ゴルゴポネーの『楽園』
外並由歌
1
時折、彼女はあの日の夢を見た。
「おい大丈夫か、何があった?」
「う、ぇ」
駆けつけてきた人物が
―――獄中の死体とは存在を異にして。
続けてえずくなか、視界が朦朧と闇に溶けていこうとするなかで、必死に男の袖を掴む。そうして有機納は呻くように彼に伝えた。
「ちょうこくとうを…、取って……………」
日数感覚が消えている。日数というか、時間のほうだろうか。有機納にとって、起点から来室が何度かあったことだけが確かであり、その実“起点”がどこにあるか、どんな間隔で来訪があるのかまるでわからない。聴取の回数もだ。
やってきた人物は男で、ベッドの横の丸椅子を引き寄せて腰を下ろす。具合はどうか問いかけた声は落ち着きがあるが、若かった。「なんとも、」有機納は困りながら答える。「……いえません」どんな具合について訊かれているのかがわからない。加えて、自分の状態に関しても漠然として掴めず、言葉にならないのだ。そしてこの人物が誰なのか、知り合いなのかそうでないのか、謙るべきか親しげに話すべきかというのも言葉の後ろを悩ませた。少なくともここに来てから初めて話す相手ではある。
「他国から来たとか?」
「………はい。こちらへ来る前はアリヤに。出身は………中東の、センです」
「セン………
「はい」
「死刑が増えた」
有機納は少しの間何かを考え、それは具体的な形にならないまま過ぎていく。「……はい」
自分の置かれた状況は聞いているか、と問われ、これにも肯定を返した。
有機納は移り住んだこの国で看守の仕事を得ていた。担当していた確定死刑囚が自死し、そのときの得物がどこから出てきたのかという点で嫌疑をかけられている。死の瞬間、まさにその場にいたために。
「あなたは『彫刻刀を取って』と言ったらしいんだ。覚えているだろうか?」
「………、」
彫刻刀。それが例の得物である、という情報だけなら頭に浮かぶ。
これまでの聴取でそう聞いていた。自分が発したらしい言葉についても聞いていたが、思い出そうとするとひどい恐怖感と吐き気に見舞われていつもかなわない。
有機納はそのことで、何度かここに足を運んでくれた人物たちに申し訳なく思っていた。なんとかその情報を有益なものへと還元しておきたい気持ちがあって、来客のない、彼女にとっての空白の期間にも朧げにそのことについて考えていたように思う。
慎重に思考を選択する。
「『取って』、とは………具体的にどこからなんでしょうか」
相手は興味深そうに肘を休めて言った。「というと?」
幸いにも言葉自体に当事者意識がない。考察の余地がある部分について客観的に辿ることならどうやら許されているらしいので、有機納はそれを選ぶことにした。「……そのとき、それはどこに?」
傍の人物はなにやら、笑ったように思えた。視界に映る委細を脳に留め置けないので、どのような感情から生まれた効果なのかまでは判断できない。
「……答えよう。そのとき、彫刻刀は“プロテウス” の手の中にあった」
プロテウス、というのは自死した死刑囚の名だ。本当の名ではないということは辛うじて覚えている。そもそもそれだけしか知らなかった可能性もある。
有機納はうつろの視野の先に思い描いてみた。横倒れになった身体、その右手にやわく握られている得物。思い出すのではなく、まっさらなキャンバスのような場所に新規にオブジェクトを置くイメージだ。故にそこには余計な色がなく、人物は死刑囚その人でもないし背景は牢でもない。
(―――取る)否、依頼の形だったのだから「取ってもらう」が正しいだろう。(誰に?)
「……私のその言葉を聞いたのは」
「巡回官だ。声がしたのを聞きつけて地下房へ」
「『彫刻刀を取って』と、大声を上げていたということですか?」
「いや」
そのときは騒がしいのを不審に思っただけで何を言っているかまでははっきりしなかった。駆けつけたとき既に囚人は死んでいて、有機納は身体を背けて壁に縋って吐いていたのだという。事情を尋ねるために声をかけたところ言った言葉がそれであるとのことだったが、直後に気を失ったので向けられた問いかけとは関係なく、なんとか伝えた言葉なのだろうと男は語った。――では必ずそうしてもらわなければいけない、と思ってのことだったんだろうか。
そのままのヴィジョンから得物を取り上げなければならない状態。これが囚人の生きている間のことなら、凶器を没収するための言葉のようにも思う。だが囚人はその
少し腑におちる。これまでの聴取で彫刻刀が有機納の持ち物なのではないかと再三問われた理由はこれなのだ。死体の手の中にあるものをわざわざ得ようとするというのは、自分のものだという意識がある顕れではないかと考えるのは妥当だろう。陰惨な場面を目の当たりにしたことで錯乱し、分別がつかないままそれを取り戻そうとした……というような。あるいは、罪に問われることを恐れて隠そうとしたのかもしれない。
(他人に取らせて、あわよくば罪から逃れよう、とか…………?)
