風花の舞う空に

楠瀬スミレ

雪を溶く熱

 秋人あきひと。私を世界で一番理解し、私のすべてを知っている人。そして、誰よりも幸せになってほしい人。



 私が幼い頃、私の家は時計屋を営んでいた。昭和三十年代から四十年代にかけて、店はとても繁盛していた。うちの隣は、当時流行っていたダンスホール、そしてその隣には小さな映画館があり、その裏にはストリップ劇場があった。そのころの映画館の前には、写真ではなく大きな手描きの絵の看板がかかっていて、映画が変わるたびに、新しくなっていた。家の前の道路にはチンチン電車が走っていて、この電車通りを挟んだ向こう側の区画には、私が生まれる前は、遊郭があったらしい。その名残か、夜の方がにぎやかな街だった。


 隣のダンスホールのひとり息子の秋人あきひとは、私より一か月遅く生まれた同級生。母親同士が仲良しだったので、お腹の中にいる時からそばにいたことになる。家の前を通るチンチン電車が、木造の家を揺らしながらガタガタ走っていくのも、私達にはゆりかごの中で聞く子守唄のようなものだった。


 秋人のお父さんとお母さんはソシアルダンスの先生で、ダンスホールの経営もしていたので、夕方から夜遅くまで仕事をしていた。だから秋人は、小さい頃はいつもうちに来て一緒に晩御飯を食べていた。野球シーズンになると、父が一つしかないテレビを独占してしまうので、よく二人で秋人の家へ行って好きな番組を見たものだ。



 夜のダンスホールには、きれいな洋服を着た人たちが入っていく。コツコツといい音を立てて歩く女の人のハイヒールは、私のあこがれだった。


 ホールの二階が居住スペースで、夜、そこには誰もいない。下のダンスホールからボンボン突き上げるようにレコードの音が聞こえてきた。

「これはジャイブ」

「これはルンバ」

 そう教えてくれる秋人は少しだけかっこよく見えた。

 茶の間に置かれたテレビは白黒で、恐怖映画は余計に怖かった。部屋を真っ暗にして二人で一枚のシーツをかぶり、キャーキャー言いながら見たことは忘れられない思い出だ。


 小学校低学年の頃は、なんの疑いもなく一緒に学校に行った。私の方が体が大きかったので、私がお姉さんみたいな感じだった。しかし、3年生くらいから遊びも友達も違ってきて、別々に遊ぶようになった。それでも、晩御飯は一緒に食べていたし、普通の姉弟がそれぞれの生活をしているような感じで、テレビもよく見に行った。しかし、高学年になってくると、男子と女子の間にはいろいろ不都合が生じてしまうものだ。


 6年生のある日、私はコンパスを忘れて、隣のクラスの秋人に借りに行った。


「あっく~ん!」

「あ、みいちゃん」


 秋人は人懐こい笑顔で私を見つけてくれた。


「コンパス貸して」

「いいよ」


 その時だ。


「あっく~ん、みいちゃ~ん、うっふ~ん」


 そばにいた男子が私たちをからかった。それをきっかけにみんなが私たちをはやしたてた。


「お熱いねえ~!」


 あっという間に黒板に大きな相合傘が現れた。そこには「秋人」と、私の名前「美冬みふゆ」が並べて書かれ、傘の上には大きなピンクのハートがあった。


「アベックなら手をつなげよ~!」


 彼らは私達を無理やりくっつけようとした。秋人は背の順に並ぶと前から3番目。私は後ろから2番目。身長差がありすぎて、アベックと言われるのがとても恥ずかしかった。その時だ。


「俺たち、アベックじゃない! 美冬のことなんか、別に好きじゃない!」


 秋人がそう叫んで走って行ってしまった。


 その日から私たちは何となく気まずくなって話ができなくなってしまった。秋人が夕食を食べに来ていたのは、3年生までだったし、私が私立の中学校に通うようになってからは、公立に通う秋人とは生活時間が完全にずれて、隣に住んでいるのに、全く会わなくなってしまった。




 そのまま時は過ぎ、私たちが中一の、ある寒い冬の日のことだった。私は部活を終えて、チンチン電車に乗って帰路についていた。日が短いし、曇っていたので、午後7時前とはいえ、外は暗くなっていた。


「あ、雪だ!」


 私の地元で雪が降るのは珍しい。ちらちらと降る雪を見て、ワクワクしてきた。


「電車を降りるまでやまないで」

(電車を降りたら、手で雪を捕まえて、それから空に向かって口を開けて食べよう)


