06 キャッチそして処置




「もうこんな危ないことしないでくださいね。」


 オリヴェルと名乗った体幹が鍛えられた初老の男性は、ぷるぷるしている私の足を見て察したのか、また私を抱きかかえると、落ちていた私のサンダルを手早く拾い、裏口の扉から館へと入った。


 中は、薄暗い倉庫のような部屋だった。急に視界が暗くなったので分かりづらかったが、どうやら食料庫のようで、棚に果物が置かれてるのを見つけた。不思議と外気温よりひんやりとしていた。


 食料庫の中を抜けると台所に出た。台所より調理場と呼んだ方がいいかもしれない。広く見通しのよい調理場は清潔ではあったが、手入れの腕が良過ぎるのか、あまり使われていないようにも見えた。


 そこを抜けると、ホールへと出た。昨日は影になって見えていなかったが、階段の裏にも部屋があったのだ。


 玄関の扉の上に設けられた巨大な円形のステンドグラスの光が、ホールいっぱいに満ちていた。赤や緑、青色がオリヴェルさんの顔に塗られる。


 ステンドグラスの模様は複雑で緻密だが規則正しく、中心から外縁に向かって色が濃くなり、まるで年輪のようにも、花が開いてる模様にも見えた。


 回り込んで階段を上りながら、私の視線に気が付いたのかオリヴェルさんが、あれはフランスで作られた物です、と教えてくれた。


「凄く綺麗ですね。」

「館の何代も前の主人がわざわざ取り寄せた物です。此処に運んで来るのは大変だったそうですが、あの美しさを見れば、その程度の苦労はなんてことないように思えて来ますね。」


 後付けで取り付けられた窓なのだろうか。或いは、古そうに見えるこの館だが、思ったよりは作られて年月が経っていないのかもしれない。どちらにしろ、それは最初からそこにあったかのように、堂々とした存在感だった。


 あっという間に、元の部屋へと戻り、私はソファに下される。部屋にはあの二人はいなかった。


「まず、消毒しましょうか。薬箱を持って参りますので、少々お待ちください。」


 アドレナリンでも出ていたのか、言われるまで気が付かなかったが、掌の皮がめくれて、所々血が滲んでいた。目で確認すると、途端に痛覚が戻って来た。


 体を確認したが、壁で引っ掛けたのかストッキングが破れていることと、掌の皮以外特に問題がなさそうだった。


 私は助けられたのだと、漸く実感した。生きていると改めて自覚するのは、不思議な感覚だったが、それはとても安心するものだった。


 オリヴェルさんが戻って来たら、お礼と謝罪をしなければならない。しかし、8mくらいの高さから落ちてキャッチされたにしては、随分と衝撃も軽く、キャッチされたタイミングも早かったように思う。そんな高い所から落ちたことはないので、実際に8mあったのかすら、あまり確証もないことではあるが、人体は意外にクッション性に優れて、頑丈なのだろうか。


 そういえば、あの二人は何処に行ったのだろう。


 私はルルゥさんに殺されるのだとばかり思っていたが、あの反応は私が死んだら困るように見える。いや、家の裏に潰れた死体が落ちてたらめちゃくちゃ嫌だが、それにしたって、縄を引く姿は必死な様子に見えた。


 何か、私は思い違いをしているのかも知れない。


「うぅ、ナオ様。」


 開けっ放しの扉から、泣きっ面のナツキさんが現れた。大きな緑色の瞳には涙が溜まっていて、まるで宝石のようにキラキラと光を反射していた。零れる滴を袖で拭う様は、小さな子供のようにも見え、不意にどきりとした。


「ご無事ですか、お怪我はありませんか。」


 鼻が詰まった聞き取りづらいで声だったが、それがいじらしかった。


「大丈夫です。大した怪我はしていません。ご心配をおかけして、ごめんなさい。それより、ナツキさん、顔が……。」

「良かった。」


 ハンカチを持って彼女に近付こうとしたら、突然抱き付かれた。呆気に取られた私は一瞬フリーズしてしまったが、良かった、良かったと繰り返しながらお腹の辺りを抱き締める様子が、母親にしがみつく子供のように思えて、そっと血のついていない手の甲で背中を撫でた。


 ここまで、他人に無事を喜ばれるのは初めてだった。しかも、会って間もない人に。


「これ。ナツキ。」


 薬が入った高さ30㎝の立方体の箱を片手に、オリヴェルさんが入って来た。

 それに気が付いたナツキさんは「だって。」と言いながら、体を離した。名残惜しく思った。


「しゃんとなさい。ほら、顔を洗って来なさい。袖で顔を拭くのはやめなさいと言ったでしょう。」

「ごめんなさい。」

「ルルゥ様はどうなされた。」

「お部屋でお休みです。久しぶりに太陽を浴びたから。」

「大事ないことをお伝えしなさい。顔を洗ってからですよ。」

「分かりました。」


 お爺ちゃんと孫みたいな二人だった。叱られているけど、怖くなく、そこには温かい何かがあった。彼らはどういった関係なのだろう。当たり前だけど、私の知らない時間があって、その中でこの人達は生きていたんだなとぼんやり思った。


 ナツキさんはこちらにぺこりと頭を下げてから、部屋を後にした。


「どうぞ、お座りください。」


 言われた通りにソファに腰を掛ける。オリヴェルさんは薬箱から消毒液のような物を出して、それを白い布巾に含ませると、私の手を取った。


「あの、ありがとうございました。あと、すみませんでした。」

「お気になさらず。ご無事ならそれで良いのです。」


 傷口に消毒液がしみる。


 布巾の指が触れた所が、僅かな血を吸って、桃色になっていた。



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