05 ホップステップandエスケープ




 私は洗面台でぐしゃぐしゃになった顔を洗うと、側に置かれていたふかふかのタオルで水気を拭いた。とてもふかふかなので、ちゃんと水を吸ってるのか不安になるくらいだった。


「よし。」


 頬をぴしゃりと両手で叩いて、気合いを入れた。


 窓から出られないなら、玄関から出ようと決めたのだ。


 部屋の外へ繋がる扉に耳を当てる。特に音は聞こえない。今度はそっと扉を開けて、その隙間から廊下を見た。人影はなく、物音もない。


 ゆっくりと扉を開けて、中腰で外に出る。


 廊下に明かりは点いておらず、薄暗いが、窓から射し込む少しの朝日で充分視界は確保出来た。ステンドグラスが埋め込まれた窓は芸術品としても美しく、その影はモザイクの役割を果たしてくれていた。都合の良いことに、床に敷かれた絨毯は厚めで、忍び足で歩けば足音も鳴らなかった。


 念の為サンダルを手に持ち、廊下を足早に抜けて階段の手前まで辿り着く。ここまでは順調だ。


 手摺りの隙間から階下を覗くと、誰かがホールを歩いていた。青みがかったグレーの髪を後ろへ撫でつけて、体格に合ったスーツをピシッと着こなしている。昨日は見かけなかった人物だ。


 彼は手元の時計を見ながら、ホールをうろうろと苛ついたように歩き回っていた。


 これでは下に降りられない。しゃがんだ状態で、暫く待ってみるが、一向に去る気配がない。今ならまだ全員寝ていると思ったのに、これではどんどんチャンスがなくなってしまう。


 作戦を変更して、私は一か八か窓から脱出することにした。


 来た時と同じように足早に部屋に戻ると、開けっぱなしの窓の下を見た。高さは10mくらいはあるだろうか。建物から5m離れた辺りは崖になっていて、その下には海があった。昨日は暗くて、降りられないと思ったが、この幅なら大丈夫だろう。


 どこかの映画で見たように、私はシーツをベッドの足へ固く結んだ。そして、至る所から布を集め、それを結んで、縄を作っていく。


 窓からそれを垂らすと、自分がラプンツェルになった気がした。少し引っ張り、強度の確認をしてから、下へ降りていく。


 ずしりと自分の体重が2本の腕にかかり、掌が熱くなった。子供の頃はこんな上り下りなど、軽々とやってのけたのに、今は必死で、縄を掴んでいる。今にも布の縄は破けそうで、早く降りたいのに、腕力の弱さか手間取ってなかなか降りられない。


「ぐう。」


 体中から汗が吹き出している。指の皮が剥けそうなくらいに痛い。


 壁に足をつけ、バランスを取りたいが、踵がないサンダルなので踏ん張りがきかない。いっそのことと、サンダルを脱ぎ捨てたが、今度はストッキングで滑る。


 ぶらぶらと揺れながら、私はこの作戦にとても後悔した。そして、映画の中の人物を尊敬した。これをすらすら降りれるなんて、日頃から筋肉を鍛えていたに違いない。


「ナオ様!」


 頭上から悲鳴のような声が上がる。


「何故そのような所に。」


 見上げると、昨日と同じ格好をしたナツキさんが、真っ青な顔で狼狽えていた。一瞬、布の縄を引っ張り上げようとしたが、無理だと悟ったのか、バタバタと音を立ててどこかに行ってしまった。多分、人を呼びに行ったのだろう。どこかほっとする自分がいた。


 地上8mで私は情けなく縄に縋り付くしかない。地面には散らばったサンダルがある。ここから落ちたら骨は絶対折れるし、最悪死ぬだろうなと思った。


 死にたくないから逃げ出そうとしたのに、そこで死にそうになっているとはこれ如何に。


 上がまた騒々しくなる。人が来たのだろう。見上げると、ナツキさんとルルゥさんがいた。相変わらず顔は隠されている。寝起きなのか、服がパジャマだった。怪しげなローブを羽織り、顔を隠していた謎の存在の意外な一面を見た気がした。


 彼は「そこから動くな。」と私に言ってから、縄を手に取った。持った瞬間、それがどれだけ脆い命綱か分かったのか、「絶対に動くな。」と付け足した。そして、その細長い体から出してるとは思えない力で、慎重に少しずつ、引き上げていくのだった。私は木に登って降りれなくなり保護される猫の気持ちで、それを見ていた。


 しかし、如何に膂力に優れていようとも、繋ぐ糸が千切れれば甲斐はない。今まで耐えていたのが不思議な縄は、新たな力の作用に耐え切れず、ビリビリと音を立てて、破れ始めた。


 彼は思わずこちらに手を伸ばした。


 私も彼に向かって手を伸ばした。


 しかし、2mという大きな距離。手は届かず、切れた縄は自由に宙を舞った。瞬間、世界の速度が落ちたように感じられた。私の手を離れ、海蛇のように空を踊る縄、手で目を隠すナツキさん、布の向こうで口を開けて何か叫ぶルルゥさん。私はニュートンの言う通りに地面に落ち、叩きつけられる、筈だった。


 しかし、衝撃は想像していた物より小さな物だった。


「もう大丈夫ですよ。」


 と、至近距離から声が掛けられる。目を開けると、青みがかったグレーの髪を撫でつけた、野性みのある橙色に近い茶色の目をした男性が目の前にいた。さっき、ホールで見かけた人だ。


 彼はゆっくりと、体幹が鍛えられた動きで私の足を地面につけた。お姫様抱っこをされるのは赤子の時以来だった。


「大丈夫ですか、立てますか。」

「た、立てます。」

「気を付けて。私の腕を支えにしてください。」


 彼は震える私の足を見て、腕をロックし、まるで特注の松葉杖のように支えてくれた。そして、もう片方の手で丸を作り、上階の二人に示した。


 二人は脱力したようだった。




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