 私は小学生のようにはしゃいでいた。


 電停に着いたとき、まだ雪はやんでいなかった。電車のステップを両足でぴょんと飛び降りた時だ。視線を上げると、歩道に、秋人が立っていた。私はその時初めて秋人が中学の制服を着ているのを見た。黒地に金ボタンの学ラン。少しは大人びて見えるけれど、相変わらず背が低いと思った。


「おう」


 ほとんど表情を変えずに、秋人の方から声をかけてくれた。会っていない間に秋人も声変わりが始まったようだ。


「あっくん! 久しぶり! 元気にやってる?」

「まあな。ちょっと時間いい?」


 変わりはじめた声がくすぐったい。


「うん。少しならいいよ」


 秋人は、いつも一緒に遊んでいた公園に私を連れて行った。


「ここ、よく遊んだよな」

「うん! ねえ、見て見て!」


 私は空を仰いでいた。真っ暗な空から白い雪がちらちらと視界いっぱいに落ちてくる。


「雪って、顔に近づくほど大きくなるんだね!」

「そういうところ、相変わらずだなあ。それは遠近感の問題だろ。遠いほど小さく見えるもんだ」


 秋人は笑っていた。

 私は空に向かってあ~んと大きな口を開けた。


「ば~か。『公害』が混じってるから食わねえほうがいいぞ!」

「あっくんは昔から頭がよくて、何でも知ってたよね」


 上を向いたまま目をつむった私の顔の上に、雪がふわりと乗って、すうっと溶けていった。


「ガキの頃、楽しかったな。日曜日におにぎり持って隣の映画館に入り浸ったり」

「うん。映画館のおじさんがくれたタダ券で3本立てを2周見たかな?」

「正確には、映画を見てる時間より、館内をうろうろして遊んでる時間のほうが多かったけどな」

「『大魔神』見たよね」

「見た見た。それから、昭雄あきお兄ちゃんのストリップ劇場にも行った!」

「遊びに行ったね~! 1年生くらいだったかな? 昼間は空っぽで、2階席を3人で走り回った。あの時はあそこが何をするところかよくわかんなくて」

「大人が『えいが』と『じつえん』て言ってただろ? 『じつえん』の意味知ったの、最近だよ」


 ふたりで大笑いした。


「あのね、みいちゃん、今から話すことは誰にも言わないでほしいんだけど」

「なあに? 急にどうしたの? 私、口堅いよ」

「うん、知ってる。みいちゃんは昔から口が堅いし、絶対嘘は言わないから言うんだ」

「何かあったの?」


 秋人のこんなに思いつめた顔は初めて見た。


「おじさんやおばさんにも絶対言わないって約束する?」

「言わない」

「じゃあ指切り」

 指切りげんまん……。


「実は俺、明日、母さんと家を出る」

「家出?」

「違う。父さんがパチンコに出かけている間に、見つからないように逃げるんだ」

「どういうこと?」


 最近秋人の父が、毎日パチンコに行っているらしいと父が言っていた。ダンスは最近人気がなくなって大変だから、気晴らしをしているのではないかと心配していた。


「もう、我慢の限界なんだ。父さんの暴力……」


 そこから秋人はしばらく声が出せなかった。私は秋人の背中を黙ってさすった。


「父さんは夜飲んで帰ると暴れるんだ。父さんはうまくいかないことを全部母さんのせいにする。飲んでないときは猫みたいに大人しいのに、飲むと別人に変わるんだ」


 知らなかった。隣に住んでいるのに、姉弟のように育ったのに。秋人が、こんなに苦しんでいたことを私は知らなかった。


「あっくん、なぐられてるの?」

「俺はない。……母さんが……髪の毛をつかまれて壁に頭を叩きつけられたり……っ……」


 秋人の目から涙がぼろぼろこぼれた。負けず嫌いの秋人がこんなに泣くのを私は初めて見た。言葉が見つからなかった。


「だから……だから俺が逃げようって言った。どんなに貧乏でも、今よりはましだって」


 私は秋人の背中を一生懸命さすった。


「言わない。絶対言わないよ。……でも……もうあっくんと会えなくなるの?」

「うん。父さんに見つからないように遠いところに行くから、連絡先は言えない」

「電話もできないの? せっかくあっくんと話せたのに」


 秋人が顔を上げた。


「今日はどうしても話がしたかったんだ。会えなくなる前に、どうしても言いたいことがあるから」

「そのために雪の中で私を待っていたの?」

「うん……」


 胸が熱くなった。


「あのね、みいちゃん、謝るよ。ごめんね。本当にごめん」

「え? 何? どうしたの?」

「6年の時、俺、みいちゃんのこと、別に好きじゃないって言っただろ? ずうっと後悔していた。なんであんなこと言っちゃったんだろうって。本当はみいちゃんのこと、大好きなのに。だからどうしても会えなくなる前に謝りたかったんだ」


