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 次の来室は三日後だった。相変わらず時間の感覚はなかったが、ノートを与えられてからそこに日付を記すようになったので実感はなくとも事実は確認することができた。

 顔が判別できなくても同じ人物だ、ということがわかり、はじめに来たときに名前や役職について聞いただろうかとぼんやり考える。きっと聞いたはずで、これより前に訪れた人々も含めてそういうものは記憶に残ってくれていなかった。同じか違うかだけがなんとなく残るが、話した内容によってもう少しあたりを付けることができるので、それで辛うじて人間関係の枠を継ぎ接ぎしている。そんな状態だったから、あえて訊き直すのは控えた。

 彼はまず、はじめに聴取をしていた人物について軽く話してくれた。


「もともと短気な男なんだ。聴取において嫌な思いをしていたら許してやってほしい」

「そんな……。そんなことはないです、むしろ全くお力になれず」


 話題からしてもそうではないかと思っていたが、彼は警察の人間なのだ。担当が変わったのだろう。一向に情報が得られないことが要因なのはほとんど間違いがないので、有機納ゆうきなはやはり申し訳なく思った。

 本当は前回言おうと思ってたんだけどな、と彼が苦笑するので、なんとなく場が和む。そのままの親しさで、調子はどうかと問われた。今回は具合のことではないだろうと思い、サイドテーブルの引き出しに手を伸ばす。


「いろいろ、考えてみたんですけど」ノートを手渡しながら言葉を添える。「私が彫刻刀がどんなものか知らなくて、その場でよく見えなかったのであれば……囚人自身が『これは彫刻刀だ』という旨のことを私に伝えたと考えるべきなのかな、と」

「そうだろうな」

「でもそれってどんな状況なのか………」


 有機納の考えはそこで行き詰まってしまって、ぽつぽつと記した文字はページを埋めなかった。白紙と同じ空白だけがあり、何も浮かばない。

 男はそれには答えず、次のページを開いて「これは?」と問うた。視線を遣ると、『見ていてほしい』とだけ書いてある。


「それは……、今回のこととは関係がないんです。ただ、混同を避けたくて」

「詳しく聞いても?」


 すぐには答えられなかった。遠くで雨の音がしはじめたように思ったが、それが本当のことだったかその後も確証が持てない。


「………むかし、べつの、」

「……」

「………自殺の現場をみたことが」


 あって、という声はほとんど音にならなかった。

 時折夢に見る光景が眼裏で繰り返される。始まったらもう目を逸らしてはいけない。記憶の中といえど、彼はこれから死ぬのだから。


「見てるように言われたのか」

「……はい」


 椅子の人物は返答に少し間を開けた。そうして、「情熱的だ」とまた笑い混じりに言う。これには気分を害したので、「可笑しな話ではないんですよ」と有機納は相手を睨んだ。正直今までで一番、ひとの顔の造形が掴めない状況を腹立たしく思った。


「いや、すまない」彼は素直に謝る。「うらやましいと思ったんだ。ごく個人的な理由で」


 羨ましいなんて、と感情が滲むところまでは胸に起ったが、彼の言うことも掴めなければ事情も知らないし、それらを顧みるほどの余力が自分の頭にない。この件は溜息を吐いておしまいにする。


 自死した囚人の得物がどこから出てきたか、「彫刻刀を取れ」と囚人が言う理由があるかについて、男は今日までのあいだ他所に見解を求めて回っていたのだという。同じ罪に問われ同じ量刑を与えられる予定の、つまりは他の確定死刑囚相手にだ。無茶苦茶なことをするのだなと呆れてしまったが、すこし物の考え方が他人とは違いそうなので彼には必要な情報収集だったのだろう。それに、蝸牛の進むような速度でしか時間を使えない今の有機納にとってそのフットワークの軽さと思い切りの良さは有り難いものに違いなかった。

 結果、彫刻刀の出所については三人に聞いて三人とも「得物は隠し持っていたんだろう」と言ったそうだ。とうの昔に身体検査を散々されて牢に放り込まれ、四六時中見張られているというのに、それでも欺けるという自信が共通してあるのは恐ろしいことのようにも思える。


「言葉については………」

「これも結論としては三者とも同じだったな。『プロテウスがそう言い残したのだろう』と」

「待ってください、全員?」

「ああ」


 妙な違和感を抱くのは有機納だけなのか、それとも彼も感じているものなのか声音では判断がつかない。三人とはいえ全員。口を揃えていうことにしては、元の問いにあまりに情報がない。得物を隠し持っていたと断定するのはまだ、言わば整然とした『犯罪者特有の不明』として理解できる気がするが――。

 もしかしてその三人に見解を訊きにいったのは“プロテウス”を知っている人物たちだからなのだろうか。男に問うと、少しの沈黙ののち「秘匿事項にあたるな」と答えた。

 秘匿事項という単語は記憶から掘り返してみる必要があった。(……そうか、秘匿事項…)基本、看守に囚人たちの情報は開示されない。下手に知っていると人権を損なう扱いをする可能性があるからというのがその最たる理由だと聞いている。有事の際に対応するのは巡回官で、彼らもまた、仕事に必要であろう情報以外を知り得ない。

「では、聞きません」深く追及すべきことではないのだと心得て言うと、相手は薄く溜息を吐いたのち、「賢明だ」とだけコメントして話を続けた。


「三者のうちひとりが興味深いことを言ってた。邪魔だったんじゃないか、と」

「邪魔?」

「『取る』のニュアンスだ。『取り除く』だったんじゃないか?」


 有機納はじっと考えた。そうかもしれない。否、そうだ、という確信がある。(どこから)彼の手から――現場から?「なぜ…………?」

 こぼれた呟きをしばらく、受け止めるような沈默がある。そしてやがて傍の人物はそっと、「今日はこの辺りでやめよう」と言う。どうしてと問う声は自然と高くなった。何かが近いような気がするのに。


「あなたが泣きそうな顔をしてる」


 はっとして、自分の心中を省みた。……ああ、感情が、近い。耐え得る境界を越えようとする直前の感覚。徐々に動悸がしてきて、胸元を掴んで軽く蹲った。深呼吸すると、由来もわからないまま涙が二、三粒続けてこぼれていった。

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