後篇


 二人を乗せたゴンドラが上昇を始める。

 不意に外の景色を眺めていた華恋の大きな目がさらに大きくなる。瞳孔どうこうが開いたことで「猫のような目」という形容がますます的を射たものとなった。

 眼下に広がるのは、色とりどりの光が演出する、幻想的な世界。宝石を散りばめたような街はもちろん、真っ暗に見えた海にも微かに光が点滅している。

 そこには、光と闇のコントラストが織りなす、神秘的な光景――初めて目にする横浜があった。

 時間が経つにつれ、見える景色が刻々と変わっていく。ゴンドラが上昇していくことで視界が広がり、まるで大空を舞う鳥にでもなったような気分だった。


『こんな横浜もあるんだ。全然知らなかった』


 魅入られたような表情を浮かべて、華恋は心の中で呟く。

 初めて目にする、夜のパノラマに深い感銘を受けた。同時に、自分がどれほど小さな存在なのかを実感した。

 海上連絡船シーバスを降りたとき目にした街は、いつもと違って見えた。しかし、今、見ている景色は更なる別の世界。


「華恋さん、話をしてもいい?」


 康介が穏やかな口調で話し掛ける。

 華恋は、頭を軽く左右に振ってトリップした意識を引き戻す。


「いいわよ。聞いてあげる」


「実は、今日の午前中に、ある新聞社から内定をもらったんだ」


「そうなの? 良かったじゃない。やっとプー太郎卒業ね」


 康介の話を軽く受け流した華恋だったが、心の中では「おめでとう」を連呼していた。康介がどれほどがんばっていたのかを知っていたから。


「結果がわかってるなら、もったいつけずにメールで教えなさいよ。就職祝いでも用意してあげたのに。相変わらず気が利かないんだから。でも、どうしてこんなところで話したわけ?」


「そのことだけど……華恋さんと横浜の景色を見ておきたかったんだ。最後に」


「最後?」


 華恋が怪訝けげんそうな表情を浮かべると、康介は、罰が悪そうに視線を窓の外へ向ける。

 上昇を続けるゴンドラの中に沈黙が訪れる。

 華恋は、康介の言葉の意味が知りたかった。しかし、彼の寂しそうな顔を見ていると言葉が出なかった。真意を知るのがとても怖かった。


「内定をもらったのは、僕の地元――熊本のK新聞なんだ」


 長い沈黙を破るように、康介の口から躊躇ためらいがちに言葉が漏れる。


「昨日、K新聞に勤めている、高校の先輩から電話があった。欠員になっている報道職に僕を推薦してもいいか聞かれた。もちろん二つ返事でOKした。今日の午前中、面接を受けて内定をもらったんだ」


「地元に帰れて良かったじゃない。康介には、横浜より熊本の田舎の方がお似合いよ。でも、新聞社なんだから関東の出先もあるんでしょ? あんた、関東に土地勘があるから、きっとこっちに来ることになるわよ」


 間髪を容れず、華恋の口から出たのは、一見憎まれ口に聞こえる言葉。ただ、それは、彼女の切なる希望であり、動揺する自分を落ち着かせるためのものだった――が、次の瞬間、華恋の希望はもろくもうち砕かれる。


「小さな地方新聞だから九州の外に出先機関はないんだ。全国のニュースは、大手の通信社から入手している」


「……地元の役所にUターン就職するみたいな感じね。願ったり叶ったりじゃない。田舎者は田舎に落ち着くのが幸せよ」


 華恋の言葉に数秒の間が空いたのは、康介との別れが現実であることを認識したから。そして、少なからずショックを受けたから。


 華恋が初めて康介と出会ったのは、四年前の四月。大学の友人に連れられて、康介の大学を訪れたとき。友人の彼氏が入っていたサークルに新入生の康介が見学に来ていた。そのときは言葉を交わすこともなかったが、後に新入部員歓迎コンパの席で再会した。

 外見は猫のような可愛らしさが滲み出る華恋だが、どんなときも決してことなどない。当然、コンパの席でも自分らしさを存分に発揮していた。その結果、小一時間もすると、彼女の周りからは人の姿が消えていた――一人を除いて。

