10 還元レゾンデートル




「私が館の魂?でも、私は人間ですよ。」

「外側の形にそれほど意味はない。問題は中身だ。そうだな、まだ一日しか経っていないが、君はここの館を懐かしいとは、何処かで見たことがあるとは思わなかったか?」


 ふと問われた問いに戸惑いを隠せなかった。私は、あの部屋をまるで昔からそこにいたかのように居心地良く感じたこと、玄関のステンドグラスに既視感を覚えたことが、頭に浮かんだ。


「あるのか?どうなんだ。」

「なくはないですけど、それはどれも気のせいだと言われればそれまでなんです。」

「恐らくそれは気のせいではない。」


 ルルゥさんは私に「ついて来い」と言って、億劫そうに立ち上がった。


 こちらを見ずに歩く彼に、置いていかれないよう、慌てて足元のランタンを手に持って小走りで駆け寄る。部屋を出て、明かりの消えた廊下を歩く。歩幅が違うので、ついていくのが大変だった。


 階段を降りた所で、玄関の前にオリヴェルさんとナツキさんが二人で話しているのを見つけた。二人はこちらに気付くと、頭を下げた。


「二人もついて来てくれ。」

「かしこまりました。」


 ルルゥさんに言われ、二人も私の後ろを歩いた。


 左の廊下を進み、地下室へ続く階段の前に着くと、オリヴェルさんが前に進み出て、扉を開けた。それに対し、特に反応せずルルゥさんは降りて行く。私と二人もそれに続いた。


 真っ暗な階段をカンテラで照らして慎重に一段一段降りて行く。先に降りていたルルゥさんが何かしたのか、ぼっという燃え上がる音がして、地下の廊下の壁に掛けられた燭台に一気に火が灯った。


 視界が開けたので、追いつくために駆け足で降りていく。カツカツと鳴りながら進む靴音を追いかける。私の履くオペラシューズは柔らかい素材なので、足音があまり鳴らない。そして、正確な色の分からない薄い布の下の石の触覚がより分かる。借り物の靴はとても履き心地が良かった。


 二つの部屋を通り過ぎ、三つ目の部屋の前でルルゥさんが足を止めた。覚えている。一番最初に見た黒魔術部屋だ。


 扉が開かれ、中に入る。蝶番が鳴らす金属の擦り合う音が耳に痛い。


 部屋はあの時と同じく、床に魔法陣が描かれている。所々に置かれた蝋燭には既に火が点けられていた。こもった空気が、開いた扉から漏れ出ていく。


「この鏡だ。」


 ルルゥさんが鏡の横に立つ。後ろから入って来た二人が部屋の端に並ぶ。


「鏡の前に立ってみろ。この鏡は持ち主の姿しか映さない。」


 有無を言わさない言い方に、大人しく鏡の前に立った。鏡の中に私がいる。左右対称で、なんの変哲もない鏡だ。部屋の魔法陣も蝋燭も映っている。


「特に変わったことはありませんけど。」

「オリヴェル、ナツキ。」


 名前を呼ばれた二人が、私の横に立った。しかし、鏡に二人の姿は映らなかった。


「えっ。」


 何回見比べても、鏡の中に二人はいない。だが、確かに私の隣に二人はいるのだ。


 ルルゥさんが私の後ろに立った。彼も鏡の中に存在していなかった。


「何で。」

「ナオ様、この鏡は持ち主の、館の魂の姿しか映さないのです。館の魂はよく人の姿を借りて、我々住人の前に現れました。その時もやはり、この鏡には彼女だけが映っていました。」


 オリヴェルさんが懐かしげに語る。ああ、私はそれを知っている。どうしてだろう。記憶が湧き上がる。


 何も映さない鏡をみんなが不思議そうに覗き込む。そして、突然鏡の中に現れた私にみんなが驚く。その様を見て楽しんでいた。元々鏡は、私がさっきまでいた部屋に置かれていた物だった。


 時折、誰かが私に話しかけて来た。すると私は鏡の中から出て、その人と拙い会話をした。物である私はあまり言葉を話すのが得意ではなかった。


 その相手は時や場所によって様々で、私を友人のように接する人もいたし、私を宝石のように扱う人もいたし、怪物だと恐れる人もいたし、ただの物のように乱雑に運ぶ人もいた。だが、私はそれでも誰かが死ぬのが嫌で、誰も死ぬことのない世界を夢見ていた。


 それはいつから?


