「少し休憩にしようか。」


 

 作業の手を止めた林の中は静寂に包まれた。埃を被った自分の部屋と同じくらい穏やかで、しかし空気は澄んでいた。小梢の影に隠れて鳥のさえずりを感じた。


 「私は昔から、他の人が普通に出来ることがからっきし出来なかったんだよ。」 


 職人は水で喉を潤しながら語り出した。


 「そう……他の人と同じように生きれなかったから、これしかなかった。他の人より上手くならざるを得なかったんだ。」


 予想していなかった言葉に青年は、どう返して良いのか分からず戸惑った。

 しかし言葉を返してくれたこと、自分と意思疎通する気のあった職人に、そこに少しだけ安堵する。


 「自分の居場所を求めて、職を転々としてきた。


 受け入れてくれる環境にどうして恵まれないんだろうと。


 色んな人を恨み、苛立ち、焦りながら、理想だけを追い求めて歩いていた。」


 職人は独り言のように言葉を続けた。きっと返す言葉は求めていない。けれど青年はその言葉に聞き入った。


 「今だから分かる。居場所なんて見つかるはずがなかった。自分で今を、あるがままの自分を受け入れられなかったんだから。今この瞬間を生きている自分のことが。


 いつかなろうと思い描いていた自分に近付けないまま、嫌いな自分を振り回し続けて、気付いたらこんな歳になっていた。家族も友人もいないまま。」


 雲の隙間から陽の光が射し込み、放射状に降り注いでいく。

 視界を照らす光と暖かさに包まれてそのとき、職人は青年にとって得体の知れない他人ではなかった。

 東京の部屋を引き上げてからずっと、行きかう全ての人間が違う生き物に見えていたが、今少しだけ、自分と同じ命に触れた気がした。


  「人間だからあれこれと心が彷徨う事は止められない。過去を振り返り、未来の損得を勘定に入れながら、創意工夫を重ねて生きていく。だからこそ人はこんなに高度な文明を築いてこれたんだ。

 ただ、いつも目的化された人工物に囲まれてると、特定の目標に向かってないと気が済まないようになってくる。コスパや生産性を追い求める生き方だけを続けてると目の前にある景色が見えなくなって、今を生きることを忘れてしまうんだ。思い描いたフィクションの中にいて、気付いたら人生が終わってたなんてことになりかねない。私のようにね。」


 怖かったのは人と話すことじゃない。


 苦しかった。合う人皆が口にする。これからの自分に向けて語られてきた言葉


 今の自分はダメなんだと。


 ずっと遠くを見て歩いていた。消えない過去に苦しんだり、見えない未来に怯えたりしながら。その過程で、足元に芽吹いているどれだけのささやかな幸せを見過ごしてきただろうか。


 だからきっと、青年は少し歩き疲れていたのだ。


 「都会から離れて森の中で呼吸してるとね、そういう失っていた自分の存在にハッと気付かせてくれるんだ。特定の目的に囚われないこの瞬間に。」


 職人は今ここにいる青年に語りかけているのだと気付いた。悔いるでもなく、期待するでもなく。


 だから久しぶりに触れた気がした。生きることに。



 「お前はまだこれから長いんだ。しっかり今を大切に生きろ。」



 やわらかな木漏れ陽が湿った森の中を煌めかせる。


 

 職人は立ち上がると作業の続きに取り掛かった。






 これから自分はこの世界で生きていけるだろうか。


 青年の足下から若い新芽が突き出ているのが見えた。

 朝露を含んで日の光に輝きながら、強く儚く芽吹いている。 








 青年もまた、立ち上がった。

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木漏れ陽の里 羊毛文学 @utakata1991

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