木漏れ陽の里

羊毛文学

 

 湿気を帯びた木の幹にチェーンソーの刃がなかなか進んでいかないのは、昨晩の通り雨のせいだろうか。林冠の隙間から覗く空はどんよりと白く濁り、朝露を抱いた里は肌寒かった。


 引きこもりだった青年がこの雑木林で林業に従事するようになってから、気付けば半年程が経とうとしていた。共に間伐作業に携わっている初老の伐倒職人は、始めこそ気を遣って何度か話を振ってくれていたが、青年が上手く言葉を拾えず押し黙っているうちに、次第に話題が尽きたのか無言になり、やがてあたりは沈黙につつまれてしまった。葉が擦れ合う音が重なり合い、靴底で踏み鳴らす林床の落葉とチェーンソーのエンジン音だけが、人の存在を語っていた。


 青年が学生の頃だったらもう少しましな会話のキャッチボールが出来たかもしれない。ただ、今の彼にはそういう気力はなかった。建設会社に就き、都心で一人暮らしをしながら働いていた青年は、2年ほどで会社に行けなくなった。病院ではうつ病と診断された。

 会社を辞めて実家に戻ると彼は、これまで張っていた緊張の糸が切れたように何も出来なくなってしまっていた。

 

 沈黙を作ってしまった罪悪感で青年が居心地の悪さを感じている中、職人は慣れた手付きで迷いなく太い木々を切り倒していく。倒れていく木は無数の細かい枝がぶつかって折れるパキパキという音と共に空を切り、ドスンと鈍い音を響かせて大地に横たわる。

 陽の射し込まぬような暗い森では、木は細くなり草も生えない。 間伐して森に陽が当たるようにすることで、木々が良く育つ。

 間引いた木の方は材木として売りに出せるよう、職人は熟練の技でテキパキと余計な枝を落として形を整えていく。野外作業で風雨にさらされてきた手はごつごつとして樹皮のような皺が刻まれ、青年の青白い手が一層不健康に感じられた。職人は青年の父より一回り若いくらいだろうか。そう考えると両親もだいぶ歳を取っていたことに気付かされる。


 青年が部屋から出なくなると父は焦り、苛立ち、動かない息子を見かねて次第に厳しい言葉を浴びせるようになった。戸惑う母は息子に変わって就職口を探し始め、あれやこれやと手当たり次第集めた情報を伝えてきた。そんな二人が煩わしくて、顔を見るのも嫌だった。


 それでも家からずっと出る気になれなかったのは、外で人と会うのが怖かったからだ。 学生時代の友人や職場の同僚、多くの人が社会人として働いてるこの世界で、青年にはそれが出来なかった。そんな出来損ないの自分が外を歩くと、すれ違う人々が皆、自分にはとても敵わない怪物に思えた。それが外の世界を跋扈していると思うと、これからどう生きていけば良いか分からなかった。

  引きこもり化した青年を案じて家族の溝ばかりが深まり、家は重苦しい空気が支配するようになっていった。

 母が地元の広報誌から林業従事者の公募を見つけてきたのは、新しい年が始まろうとする3月の下旬だった。有無を言わさず勝手に話を進める両親に、青年は久しく怒りを感じ、激しく抵抗したのを覚えている。暴言を吐き散らかして夕刻、外に飛び出した。やかましく通知音のなる携帯の電源を落とし、薄暗い地元の街で人気のない路地を当てもなく彷徨う。見知っていた気でいたこの街も、上京しているうちに随分様変わりしていた。緑が減り、住宅地や駐車場等の人工物に埋め尽くされたそこはもう、青年の過ごした子ども時代が終わっていることを告げていた。



 戻った青年を出迎えたのは両親ではなく、誰もいない散らかった食卓だった。夕飯の準備でもしていたのか、台所には冷めた作りかけの煮物と、切りかけの野菜。走り書きのメモには母の字で、父が急に倒れた旨と、救急搬送先の病院の名前が記されていた。


 もう自分の世界に籠ってはいられない。突き付けられた無慈悲な現実は、しかし青年が再び社会に接するきっかけだった。


 切り倒した木を並べる作業をしながら、何度か話しかけてくれた職人の好意を害さぬよう、青年の頭の中ではかけるべき言葉が浮かんでは消え、せわしなく働き続けていた。でも声を出そうとする度、言葉が詰まって結局何も話しかけられない。


 ここで、どんな話題を振るのが“普通のこと”なのか分からない。呼吸が震える。何か話さなければ。相手にこちらが、悪意を抱いていないことを伝えなくては。

 息が詰まる。沢山失敗してきた。これ以上傷付く勇気はない。


 国立大の理学部を出、新卒で東京の会社に就職した。話すのが苦手だったので人の輪に入ることはなかったが、学業成績はそこそこだった。教室では静かなキャラで許容されていた。なるべく目立たないように、底辺の一角でひっそりと息をしていた。


 社会人としてもそれなりにやっていけると思っていた。


 でも違った。相談の仕方が分からない。話しかけていいタイミングが分からない。自分でやっていいことといけないことの区別がつかない。電話対応が出来ない。そんなことばかりだった。

 やらかしてばかりの日々、始めはまだ慣れていないからと気を遣ってくれていた周囲の先輩たちも、徐々に疲れ、苛立ち、自分の事を嫌いになっていくのが分かった。


 若い担い手が不足しているのもあってか、土木系の職場経験がある青年は作業員の求人にすぐ採用となった。癌と告げられた意識の戻らぬ父には、まだそれを伝える術はない。もうないのかもしれない。

 病院からの帰路、遠くに見える森の影を眺めた。自分の生まれ育った土地が“武蔵野台地”に属していることすら青年は知らなかった。

 

 一人じゃこの社会を生きれない。けど人に頼る方法も分からない。


 「すごいですね。こんなに巧くやれる人いないですよ。どうすればこういう技が身につけられるんですか……。」


 職人に向けてやっと、初めて自分から発した言葉。心にも思ってないことだ。自分で気持ち悪くなる。

 何が良くて何が悪いのかなんて、物事の善し悪しなんて、青年には分からない。ただ職場の皆が彼の腕を良く言っていたから、そういうものなんだろうと思っていた。


 言葉をかけられた職人は、こちらの言葉にすぐ言葉で返さず、ただじっとこちらを見つめてきた。観察するようにただ真っ直ぐな視線だった。

 全部見透かされているようだった。そう感じた。

 

 これから自分は裁かれるんだろうか。

 自分の罪ってなんだっけ。

 いい加減なことを言ったから。 

 心にも思っていないことを話したから。

 

 喉がからからに乾いていく。

 やっぱり今の自分はダメなんだ。

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