後篇
★
二人を乗せたゴンドラが上昇を始める。
不意に外の景色を眺めていた華恋の大きな目がさらに大きくなる。
眼下に広がるのは、色とりどりの光が演出する、幻想的な世界。宝石を散りばめたような街はもちろん、真っ暗に見えた海にも微かに光が点滅している。
そこには、光と闇のコントラストが織りなす、神秘的な光景――初めて目にする横浜があった。
時間が経つにつれ、見える景色が刻々と変わっていく。ゴンドラが上昇していくことで視界が広がり、まるで大空を舞う鳥にでもなったような気分だった。
『こんな横浜もあるんだ。全然知らなかった』
魅入られたような表情を浮かべて、華恋は心の中で呟く。
初めて目にする、夜のパノラマに深い感銘を受けた。同時に、自分がどれほど小さな存在なのかを実感した。
「華恋さん、話をしてもいい?」
康介が穏やかな口調で話し掛ける。
華恋は、頭を軽く左右に振ってトリップした意識を引き戻す。
「いいわよ。聞いてあげる」
「実は、今日の午前中に、ある新聞社から内定をもらったんだ」
「そうなの? 良かったじゃない。やっとプー太郎卒業ね」
康介の話を軽く受け流した華恋だったが、心の中では「おめでとう」を連呼していた。康介がどれほどがんばっていたのかを知っていたから。
「結果がわかってるなら、もったいつけずにメールで教えなさいよ。就職祝いでも用意してあげたのに。相変わらず気が利かないんだから。でも、どうしてこんなところで話したわけ?」
「そのことだけど……華恋さんと横浜の景色を見ておきたかったんだ。最後に」
「最後?」
華恋が
上昇を続けるゴンドラの中に沈黙が訪れる。
華恋は、康介の言葉の意味が知りたかった。しかし、彼の寂しそうな顔を見ていると言葉が出なかった。真意を知るのがとても怖かった。
「内定をもらったのは、僕の地元――熊本のK新聞なんだ」
長い沈黙を破るように、康介の口から
「昨日、K新聞に勤めている、高校の先輩から電話があった。欠員になっている報道職に僕を推薦してもいいか聞かれた。もちろん二つ返事でOKした。今日の午前中、面接を受けて内定をもらったんだ」
「地元に帰れて良かったじゃない。康介には、横浜より熊本の田舎の方がお似合いよ。でも、新聞社なんだから関東の出先もあるんでしょ? あんた、関東に土地勘があるから、きっとこっちに来ることになるわよ」
間髪を容れず、華恋の口から出たのは、一見憎まれ口に聞こえる言葉。ただ、それは、彼女の切なる希望であり、動揺する自分を落ち着かせるためのものだった――が、次の瞬間、華恋の希望は
「小さな地方新聞だから九州の外に出先機関はないんだ。全国のニュースは、大手の通信社から入手している」
「……地元の役所にUターン就職するみたいな感じね。願ったり叶ったりじゃない。田舎者は田舎に落ち着くのが幸せよ」
華恋の言葉に数秒の間が空いたのは、康介との別れが現実であることを認識したから。そして、少なからずショックを受けたから。
華恋が初めて康介と出会ったのは、四年前の四月。大学の友人に連れられて、康介の大学を訪れたとき。友人の彼氏が入っていたサークルに新入生の康介が見学に来ていた。そのときは言葉を交わすこともなかったが、後に新入部員歓迎コンパの席で再会した。
外見は猫のような可愛らしさが滲み出る華恋だが、どんなときも決して猫を被ることなどない。当然、コンパの席でも自分らしさを存分に発揮していた。その結果、小一時間もすると、彼女の周りからは人の姿が消えていた――一人を除いて。
上から目線で攻撃的な態度を見せる華恋に臆することなく、彼はうれしそうに言った。「田中康介と言います。綾辻さん、これから四年間、よろしくお願いします」。