罪に問われる、ということについて自分の中に恐れがあるのだろうか。
そう不思議に思うくらい馴染みのない感覚ではあったが、過去の経験から、無意識のうちに育てている恐怖はあるのではないかと思いもする。彼女はそれで、一度職を追われていた。母国を離れたのも間接的には同じ理由からだった。
長く思考を巡らせて沈黙してしまったので、有機納はひとまずこれまでと同じように彫刻刀について伝えた。制作の心得はなく、ものの存在自体は知っているが使い方もいまいちわからない。所持していた覚えもない、と。
「なるほど」やはり彼はどこか愉快そうである。柔和な印象ではあるが、不謹慎にも感じられた。
続けて男が話す。
「刃先の形状がどんなものだったか、覚えているか?」
「………形状」
「どんなかたちの刃先だった?」
眉を潜める。“刀”と呼ばれるからには刃物の一種であることはわかるのだが、どういった形について言えばいいのだろう。
「刃渡り………とかですか」困り果てて問うと、「色々あるだろ、平刀とか、丸刀とか」と答えながら相手は真摯な目を向けてくる。種類があるということか。
「その…………わかりません。イメージがつかない……」
満足げなため息が聞こえてくる。「そうみたいだ。確かに、あなたは彫刻刀に関する知識がない」
有機納は目を丸くした。どちらかというと、その情報を得たかったようだ。
そもそも彫刻刀は刃渡りの小さい刃物で、刃先を判別することはあの場では難しいことだっただろう、と彼は教えてくれる。地下房は暗い。そう広くもないが檻を挟んでそれぞれがいて、さらに得物を動かしているとなると程度にもよるがほとんど見えていなかった可能性が高い。「だがここで疑問に思うのは」
「自分で手にすることも間近で見ることもできなかったはずの『イメージがつかない刃物』の名をなぜ口にできたか、ということだ」
「!」
確かに、そうだ。
たとえばここで彫刻刀を描いてみせろと紙とペンを渡されても有機納は書き表すことができない。持ち手がどんな形をしていて刃渡りがどのくらいか、幅はどの程度でどんな刃先をしているのか、ひとつも印象が浮かばない。
それなのになぜ、「彫刻刀」という言葉が出てくる? それも、意識を手放す極限状態で。
「俺が思うに、有機納。あなたは頼まれたことをそのまま巡回官に伝えたんじゃないか」
鼓動が早鐘を打っていた。頼まれた。誰に? その、イメージに転がした死体だ。
何を頼まれた?
(―――見ていてと、言われたのに)
そのとき、虚ろのヴィジョンに鮮やかな赤が噴き出しはじめた。(やめて)驚くほど見事に染めたてるのだ。次の一閃。まるで人ではないかのように。(やめて!)一突き。「やめて、やめて!」放物線。流れ出る。頽れる。夥しい血の海へと、「有機納!」
「無理に思い出そうとするな、相当なトラウマだろう」
「―――…… … …、」
目を逸らした。見ていてと言われたのに。
風に揺れもしない絞死体。処刑台。
あなたの願いを果たせなかった。
「…………ごめん、なさい、……。……ごめんなさい。…ごめんなさい、」
「有機納。いいんだ。目を開けられるか? ものを見たほうがいい。ここはただの部屋で、ここにいるのは俺とあなただけだ。誰も死んでない」
―――落ち着くまですこしかかった。聴取に来た人物はいつのまにか立ち上がって有機納の肩をつかんでいて、彼の肩越しに部屋の一角が見えた。そのとき急に現実感が還ってきて、胸の内に生気が戻るのを確かめる。ここは、
胃に蟠る吐き気を宥めながら息を整えていく。改めて、この人はかしこい、と認識する。こんな言い方で錯乱を止めたのは彼だけだ。
思考の理性的なところに意識を直していくのを彼は見守っていた。そうして有機納が何を話していたのだったか思い起こそうとするより早く告げる。
「無理のない程度に協力してくれたらいい。断片的でいいから、書けることを残しておいてくれないか。暇なときにでも」
小さいノートとボールペンがサイドテーブルにそっと置かれた。スカイブルーのクリアカバーが目に優しく、心を落ち着かせてくれる。声を出すのを躊躇ったが、悪心が湧き返らないよう注意を払いながら謝辞を述べた。「………ご面倒を、おかけします」
彼は苦笑混じりに「いいや」と応えた。
彼が退室してから有機納はノートを開いてみた。一ページ目の三段目に、『彫刻刀を取って』と記しつけてみる。やはり自分の言葉に思えなかったが、これまでよりも生々しく感じられた。……先の人物の言う通りだったからかもしれない。
改めて色のない空間を眺めてみる。そのとき彼女は、イメージの中で倒れ伏している死体が
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