 上から目線で攻撃的な態度を見せる華恋に臆することなく、彼はうれしそうに言った。「田中康介と言います。綾辻さん、これから四年間、よろしくお願いします」。


 そのときから、康介はいつも華恋のそばにいた。何かあればいつも力になってくれた。華恋にとって康介がいることが当たり前であって、彼がいない日常など想像できなかった。

 このまま康介が熊本へ帰ってしまったら、二人は、異なる地方の異なる業界で異なる仕事をすることとなり、接点が無くなってしまう。「康介とのつながりを無くしてはダメ」。華恋は心の中で自分に言い聞かせた。


「観覧車は、ただ今、地上から百十二メートルの地点に達しました。最高到達点の景色をお楽しみください」


「――急な話だけど、明後日の午後、先輩の取材に同行しないといけないんだ。明日の朝、引越しの業者が荷造りに来て午後一で荷物を出す。その足で、僕は羽田空港へ行く」


 観覧車のアナウンスに続いて康介の声がはっきりと聞こえた。

 華恋の胸の鼓動がさらに速くなる。窓の外の幻想的な景色がぼやけて見えた。

 二人だけの時間は永遠ではない。あと七分もすれば、現実に引き戻される。「何とかしないと」。華恋は必死に考えた。このまま離れてしまうのは、絶対に避けたかった。しかし、気ばかり焦ってどうしていいのかわからない。


「そうね。一日でも早く自分の居場所に行った方がいいわね」


 こんなときでさえ、華恋の口からは気持ちとは裏腹な言葉が飛び出す。このときほど自分の性格を恨んだことはなかった。しかし、車が急に止まれないのと同じで、性格は急には治らない。

 華恋は、ぎゅっと口を引き結んで康介が何か言ってくれるのを期待した。


「この四年間、とても楽しかった。華恋さんやサークルのみんながすごく良くしてくれたから。それに、僕は横浜が好きだ。だから、最高の横浜を心に刻んでおきたかった。華恋さん、スケジュールを変更して僕のわがままに付き合ってくれてありがとう。心から感謝している」


『私の方こそ、すごく幸せだった。それは、康介がいてくれたから。私ね、ずっと康介のことが好きだったの。これからも康介のこと絶対に忘れない。だから、康介も私のこと忘れないでね』


 誠実さが溢れ出る、康介の言葉に感化されたのか、華恋は自分の気持ちを正直に言葉にした――心の中で。

 華恋の気持ちが康介に届くことはない。なぜなら、彼女の口から飛び出したのは、本心とは似ても似つかぬ、酷い言葉だったから。


「康介、四年間で成長したわね。面倒を見てあげた甲斐があったというものよ。これからも私への感謝を忘れずに精進なさい。二度と会えないと思うけど」


「わかった。がんばるよ」


 康介の口から無機質な言葉が漏れたとき、観覧車のアナウンスが間もなく地上に到着することを告げる。

 ゴンドラの中には、華恋の心と身体を押し潰してしまいそうな、重い沈黙が広がっていた。


★★


「悪いけど、今日はこれで帰るわ。気分が優れないから」


 観覧車を降りるや否や、華恋は、康介と目を合わせることなく地下鉄の駅の方へ駆け出した。


「華恋さん! 待って!」


 康介が大きな声で名前を呼ぶ。しかし、そんな声を無視して華恋はひたすら走った。自分のことが嫌で堪らなかったから。そんな自分をこれ以上見せたくなかったから。


 不意に華恋は左足を捻るような感覚を覚えた。

 次の瞬間、パンプスのかかとが石畳の隙間に引っかかってポキンと折れる。身体が前のめりにフワリと浮きあがり、華恋は地面に倒れ込んだ。

 周りのカップルがざわついている。嘲笑のような笑い声も混じっている。

 自分がとてもみじめに思えた。華恋は、滲み出る涙をシースルーの袖で拭うと何もなかったように立ち上がろうとする――が、それはままならなかった。捻った左足に激痛が走って力が入らなかった。

 

「華恋さん、大丈夫? 立てる? 僕につかまって」


 後を追い掛けてきた康介は、ペタンと地面に腰を落とす華恋に、心配そうに手を差し伸べる。しかし、そんな好意を無視して、華恋は必死に立ち上がる。そして、左足を引きずりながら駅の方へと歩を進める。苦しそうな呼吸をしながら。


「華恋さん、無理しちゃダメだよ。僕がタクシーで家まで送るから」


 再び説得を試みる康介だったが、華恋は顔を背けて聞こえない振りをする。顔を見たら涙が溢れそうだったから。


 そのときだった。


「この……馬鹿! こんな無茶してどういうつもりだよ! 心配で熊本になんか行けるわけないだろ! 内定は断る! 今から人事に電話する!」


 背中越しに聞こえたのは、耳を疑うような言葉だった。

 声の主は康介に間違いない。温厚を絵に描いたような彼が、荒々しい言葉を発している。苦労して手に入れた内定を断ると言っている。それは、彼がずっと抱いてきた夢を捨てることを意味する。