そのときから、康介はいつも華恋のそばにいた。何かあればいつも力になってくれた。華恋にとって康介がいることが当たり前であって、彼がいない日常など想像できなかった。
このまま康介が熊本へ帰ってしまったら、二人は、異なる地方の異なる業界で異なる仕事をすることとなり、接点が無くなってしまう。「康介とのつながりを無くしてはダメ」。華恋は心の中で自分に言い聞かせた。
「観覧車は、ただ今、地上から百十二メートルの地点に達しました。最高到達点の景色をお楽しみください」
「――急な話だけど、明後日の午後、先輩の取材に同行しないといけないんだ。明日の朝、引越しの業者が荷造りに来て午後一で荷物を出す。その足で、僕は羽田空港へ行く」
観覧車のアナウンスに続いて康介の声がはっきりと聞こえた。
華恋の胸の鼓動がさらに速くなる。窓の外の幻想的な景色がぼやけて見えた。
二人だけの時間は永遠ではない。あと七分もすれば、現実に引き戻される。「何とかしないと」。華恋は必死に考えた。このまま離れてしまうのは、絶対に避けたかった。しかし、気ばかり焦ってどうしていいのかわからない。
「そうね。一日でも早く自分の居場所に行った方がいいわね」
こんなときでさえ、華恋の口からは気持ちとは裏腹な言葉が飛び出す。このときほど自分の性格を恨んだことはなかった。しかし、車が急に止まれないのと同じで、性格は急には治らない。
華恋は、ぎゅっと口を引き結んで康介が何か言ってくれるのを期待した。
「この四年間、とても楽しかった。華恋さんやサークルのみんながすごく良くしてくれたから。それに、僕は横浜が好きだ。だから、最高の横浜を心に刻んでおきたかった。華恋さん、スケジュールを変更して僕のわがままに付き合ってくれてありがとう。心から感謝している」
『私の方こそ、すごく幸せだった。それは、康介がいてくれたから。私ね、ずっと康介のことが好きだったの。これからも康介のこと絶対に忘れない。だから、康介も私のこと忘れないでね』
誠実さが溢れ出る、康介の言葉に感化されたのか、華恋は自分の気持ちを正直に言葉にした――心の中で。
華恋の気持ちが康介に届くことはない。なぜなら、彼女の口から飛び出したのは、本心とは似ても似つかぬ、酷い言葉だったから。
「康介、四年間で成長したわね。面倒を見てあげた甲斐があったというものよ。これからも私への感謝を忘れずに精進なさい。二度と会えないと思うけど」
「わかった。がんばるよ」
康介の口から無機質な言葉が漏れたとき、観覧車のアナウンスが間もなく地上に到着することを告げる。
ゴンドラの中には、華恋の心と身体を押し潰してしまいそうな、重い沈黙が広がっていた。
★★
「悪いけど、今日はこれで帰るわ。気分が優れないから」
観覧車を降りるや否や、華恋は、康介と目を合わせることなく地下鉄の駅の方へ駆け出した。
「華恋さん! 待って!」
康介が大きな声で名前を呼ぶ。しかし、そんな声を無視して華恋はひたすら走った。自分のことが嫌で堪らなかったから。そんな自分をこれ以上見せたくなかったから。
不意に華恋は左足を捻るような感覚を覚えた。
次の瞬間、パンプスの
周りのカップルがざわついている。嘲笑のような笑い声も混じっている。
自分がとても
「華恋さん、大丈夫? 立てる? 僕に
後を追い掛けてきた康介は、ペタンと地面に腰を落とす華恋に、心配そうに手を差し伸べる。しかし、そんな好意を無視して、華恋は必死に立ち上がる。そして、左足を引きずりながら駅の方へと歩を進める。苦しそうな呼吸をしながら。
「華恋さん、無理しちゃダメだよ。僕がタクシーで家まで送るから」
再び説得を試みる康介だったが、華恋は顔を背けて聞こえない振りをする。顔を見たら涙が溢れそうだったから。
