08 満腹ミッドナイト




 流石に化粧水類やドライヤーはなかったので、ベッドに腰掛けながらタオルで髪を拭いていた。


 指の皮はすっかり再生して、ピンク色をしていた。破けた皮は洗っている内に取れたようだ。あの緑の正体は何だろうと考えていると、こんこんと扉が叩かれた。


「ナオ様、起きてらっしゃいますか?」

「はい、起きてます。」

「失礼します。」


 かちゃりと控えめな音を立てながら、ナツキさんがサービングカートを押して入ってきた。黒色の金属の骨組みに、茶色く艶のある木が嵌め込まれたそれには、銀の蓋がされた3枚の白いお皿が乗せられていた。側には薄緑色の水の入った瓶とグラスもある。


「お風呂に入られていたんですね。何か分からないことや、困ったことなどはありませんでしたか?」

「なんとか大丈夫でした。」

「些細なことでも何でも訊いてくださいね。あと、昨日から何も食べていらっしゃらないから、お食事をお待ちしました。すぐ召し上がりますか?」

「食べます。実はもうお腹ペコペコで、お風呂に入っている時もお腹がぐーって鳴ってたんです。」

「ふふ、それは可哀想なことをしました。すぐ準備致しますね。」


 ニコニコしながら、ナツキさんは部屋の奥へ向かう。ソファの前にある、黒に近い暗い茶色の机にカタンカタンとお皿を配置していく。


「お怪我の具合はどうでしょう?」

「皮膚が再生して、ピンク色です。もう、全然痛くないんです。凄いですね、あの緑のどろどろ。」


 私は半分濡れた髪を手櫛でさっさっと梳いて、タオルをサイドテーブルの端に置き、ナツキさんの方へ向かう。ぺたぺたと裸足で歩くと、足の裏の水分が床の木に吸われるのが分かった。


 ソファの側まで来た私に、「少し失礼します。」と言って、ナツキさんが私の手を取る。暖かくて、触れている肌にじわりと溶け込むような潤いのある柔らかい手をしていた。


 広げられた掌を見て、ナツキさんは目を細めて具に観察して「うーん。」と唸り、「これなら大丈夫そうですね、三日もかからず元通りになると思いますよ。」と笑顔で私に言った。久々に間近でのほんわりとした笑みに、私も釣られてほわほわと笑顔を向ける。


「あの緑の薬はなんだったんでしょう。」

「あれは私が調合した薬です。一子相伝の秘薬なんです。」

「凄い。そんな凄い薬だったんですね。」

「実は、館の庭にこっそり薬草畑を作っているのです。ご主人様に知られたら怒られちゃいますから、この話は秘密にしといてくださいね。」


 ナツキさんが悪戯っ子のように人差し指を口に当てた。共通の秘密が出来ちゃった。


 彼女に握られていた手が離される。温もりが消えた現実に追い付けず、少し空中に手を置き忘れていた。気付かれないように、余韻に浸りつつゆっくり手を下ろした。


 私がソファに座ると、ナツキさんは順々に蓋を取って行く。メニューは、クリームシチューとパンとサラダだった。立ち昇る湯気にやや興奮気味になる。


 ナツキさんはグラスに水を注ぐと、「どうぞお召し上がりください。」と言った。スタートが切られた。


「いただきます。」


 まず、パンに手を伸ばす。見た目は普通のバゲットだ。カリカリの表面を手で千切って口に運ぶと、小麦の素朴な味が噛めば噛むほど溢れて来た。


 次に、フォークを手に取り、サラダを手元に寄せる。名前は分からないが葉先の丸っこいお洒落そうな葉っぱとパプリカが沢山入っている。上には薄くスライスした紫玉ねぎ、細かく刻まれたトマトが乗せられている。彩り鮮やかだ。ひと口食べると、不思議な味がした。掛かっているドレッシングだろうか。スパイスが効いている。異国の味がして、それはそれで美味しかった。


 フォークを置いてスプーンに持ち替え、メインディッシュに向かう。ひと口サイズに切られた鶏肉と人参が顔を覗かせている。煮込まれた牛乳の甘い匂いが食欲を誘う。


 具材を食す前に、スープを啜る。コンソメの味が最初に来て、その後に舌の上をミルクとバターの甘味が通り過ぎ、名残惜しみながらも飲み込んだら、次の瞬間にはもう一度口に入れたいと思わされる。オーソドックスで懐かしさもありながら、実に奥深い味わいだった。