 何故、そう思ったのだろう。


 誰かがいた気がする。誰かの死を悼んだ。


 気が遠くなる程の昔、屋敷の中で誰かが死んだ。私はそれが悲しかった。誰だったろう、もう忘れてしまった。


 だから、私は夢を見た。誰も死ぬことのない夢。


 長い時の中で、様々な存在が館を訪れては、何かを悟って去って行く。その中の一人に私は目を留めた。柔らかな笑顔の人。陽だまりのような人。それ故に陽だまりの中に入れない人。


「名を何と申されましょうか?」

「ナ……ヲ……?」

「ナオ?ナオ殿と仰るのですか。某は此処に越してきた橋場宗弘はしばのむねひろと申す者。暫しの間、よろしくお願致す。」


 埋もれても尚輝く記憶。


 初めて名前を訊いて来た人。そして、名付けてくれた人。私はその人が好きで、その人間が好きで、それで、彼と同じものになりたいと、人間になりたいと、別の夢を見て。


 それから、それから。


 ああ、あの陽だまりの人はもう此処にはいないのね。


 どこから夢だったのだろう。どれが本当で、どれが夢だったの?


「ねぇ、やっぱりやめましょう!だって、彼女はもう人間です!」


 遠い靄の向こうでナツキさんの声が聞こえた。


「今更何を言っている。君だって、もうそれが九つ目、最後の魂なのだろう?魔女の猫よ。」

「だからって。」

「私達にはもう猶予がないんだ。」

「だからって、彼女は……。」

「ナツキ!」

「オリヴェルさんだって、分かってる筈でしょう。生き延びたって、魔女は排斥され続けるし、狼が神に戻ることはないんです。」

「例えそうだったとしても、仮初であっても、私は生きていたい。多くの仲間が死んだのを見た。言葉を失い、吠えることしか出来なくなった者達を見た。私もいずれそうなる。そんなのは死んでも御免だ!」

「私だって消滅したくないです!でも、これじゃあ、ヒトがあなた達にした仕打ちと変わらないじゃないですか!ルルゥ、あなただって。」

「僕だって消えたくない。100年間も代わりを務めたせいで、僕は吸血鬼としての性質を失いつつある。このままでは存在は精霊に近付き、そして、かつて役目に殉じた者達と同じように消費され尽くして消滅する。使い潰される以外の道があるなら、それを選ぶだろう?僕を使ってその恩恵を受けたのは誰だ?」


 そう言って布を取ったルルゥさんの顔には、大きなひびが入っていた。


 遠く、遠くなっていく。


 凡ゆるものが遠ざかって、境界が曖昧になっていく。


 私は三人を見ていた。鏡の中から見ていた。


 どうか、泣かないで。あなた達は何も悪くない。ただ、怖がっているだけなのだから。そう、癒してあげなければ。


 酷く眠い。


 何か暖かいものが側にあった。刺々しく、とても怯えている。その魂にはひびが入っていた。ああ、これはルルゥさんの魂だ。私が居ない間、代わりをしてくれていた。


 返してあげなければ。埋めてあげなければ。きっと、長い時間を掛ければ、幾らか補えるはずだから。


 それは納得の為に。そこにしがらみはなく、忌憚もない。差別はなく、判別もない。ただあるがままに、それそのものを、あなた達を受け入れましょう。


 その魂を手に取って、そっと彼のいる方へ放った。魂はふらふらと揺れながら、ルルゥさんへと向かって消えていった。


 私は瞼を閉じた。此処はとても、居心地が良い。







 誰かが私の前に立った。


 私は目を開けて、誰かを見た。


 私の仕事は此処を訪れる怯えた者達に、安らぎを与えること。世界から溢れて消えてしまう前に、納得をする猶予を与えること。


 此処が私の職場であり、かけがえのない家だった。


 私は鏡からするりと出て、挨拶をした。


「初めまして、新しい住人さん。ここは微睡みの館。私はこの館の魂、精霊のナオと言います。」

「会うのはこれで三度目だ。こんばんは、ナオ。僕の名前はルルゥ。彼はオリヴェル、彼女はナツキ。」


 ルルゥと名乗った人は、艶やかな黒髪を束ね、胸元に垂らしている。長い睫毛に縁取られた瞳は鬼灯のようで、妖しく濡れている。陶器のような白い肌は血の気がなく、傷一つもないので、まるで人形のように見えた。