そのときだった。
「この……馬鹿! こんな無茶してどういうつもりだよ! 心配で熊本になんか行けるわけないだろ! 内定は断る! 今から人事に電話する!」
背中越しに聞こえたのは、耳を疑うような言葉だった。
声の主は康介に間違いない。温厚を絵に描いたような彼が、荒々しい言葉を発している。苦労して手に入れた内定を断ると言っている。それは、彼がずっと抱いてきた夢を捨てることを意味する。
慌てて振り向いた華恋の目に、小刻みに身体を震わせる康介の姿が映る。その真剣な眼差しから本気度がひしひしと伝わってきた。
瞬時に華恋の両の瞳を涙が満たす。真珠のような大粒の涙がボロボロとこぼれ落ちた。
「ごめんなさい! ごめんなさい! 私、私……康介! ごめんなさい!」
華恋は、人の目も
「大丈夫。怒ってないよ。いっしょに帰ろう。駅まで僕がおぶっていくから」
「うん。わかった」
華恋の手を取る康介の顔には、いつもの優しい笑顔が戻っていた。
華恋は、鼻を
「……重くない?」
華恋は、康介の耳元でポツリと呟く。その顔は赤らみ目は宙を泳いでいる。
康介とまともに手をつないだ経験もない華恋にとって、今の状況は階段を数段飛び越して上っているようなもの。うれしくないと言えば嘘になるが、戸惑いを感じずにはいられなかった。
「大丈夫だよ。就職活動が長丁場になると思ってしっかり鍛えておいたから」
華恋を背にした康介は、
「内定、辞退しないよね? せっかく夢に近づいたんだから止めたりしないよね?」
華恋は、康介の肩にしがみつきながら、不安そうに尋ねた。
「華恋さんが無茶をしないって約束してくれるなら断らない。約束できる?」
「うん、約束する。絶対に無茶はしない」
「じゃあ、K新聞でがんばることにするよ」
康介の言葉に華恋は安堵の胸を撫で下ろす。しかし、次の瞬間、涙が溢れてきた。次の日には彼がいなくなってしまうことを実感したから。
身体を震わせながら、華恋は必死に声を押し殺す。そんな彼女の様子に康介が気づいた。
「華恋さん、観覧車の中で、僕の就職祝いを用意していないって言ってたよね?」
「うん、買ってない……。ごめんね」
唐突とも言える、康介の問い掛けに、華恋は指先で涙を拭いながら答える。
華恋の言葉を否定するように、康介は小さく首を横に振る。
「今あるもので欲しいものがあるんだけど。いいかな?」
「いいけど……。私、康介にあげられるものなんて何も持ってない」
「わかった。じゃあ、遠慮なくいただくよ。正確には『もらう』じゃなくて『借りる』だけどね」
「えっ? 借りる……? きゃっ!」
突然、背中におぶっていた華恋を道沿いのベンチに座らせると、康介は、その場にしゃがんで右膝をつく。そして、
「華恋さんの靴をしばらく借りていきます。いつか僕の夢が実現しそうになったら返しに来ます。そのとき、この靴に足を通してください。サイズがピッタリ合う人が僕の運命の人ですから」
「それって……」
少し照れたように話す康介に、華恋は、両手で口を覆って驚きを
再び真珠のような涙がポロポロとこぼれ落ちる。さっきと違うのは、それが嬉し涙であること。
「ありがとう。私、待ってる。ずっと待ってる……。でも、本当にいいの? 私なんかでいいの?」
心配そうに尋ねる華恋に、康介はゆっくり頷くと、彼女の手を取って飛び切りの笑顔を見せた。
「大丈夫だよ。四年間ずっと見てきたから。僕にしか見せない、華恋さんの特別な顔を。そして、今日やっと見ることができた。魔法が解けた、華恋さんの素敵な顔を」
おしまい
横浜ツンデレラ RAY @MIDNIGHT_RAY
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