 慌てて振り向いた華恋の目に、小刻みに身体を震わせる康介の姿が映る。その真剣な眼差しから本気度がひしひしと伝わってきた。


 瞬時に華恋の両の瞳を涙が満たす。真珠のような大粒の涙がボロボロとこぼれ落ちた。


「ごめんなさい! ごめんなさい! 私、私……康介! ごめんなさい!」


 華恋は、人の目もはばからず、子供のように泣きじゃくった。ところどころ嗚咽おえつで聞き取れなかったが、ひたすら謝罪の言葉を繰り返した。


「大丈夫。怒ってないよ。いっしょに帰ろう。駅まで僕がおぶっていくから」


「うん。わかった」


 華恋の手を取る康介の顔には、いつもの優しい笑顔が戻っていた。

 華恋は、鼻をすすり上げながら、康介に言われるまま、彼の背中におぶさる。華奢きゃしゃに見えた康介だったが、その背中はとても大きく、そして、とても温かかった。


「……重くない?」


 華恋は、康介の耳元でポツリと呟く。その顔は赤らみ目は宙を泳いでいる。

 康介とまともに手をつないだ経験もない華恋にとって、今の状況は階段を数段飛び越して上っているようなもの。うれしくないと言えば嘘になるが、戸惑いを感じずにはいられなかった。


「大丈夫だよ。就職活動が長丁場になると思ってしっかり鍛えておいたから」


 華恋を背にした康介は、かかとの折れたパンプスを手に、海沿いの石畳の歩道をゆっくりとタクシー乗り場へと歩いていく。時折、海からの潮風が二人を包み込むように優しく吹き抜ける。


「内定、辞退しないよね? せっかく夢に近づいたんだから止めたりしないよね?」


 華恋は、康介の肩にしがみつきながら、不安そうに尋ねた。


「華恋さんが無茶をしないって約束してくれるなら断らない。約束できる?」


「うん、約束する。絶対に無茶はしない」


「じゃあ、K新聞でがんばることにするよ」


 康介の言葉に華恋は安堵の胸を撫で下ろす。しかし、次の瞬間、涙が溢れてきた。次の日には彼がいなくなってしまうことを実感したから。

 身体を震わせながら、華恋は必死に声を押し殺す。そんな彼女の様子に康介が気づいた。


「華恋さん、観覧車の中で、僕の就職祝いを用意していないって言ってたよね?」


「うん、買ってない……。ごめんね」


 唐突とも言える、康介の問い掛けに、華恋は指先で涙を拭いながら答える。

 華恋の言葉を否定するように、康介は小さく首を横に振る。


「今あるもので欲しいものがあるんだけど。いいかな?」


「いいけど……。私、康介にあげられるものなんて何も持ってない」


「わかった。じゃあ、遠慮なくいただくよ。正確には『もらう』じゃなくて『借りる』だけどね」


「えっ? 借りる……? きゃっ!」


 突然、背中におぶっていた華恋を道沿いのベンチに座らせると、康介は、その場にしゃがんで右膝をつく。そして、かかとの折れたパンプスを掲げて華恋の瞳をじっと見つめた。


「華恋さんの靴をしばらく借りていきます。いつか僕の夢が実現しそうになったら返しに来ます。そのとき、この靴に足を通してください。サイズがピッタリ合う人が僕の運命の人ですから」


「それって……」


 少し照れたように話す康介に、華恋は、両手で口を覆って驚きをあらわにする。

 再び真珠のような涙がポロポロとこぼれ落ちる。さっきと違うのは、それが嬉し涙であること。


「ありがとう。私、待ってる。ずっと待ってる……。でも、本当にいいの? 私なんかでいいの?」


 心配そうに尋ねる華恋に、康介はゆっくり頷くと、彼女の手を取って飛び切りの笑顔を見せた。


「大丈夫だよ。四年間ずっと見てきたから。僕にしか見せない、華恋さんの特別な顔を。そして、今日やっと見ることができた。魔法が解けた、華恋さんの素敵な顔を」



 おしまい

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横浜ツンデレラ RAY @MIDNIGHT_RAY

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