横浜ツンデレラ

RAY

前篇


 夜のとばりが下りた横浜ベイサイドエリア。

 波飛沫なみしぶきの白線を引きながら船着場ハーバーに接岸する海上連絡船シーバス。乗客がまばらな船内から夜と同化したような女性が降りてくる。

 五分の袖とスカートの裾がシースルーになったドレスワンピース。リボンがあしらわれた、ベルベットのカチューシャ。フリルがついたニーハイソックス。かかとの高いストラップパンプス。六芒星ろくぼうせいがデザインされた、革張りのショルダーバッグ。

 ゴスロリファッションに身を包んだ彼女――綾辻あやつじ 華恋かれんは、肩まで伸びた、サラサラの黒髪を夜風になびかせながら遊園地コスモワールドの方へ視線を向ける。巨大な観覧車の中央部に埋め込まれたデジタル時計の表示は「19:10」。待ち合わせの時間まであと二十分ある。

 華恋は、少し緊張した面持ちで、スカートの裾をひるがえして石畳の歩道を観覧車の方へと歩き出す。


 きらびやかにライトアップされた街は、昼間より存在感が増している。対照的に、深い闇に包まれた海は、空との境界さえよくわからない。

 いつもの見慣れた景色が別のものに思えた。パンプスのかかとが奏でる、コツコツという、無機質な音さえ特別なものに感じられる。きっと、気持ちがたかぶっているせいだろう。


 待ち合わせ場所である観覧車乗り場は、平日の夜にもかかわらずたくさんの人で溢れていた。

 新型コロナウイルスの影響で先日まで営業を休止していた反動が出ているのかもしれない。ただ、カップルの姿が目に付くのはいつものこと。コロナウイルスとは何の関係もない。


 不意に、華恋は、観覧車の支柱の陰に身を潜めて化粧ポーチからコンパクトミラーを取り出す。猫のように丸い、黒目がちの瞳が、鏡の中の彼女を入念にチェックする。

 頬紅の乗り具合を確認してチークブラシで軽くなぞる。濃い目の口紅を重ね塗りして唇にペロリと舌を這わせる。前髪をヘアブラシで左右に流してカチューシャを着け直す。

 口角をあげて笑顔を作った華恋は、準備万端と言わんばかりに小さく頷いた。


★★


「華恋さん、こんばんは!」


 五分が経った頃、背中越しに男性の声が聞こえた。

 条件反射のように、華恋の顔から笑みが消え、厳しい表情が取って代わる。

 胸の前で腕を組んだ華恋は、ふぅっと息を吐きながらヤレヤレといった様子で振り返った。


「この私を待たせるなんて偉くなったものね。わかってる? 呼び出したのは自分だってこと」


 手厳しい言葉とともに、鋭い視線が男性に突き刺さる。


「ごめん、ごめん。七時半の待ち合わせだったから十分前に来れば余裕かと思って。華恋さんがこんなに早く来てるなんて思わなかったんだ。何かあったの?」


 デニムのシャツにチノパンというラフな服装の男性は、華恋の厳しい態度に我関せずといった様子で、日に焼けた顔にさわやかな笑みを浮かべている。

 華恋は、プイっと横を向いて露骨に不機嫌そうな顔をする。


「私は社会人よ。康介こうすけみたいな、無職のプー太郎とは訳が違うの。当然、常識はわきまえてるわけ。いいこと? 次からはもっと早く来るようになさい。常識を疑われないように」


「わかった。今度から気を付けるよ。嫌な思いをさせてごめんね」


 上から目線でまくし立てる華恋に、田中たなか 康介こうすけは、穏やかな口調で詫びを入れる。


「わかればいいのよ。わかれば」


 華恋は、満足気な様子で小さく首を縦に振った。


 華恋と康介は、この春まで康介が通う大学のイベントサークルに所属していた、いわゆるサークル仲間。華恋の大学も同じ横浜市内にあることから、週に三日は顔を合わせていた。

 都市銀行の重役を務める父親のコネで難なく就職できた華恋に対して、報道関係を志望する康介は、なかなか就職先が決まらず、六月に入っても就職活動を続けていた。


「えり好みせずに妥協したら? あんたなら上場企業の一つや二つすぐに内定がもらえるわよ」


「でも、報道記者になるのが夢なんだ。もう少しがんばってみるよ。華恋さん、心配してくれてありがとう」


「か、勘違いしないでよね! 別に心配なんかしてないから。サークル仲間がプー太郎になるのが恥ずかしいだけ。私に恥をかかせないでよね」


 年が変わる前、華恋が何度か助言をしたものの、康介は、自分の夢を叶えたいという理由でそれらを柔らかく受け流した。しかし、年が明けて、新型コロナウイルスの影響から企業がこぞって新規採用を手控えたことで、状況はさらに悪いものへと変わった。