「お口に合いますか?」

「とっても美味しいです。もう、これなら何皿でもぺろっと食べられちゃいます。」

「それは良かったです。実は私が作ったんです。おかわりもありますから、遠慮せずにお申し付けください。」


 お手製のシチューをおかわりしたかったが、流石にそれは厚かましいし大食いのようで恥ずかしいと思い、おかわりはせずに食べ終わった。人に見られながら食べて緊張したのか、それかパンが胃の中で膨らむのか、おかわりしなくてもそれなりに満腹感があった。


 お皿を片すナツキさんを手伝おうとすると、駄目ですと制されたので、ソファに座って、手際よく片付けられるのを眺めていた。すぐに机は食べる前の綺麗な状態へと戻った。


「ご馳走様でした。」

「食後の紅茶かコーヒーでも……ああでも、この時間だと眠れなくなっちゃいますね。ココアやホットミルクはお飲みになりますか?」

「いいえ、大丈夫です。それより、ルルゥさんにお会いしたいのですが、お休みでしょうか。」

「この時間でしたら、きっと起きていらっしゃる筈です。確認して参ります。少々お待ちくださいね。」

「お手数をおかけします。」

「いえいえ。」


 カラカラと空のお皿を乗せたカートを押しながら、ナツキさんは部屋を出て行った。靡くスカートの裾が名残惜しい。


 今朝の話では、太陽光に当たったので休んでいるとのことだった。もし体調が悪い状態なら、押し掛けるのは申し訳ないが、私にとってはチャンスだった。体調が万全の相手より悪い相手の方が、こちらが出し抜く可能性が高いのは当然だ。


 彼は悪い人ではないかも知れない。それでも、私にとって彼は誘拐犯で、得体の知れない相手には変わらなかった。


 もし会うなら、一応ちゃんとした服の方が良いかと、クローゼットの中を開けて、リボンタイのついた白いシャツと、膝下丈の青いフレアスカートを選んだ。靴下は無難に白を履き、アクセサリー類はつけなかった。下段の引き出しを開けて、黒のオペラシューズを取り出す。うっかり転ぶといけないので、ヒールがあるものは避けたかった。


 まだ乾き切ってない髪の毛も自前の髪ゴムで纏め、高い位置から垂らすポニーテールにして背中へ流した。


 メイクは道具がなくて出来ないから仕方ないとして、このくらいすれば、取り敢えず、失礼にはならないだろう。


 15分くらいが経ったろうか。また、コンコンと戸を叩く音がして、ナツキさんが入って来た。


 その手には四角いカンテラが提げられている。


「ご主人様がお会いになるそうです。ご案内します。」


 私は雛鳥のようにナツキさんの後ろについた。廊下を出ると、昨日見た鈴蘭型の電灯が灯っていた。


「体調とか、大丈夫なんですか。その、今朝、休んでるって。」

「いつものことなので、あまりお気になさらないでください。今はだいぶ体調も戻られたようです。」

「それなら良いんですけど。」


 廊下を歩きながら、また、玄関に取り付けられたステンドグラスを見た。光が刺し込む様も美しかったが、光の中から見るそれも、また違った顔をしていて美しかった。そして、やっぱりどこかで見たことがあるような気がした。


 ルルゥさんの部屋は、私の真反対の位置にあった。二階、右手側の廊下の一番奥である。


 部屋の前でナツキさんが足を止め、こちらに振り返る。


「このお部屋には明かりがないので、こちらをお持ちください。」


 そうしてずっと手に持っていたカンテラを私に手渡した。


「ありがとうございます。」


 受け取ると重さがあった。1kgあるかないかくらいだろうか。まじまじと見ると、随分年季の経った物だと分かる。鈍色の金属で出来ていて、持ち手は丸い輪で、頑丈そうである。下部は硝子に四角く囲まれていて、一面だけ開閉出来るように蝶番と留め具が付けられていた。そして、中の本来蝋燭や電球が入れられている所には丸くて白い石が針金で留められていた。


「この石は何ですか?」

「私達は夜照石と呼んでいます。ヒカリゴケのように、暗闇で光るのです。」

「へぇ、初めて見ました。綺麗ですね。」

「光っている所も綺麗なんですよ、緑色で。」

「何もしなくても勝手に光るんですか。」

「ええ、そうです。暗い所に行けば光るのです。」


 不思議な物もあるものだ。


「それでは、私は此処で失礼致します。」


 いつものように、綺麗に一礼してナツキさんは去って行く。どことなく、去り際の笑顔は少し緊張しているように見えた。


 私は扉を見た。何の変哲も無い木製の扉だ。唾を飲み込んで、カンテラを持っていない右手の拳に力を入れた。そして、意を決して、私は扉をノックした。

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