽くなった。
「西区の、巡回官の………」
「
お見舞いだと言って林檎が二つ入ったバスケットをサイドテーブルに置く。初めて見舞品を貰ったので何と言えばいいのかわからず、思わず「すみません……」と謝ると「別にそんな、縮こまらなくていいんだよ」と懐こく笑った。なんだか気持ちのいい人だ。
「ユーキナさんも出身が別らしいね」
「はい。
「あれ?
「ああ、拉那の前の国籍が亞棃冶だったので、入国手続きの書類にはそう残ってると思います」
「わ、偉いなあ、ちゃんと国籍申請出してるんだ。俺も仕事柄あちこち行ってるけど一回やったら面倒くさくなっちゃって」
「ということは、あなたも……」
「
捕依は拉那より南の内陸、ゼネは詹とごく近いが、シルバルは最西にある。望はというと最東で、言葉通り色んな国に行っている印象をもつ。
天神はフリーのガードマンで、期間契約で国を問わず警護の仕事をしているのだそうだ。一番長く仕事をしていたのは捕依だが、シルバルで屋敷の守衛をしていたころが一番楽しかったなんて話も聞かせてくれる。「そこのお嬢様がこんなにちっさくてさ、可愛いんだ。恥ずかしがりで、よくどこかに隠れたそうにしてた」彼の話は興味深かったし、なによりこのところずっと塞いでいたから癒しにもなった。顔が綻んでいるのに気付いて、なんだ、笑えたんだな、なんて他人事のように考えてしまう。最後に笑ったのはいつだったろう。
相手の方も有機納が笑ったのに安堵したようだった。
「看守って憂鬱になっちゃわない? 監獄室、暗いしさ。やることないでしょ」
「そうですね。正直いえば、……何かする気もあんまり起きなくて」
看守は有事の際に巡回官に連絡を入れることが主な仕事であり、ほとんど彼らの耳目の役割のみを果たす職だった。とにかく異常を見つけさえすればなんでもいいらしく読書や書き物のような暇つぶしはむしろ推奨されていたのだが、有機納は檻越しに囚人がいる環境でそういったものに没頭することができなかったので、担当房に入ったら掃除をして、交代が来るまで所定の位置で立っているばかりになっていた。
話を聞いて「それはすごいな」と天神は言ったが、表情は渋い。「ほとんど毎日特禁に回されてたし、神経使ったろうに」
「とっきん?」
「ああ、あの……あぁこれ秘匿事項か。言葉の解説はしないけど、牢もひとつで、一人しか囚人がいない地下房がたまにあるでしょ」
「…………四〇二房のような」
気遣わしげに彼が肯定する。西区の四〇二房は“プロテウス”の居房だった。確かに監獄室のほとんどは地上にあり、牢自体も大きいものが二つ並んで複数の囚人が入れられているか、もしくは小さい牢が三つ並んでそこに一人ずつ収容されていた。地下房でも中間の大きさの牢が二つ入って一人か二人ずつ収容されているところが多かったので、一つの監獄室に一人しか囚人がいないのは稀である。建物の構造の問題なのだと思っていたが、どうも違うらしい。
天神は明るく、「まあよかったよ、疑いが晴れて」と言った。
「………? そうなんですか?」
「え、聞いてない? あの刃物、本人のだったって分かったんだよ。そもそも……あぁこれも秘匿事項だ、えーと、とにかく間違いなく彼のものだって」
ではここ最近聴取に来ていた人物の集めた供述が役立ったのだろうか。手間をかけたなと物思いに耽りかけたところで続いた言葉に耳を疑う。
「もう一週間も前のことなのに誰も教えなかったのか。ちょっとひどいな」
「一週間、」
サイドテーブルに置かれたデジタル時計の日付から、ノートの初めの日付まで数える。六日目だ。
つまりあの男が来るよりも前に、既に嫌疑は晴れていた。
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