07 荒波細波バスタイム




 消毒液を塗った後、謎の緑のどろどろした物を塗られた上にガーゼを当てて、それを包帯でぐるぐる巻きにされている。その為、私の手は怪我の大きさに反して、とても重傷のように見えた。


「何ですか、その緑の。」

「怪我が早く治ります。」

「なんか生暖かい。」

「これは生きておりますので。」

「生もの?」


 というやり取りを交わしながら、掌にべったりと緑のどろどろを塗りたくられたのだ。もしかしたらやばい物を塗られたのかも知れないと思ったが、それのお陰か今、痛みが引いて、熱かった掌がいつもと同じに戻ったように感じた。鎮痛の効果があるんだろうか。よく分からないが、緑色をしていたので多分悪い物ではないのだろう。


 オリヴェルさんからの処置を受けながら話を聞くと、私が落ちた時、彼は壁を蹴って上へ飛び上がって私をキャッチしたのだと言う。そんな馬鹿なと思ったが、彼の鍛え抜かれた体幹なら出来てしまうのだろうかとも少し思ってしまった。


 例えそうでも、せいぜい1、2mくらいしか上がれなさそうで、あの程度の衝撃で済むとは考えられなかったが、実際に助けられてしまったので、そうだったのかと言うより他にない。その話を聞いてる間に四回くらい「もうあんなことしないでくださいね。」と釘をさされたので、頼まれてもあんなことはもうしない。


 今、彼はもう部屋に居ない。


 私一人だけだ。


 寝台の上で、うとうととしている。一睡もしてなかった上に、あの騒動を起こしてしまったのだ。自業自得だが疲労は溜まりに溜まっていた。


 処置後、「食事を持ってきましょうか。」という提案を丁重に辞退して、私はベッドに潜り込んだ。ふかふかの寝台は体を包み込むようで、柔らかく私の体を沈める。


 服は着替えていた。クローゼットに入っている服は自由に使っていいとのことだったので、柔らかい綿の白いワンピースに袖を通した。


 破れたストッキングを脱ぎ、体を縛る物を全部外すと、それだけで軽くなった気がした。もう使えないので、ストッキングは捨ててしまった。ついでにレシートも捨てておいた。


 ルルゥさんと話をしなければならない。


 私は情報を得なければならない。


 彼は太陽を浴びたから休んでるとナツキさんは言った。アレルギーか何かだろうか。あの細い体付きだから、陽を浴びるのにも体力が足りないと言われても、そういうこともあるかと思う。もしそうなら、ほんの少しの朝日でそうなら、外を殆ど出歩けないだろう。まるで吸血鬼みたいだ。


 でも、不思議と最初ほど、恐ろしく感じない。





 目が覚めたら真っ暗だった。


 この部屋は色んな物が揃っているのに、時計がないので時間が分からない。窓の外を見ると、月が低い位置にある。三日月だった。


 自分がいた所と変わらない物を見ると、本当に鏡を通って来たのかと、また頭が痛くなる。既に遠い過去の話のように感じられるが、恐らくまだ1日しか経っていない。


 昨日は混乱していてそれどころではなかったが、この広くて馴染みのない部屋は、不思議と居心地は良く、しっくり来ていて、まるで昔から自分の部屋だったような気さえして、それが余計に昨日の出来事を遠い過去に押しやっていた。


 もそもそともぐらのように寝台から降り、クローゼットに向かう。暗いが、昨日確認していたので着替えが何処にあるかは分かっていた。必要な物を持って、シャワールームに向かう。


 白い陶器のドアノブを捻ると、奥に青いタイルが一面に貼られている。ドア近くの壁に付けられたスイッチを押すと、僅かに点滅してから白いライトが点いた。


 洗面台を見ると、今朝、顔を拭いてそのままにしていたタオルは回収されていて、新しい物が追加されていた。ホテルよりもホテルだった。


 床に置かれた木で編まれた籠に着替えを入れ、着ていた物を脱いだ。結んでいた髪ゴムも外して、服の上に投げる。腕にぐるぐる巻きにされている包帯を取ると、不思議なことに緑色のゲルはなくなっていて、透明の膜のようなものが手を覆っていた。成分が染み込んだのだろうか。特に手が緑色に変色してる様子もなく痛みもないので、まあいいかと気にせず猫足バスタブを目指す。


 初めて使う物なので、いまいち分からない。多分、浴槽の中で全部済ませるのだと思うが、周りに水が飛び散ってもいいのだろうか。取り敢えず、中に入ってみようと、足を上げるが、外国人向けなのか縁に高さがあり、また、底が丸みを帯びているので滑りそうになり、とても怖かった。


 お湯を溜めてから体を洗うのだろうか、流しっぱなしにするのだろうか、何も分からない。シャワーの栓はちゃんと赤と青で分かれていたので安心した。捻ると、冷水が頭から降ってきて、思わず「うおお。」と唸って避けてしまった。すぐに赤い方を捻る。


 いい感じの温度になるよう調節すると、特に何をするでもなくずっとお湯を浴びていたいと思ったが、水が勿体無いのでさっさと洗う。


 シャンプートリートメントの類は直ぐ側に置いてあった。見たことのないラベルで、成分表示とかも書かれていない。だが、既に謎の緑を手に塗りたくった身だったので、気にせず使うことにした。


 手に出してみると、薄いオリーブ色をしていて、ハーブのような匂いがした。きっと自然成分たっぷりなお高いやつなんだろうなと思って泡立てると、又聞くそういう類の性質と違って、ほんの少し出しただけなのにとても泡立ちが良く、髪の隅々まで泡が行き渡り、尚且つ洗い流した後の泡切れも良く、たった一回で私はこのシャンプーが好きになっていた。


 うきうきとしてトリートメントを出すと、白い固めの液体が出て来る。これも、シャンプーと同じくハーブのような少しスパイシーな香りがした。


 それを腰まである髪の毛先にしみ込めと祈りを込めながら満遍なく行き渡らせる。それを洗い流すと、小さめのタオルにボディーソープを垂らし、くしゃくしゃと泡立てる。これは先の二つと違って、ほんのりとした甘い香りがした。なんだか美味しそうだった。


 隅々までくまなく擦り、シャワーで泡を流す。


 全身を打つ雨を止めると、途端に静かになった。髪から滴る水が肌をなぞって落ちて行く。バスタブの中で足を伸ばす。爪先にかすりもしない大きなこれは、舟のようだった。換気用の小さな小窓を見ると、遠くでチカチカと星が瞬いている。


 私にとって星は、遠くのよく分からない綺麗な物。船乗りは星で方角を測れるのだそうだ。彼らにとって星は道標だった。


 星を知れば、私も漕ぎ出せるだろうか。


 ほかほかと清められた体は、生まれ変わったようだった。その誕生を祝するようにお腹はぐうと鳴いた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る