 オリヴェルと呼ばれた初老の男性は、青みがかったグレーの髪を撫でつけている。その瞳は橙色に近い茶色で、鋭い眼光だが、奥に悲しい色が見えた。服の上からも、その体がよく鍛錬されているのが分かった。

 横にいる小柄な女性は、まるで夜空のような髪をお団子に纏めていて、柔らかな曲線の顔の輪郭がよく見えて美しかった。淡い緑色の瞳はきらきらと宝石のように輝いていたが、どこか曇りがあるようにも見えた。

 その三人を、私は何処かで見たことがあるような気がした。いや、私はこの人達に会ったことがある。


「まずは、君にした仕打ちに謝罪を。僕達に残された時間はあまりにも短く、それ故、君という存在を求め過ぎた。君をただの道具としてしか見ていなかった。申し訳なかった。」


 ルルゥさんが頭を下げると、二人も続いて頭を下げた。それを見て私は申し訳なく思った。


「ねぇ、お友達になりましょう?そんな畏まらないで。」

「そういう訳にもいかない。終わってしまったからと言って、そのままなし崩しには出来ない。」

「どうして?あなたも此処を去ってしまうの?」

「君は、何があったか覚えていないのか?」


 覚えている。


 人として生きていた私を、無理矢理連れて来たこと。それが自分本意な理由であること。


 でも、死を恐れる心を私は既に知っていた。


 折々に見せた優しさは、きっと私が館の魂であるが為だったのでしょう。傷付かないように、壊れないように。自分の命と同じようなものですもの。


 それでも、少し夢見てしまう。あの優しさがそれだけではないことを。私がそうである以外にも理由があるのではないかと。損得などではなく、善意から発せられたのではないかと。さすがに望み過ぎかもしれない。それでも、それらを確かめてみたいと思う。


 この言葉は、小さな私の仕返しだ。裁かれず、戸惑うあなたを笑い飛ばしてやる。そうして、少しでも悔やんでいるなら全てを許そう。


「分からないわ。きっと、あまり良くないことがあったのね。」

「そう、か……。」


 言葉を濁しながらも、どこかほっとしたようにルルゥさんが呟く。以前の彼の態度からは想像も出来ない、しおらしい殊勝な様子だ。


「しかし、それは……。」

「だから、忘れていいの。他の誰でもなく、私が言うのよ?」


 ルルゥさんは腑に落ちない顔をして黙った。オリヴェルさんは口を真一文字に閉じているが、眉間に眉が寄せられている。その顔が見られたなら、もう充分でしょう。


 それを暗い顔で見ていたナツキさんが前に進み出て、私の手を取った。


「あの!」


 その目は真剣で、そして、とても怯えている。掴まれた手にはいつかと同じ熱が伝わって来た。


「わ、私と、お友達になってくれませんか。」


 ペリドットの瞳がきらきらと煌く。唾を飲んだのか、細い喉がこくんと動いた。


 罪滅ぼしなんて思わなくていいのに。だって、あなたは私を私として見ていたのだから。それでも、その手の温もりが涙が出て来そうなくらい嬉しかった。


「ええ、ええ!勿論!凄く嬉しいわ。これからよろしくね、ナツキさん。」


 彼女の顔が綻んだ。


 最後の手前で、また、一から始まる。


 彼らは終わりを見た。それはとても暗く、強く、恐ろしいもの。心が力づくで捻じ曲げられてしまう程の恐怖。差し込まれる暗闇は、骨の髄から体を震え上がらせ、その身の矮小さ、無力さを思い知らしめる。


 ほんの束の間、それに立ち向かう心を整える為に。沢山の昂る感情を理解し納得する為に。


 微睡みの中で、私達は夢を見続けている。

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まどろみの館 宇津喜 十一 @asdf00

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