まどろみの館

宇津喜 十一

01 さようなら、麗しの弊社



 ばさっ。


 不意に落したファイルが床に広がる。開いたページの面を下に落下したそれは、確実に折れ目が出来ているだろう。バターを塗ったパンを一瞬思い出す。


 大量の資料ファイルを両手で持っていた入社2年目の私、橋場直はしばなおは困った。


 この量では屈んで拾うことも出来ない。かと言って、このままにしたまま移動するのも、周りの目が気になる。


 仕方がなく、手に持っている分を一度床に下ろそうとした時、「はい、これ。」という声と共に、落としたファイルを一番上に乗せてくれた人がいた。


「ありがとうございます、どう拾おうか困ってたので、助かります。」

「気にしないで、これくらいのこと。」


 そう爽やかに言って、先輩の赤城さんは煙草のケースを持った手をひらひらさせながら、オフィスから出て行った。


 また、煙草休憩か。1時間前も取ってたな。助けて貰ったことは置いといて、ちょいと頻度が高すぎないか。先輩がいない間、先輩宛の電話出るの、私なんだよなと思いつつ、荷物を目的の自分の机まで持ってくる。


「橋場さん、それすごい量だね。」


 向かいの席に座る先輩で、同じ事務の西島さんが、資料を置いた時の重い振動で気付いたのか声を掛けてくれる。


「あの例の、謎経費を調べろとのことで。」

「あー、あれね。事前に話し合いちゃんとしろって上司が言ったのにさ。」

「取り敢えず、調べて、証拠を集めなきゃいけないんで。」

「大変だったら言って。今やってるの終わったら手伝ってあげられるかもだから。」

「ありがとうございます、その時はお願いします。」


 1年分の経費の領収書がまとめられているファイルが三つ。一個一個がとても重い。そして、これからこの大量の資料の中から、該当する書類を探し出さなくてはならない。


 それが終わるまで他の作業も出来ないので、うんざりしながらもペラペラと捲っていく。


 弊社は本社と営業所が別々にあり、営業所で発生する一部の経費も私のいる本社にあげられる。その営業所から来る領収書がどうにもきな臭いそうなのだ。確かに金額の変動が少し前にあったが、変わらない筈の項目の値段も変わっているのではないかという疑惑があり、私がそれを調べる担当を任せられたのだ。


 本来なら経費担当の別の先輩がやる筈だったが、その人が今度退職するとかで、私にお鉢が回ってきた。経費などやったことなかったが、引き継ぎ書も手渡された段階で、最早逃げ道などなく、ここで断っても印象を悪くするだけだった。


 取り敢えず、過去の該当する金額のチェックから始める。細かい数字が並ぶ表を見ていると、目がしょぼしょぼとして、指差し確認をしないと数字を追うのも辛くなってきた。


 時折掛かってくる電話を担当に繋いでは、表を見るを繰り返す。そろそろ目薬でも差そうかとした時、丁度お昼の鐘がなった。うちの会社では12時になると、壁に掛けてある時計から小人が登場して、楽しげな音楽を鳴らすので、それをみんな合図としていた。


 周りがバタバタと動き出すのを感じながら、私は目薬を差してからお昼を買いに出ようと、お手洗いへと向かった。


 丁度、向かいのオフィスの別会社の人達も出て来た所で、軽く挨拶をする。


 私の会社が入っているのは10階建てビルの3階で、そこには弊社と印刷関連の会社の2社のオフィスがある。真ん中に吹き抜けがあるビルなので、エレベーターから出て右が弊社、左が印刷関連会社と住み分けは完全に出来ているが、お手洗いはオフィスの中にはなく、ビルの共同の物を使うので、時折顔を合わせることもあった。


 お手洗いは、清掃の人がいつも掃除をしてくれているのでピカピカで、白を基調とした新しく清潔そうな様子はトイレと言えども何となく安心感があった。昼休み開始直後に入ると、化粧直しする人もいたりして、結構混むのだが、偶然にも今日は私以外に誰もいないようだった。


 洗面台の鏡の前で、目薬を差すと、まるで眼球の血管を通っていくようにスッキリ成分が染み込むのを感じた。


 目から零れた分をティッシュで拭こうとするが、うっかり忘れてしまっていたので、仕方なしにハンカチを取り出そうとした時、その声は聞こえてきた。


「それは暗く、冷たく。かつての斜陽の花。過去の落とす影。」


 それは女子トイレで聞こえる筈のない低い声だった。


「え、誰。」


 キョロキョロと周りを見渡すが、人影はなく、お手洗いの外で誰かが喋っているようでもない。声は中から聞こえたのだ。個室も見るが、全て扉が開いている。


 気のせいかと洗面台の前に戻ると、私の目の前の鏡が黒く濁り、何も写し出さなくなっていた。突然の出来事に私は混乱して、自分が何かしてしまったのかと、それを確かめようと思わず鏡に触れようとした。


「遥けき面影よ、今一度我が前に現れるがいい。」


 鏡に触れようと伸ばした手は、黒い鏡から差し出された手に掴まれた。そして、そのまま引っ張られ、吸い込まれるように私は鏡の中へと入ってしまった。





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