「今日の夜、ご飯でも食べない? 会って話したいことがあるんだ」


 オフィスに程近い公園で華恋がランチを食べていると、突然、康介からメールが送られてきた。


「今日の今日だなんて常識ってものがないわけ? スケジュールが空いてるわけないでしょ。ただ、どうしてもって言うなら調整してあげないこともないわ。とりあえず時間と場所を言いなさい」


 もったい付けたようなメールを返す華恋だったが、内心は穏やかではなかった。胸の鼓動が早鐘を打ち、口から心臓が飛び出しそうだった。

 OKメールを送信するや否や、華恋は、ランチそっちのけで、元町にある、行きつけのブティックへ向かって駆け出した。その夜、着て行く服を揃えるために。


 華恋のオフィスは、地下鉄みなとみらい線の日本大通り駅から徒歩五分のところにあり、今回の待ち合わせ場所には、ドア・トゥ・ドアで二十分もあれば行くことができる。それがわかっていながら、二十分も前に到着してしまったのは、居ても立ってもいられなかったから。

 ちなみに、時間調整のため海上連絡船シーバスを使ったが、もし地下鉄で行っていたら、さらに到着時間が早まったのは言うまでもない。


 最後に康介と会ったのは、三月下旬。サークル仲間十人ほどが集まって、大学の卒業を祝う食事会を開いたとき。四月以降は、それぞれ新しい環境に身を置いたことで、会うことはもちろん電話やメールをする機会もなくなった。実際、康介とは単なるサークル仲間であって特別な関係ではない。定期的に会ったり話をしたりする機会がないのは当然のこと。

 そんな中、康介から食事に誘われた。大学四年間を振り返ってもこんなことは一度もなかった。華恋にとっては、まさに青天の霹靂へきれき。うれしくないはずなどなかった。

 ただ、そんな気持ちを表に出さないのはいつものこと。特に、康介に対しては、気持ちとは裏腹なとげとげしい態度を取ってしまう。


★★★


「華恋さん、これから観覧車に乗らない?」


「はぁ? あんた、気は確か? この行列に並べって言うの? お上りさんじゃないのよ」


 康介の誘いに、華恋の口から不満そうな言葉が発せられる。


「ゴンドラの中で華恋さんに聞いてもらいたい話がある。ここを待ち合わせ場所にしたのもそのためなんだ」


「ご飯を食べながらじゃダメなの? お腹ペコペコなんだけど」


「ごめん。後で華恋さんの好きなもの何でもご馳走するから、十五分だけ付き合って。じゃあ、切符買ってくるね」


「ちょ、ちょっと! 勝手に決めるんじゃないわよ!」


 膨れっ面の華恋を半ば強引にやり過ごすと、康介は観覧車の切符売り場へ走っていった。

 康介の姿が見えなくなるのを確認して、華恋は大きく深呼吸をする。息が苦しくて堪らなかったから。

 康介からの突然の誘い。夜の横浜。二人だけの観覧車。聞いてもらいたい話――何かを期待するなと言う方が無理な話だった。


 華恋は、康介に対して友達以上の感情を抱いていた。一方、康介は、いつも華恋のわがままを優しく受け止め、どんなに暴言を吐かれても笑顔で答えてくれた――が、そんな優しい態度を見せるのは、華恋に限ったことではなかった。

 優しい物言いと柔和な表情から、康介にはどこか女性的な雰囲気が漂っている。ただ、スポーツは何でもそつなくこなす、パワフルで男らしい一面も持ち合わせている。何でも九州の私立高校に通っていたとき、テニスでインターハイに出場してベスト十六まで進んだらしい。

 さわやかな好青年を絵に描いたような康介がモテないわけがなく、サークルの中では、先輩・後輩、男性・女性を問わず人気があった。にもかかわらず、本人の言葉を借りれば「彼女いない歴=年齢の残念系男子」であって、誰かと付き合っているといった、浮いた話も聞こえてこなかった。


★★★★


「華恋さん、お待たせ!」


 不意に隣りから康介の声が聞こえた。

 身体をビクッとさせた華恋は、キッと表情を引き締める。

 全力で走って来たのか、康介は息を荒らげながら話をする。


「列は二、三十メートルだから三分ぐらいで乗れそうだよ。大丈夫、華恋さんのお腹が鳴っても聞こえない振りをするから」


「そ、そんな恥ずかしいことするわけないでしょ! このお馬鹿!」


「ごめん、ごめん。冗談だよ。華恋さんが人前でお腹を鳴らすなんてあり得ないよね」


 声を大にして必死に否定する華恋に、康介はさわやかな笑顔を浮かべる。

 華恋は、視線を列の前方へ向けると、康介に悟られないように息を吸ったり吐いたりを繰り返して気持ちを落ち着かせた。


「足元にお気をつけください。乗車中は席を立たないようお願いします」


 係員に促されてゴンドラに乗車した二人は、向かい合わせに座る。

 横浜育ちで通っていた大学も山手にある華恋にとって、コスモワールドの観覧車は日常の一部。珍しくも何ともない。ただ、乗車するのは小学校の遠足以来で、夜に乗るのも、男性と二人きりで乗るのも、初めての経験だった。



 つづく

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