 ずっと私の胸に突き刺さっていた氷のトゲが溶けて、ふわりと温かい何かに変わりはじめた。


「寒いな。早く帰らないと心配するね。そろそろ帰ろう」


 秋人はさっさと背を向けて帰ろうとした。照れている時はいつもこんな感じだ。


「ねえ、またいつか会えるよね!」

「うん。大人になって強くなったら会いに来るよ」

「でも、もし、私が引っ越してたら?」


 私の家は借家だった。


「わかった。じゃあ、俺の二十歳の誕生日、今くらいの時間にあのブランコに座ってるよ」

「本当に? 遠くに住んでいても来てくれるの?」


 時計を見ると、7時前だった。


「うん。絶対来る。7時にしよう。大人の時間だな。忘れるなよ」


 私達は久しぶりに二人並んで家まで歩いた。身長差は少しは縮まって、前ほど恥ずかしくはなかった。


「明日は学校に行くふりをして父さんにフェイントかけるんだ」


 そう言って笑って見せる秋人は絶対強がっていた。


「じゃあね。みいちゃん」


 そう言った後、秋人は私の耳元でささやいた。明日はちゃんと学校へ行け、絶対見送るなと。




 翌日、雪はやみ、空が青くて寒い朝だった。秋人の旅立ちの日が晴れていてよかったと心から思った。道路の端に珍しく氷が張っていたので、つるつるした感触を靴底で確かめようとしたら、パリパリンと割れてしまった。


 私はどうしても、もう一度秋人の姿を見たかったが私の学校は反対方向だし、秋人は私が嘘をつかないことを知っていると言ってくれた。だから、見送ってはいけない、約束したのだからと、自分に言い聞かせた。しかし、どうしても、もう一度秋人を見たくて、学校に行くふりをして家を出て、いつもと違う道を歩いた。遅刻なんかしたことなかったけど、構わないと思った。


 私は秋人の通学路にある駐車場で待ち伏せした。そこは生垣があるので身を隠しやすかった。秋人が、広い道路を挟んだ反対側にある歩道を通ることはわかっていた。しばらく待っていると、思った通り、向こうの歩道を秋人が歩いて来るのが見えた。


「あっくん……」


 私は生垣の間から秋人の姿を追った。学ランに帽子、黒い皮の学生カバンを肩のところで持っていた。中学生の秋人は「男の子」ではなく「男」だった。


 私に許された時間はわずかだった。秋人はあっという間に通り過ぎ、すぐに顔が見えなくなり、後姿になった。


(広い背中。あんなに肩幅広かったっけ……待って! 行かないで!)


 姿が見えなくなった。


 

 見えなくなった瞬間、涙がぼろぼろこぼれ始めた。


(あっくんがいなくなった。今見たのが最後なんだ……)


 目からこぼれ落ちるしずくが大きすぎて、手でこすったくらいでは視界をクリアにしてくれなかった。


(隣の家にあっくんのぬくもりを感じていたから、話さなくても平気だったんだ……。でも、あの家からあっくんがいなくなったら、私は……)


 自分の半分をなくしたような気分だった。


 その時、ふわりと風花が舞い始めた。青い空に日の光を受けてキラキラと風に舞う小さな雪。ふたりの思い出が次々に浮かんでは消えていった。


(あっくん、あっくん、私、あっくんが大好きだよ。きっと幸せになってね!)



 *



 7年後。秋人の家だったダンスホールの建物は既に取り壊され、更地になっていた。うちの店も、この場所では商売が難しくなったので、店は商業施設の一角に開き、自宅は郊外の団地に引っ越していた。


 2月も終わりに近い、秋人の二十歳の誕生日。彼は覚えているか不安だったし、覚えていたとしても、平日に来られるか心配だったが、秋人ならきっと来てくれると信じていた。私の性格を誰よりもわかっている秋人だから。私は約束を破らないし、誰よりも淋しがり屋だと知っているから。


 私は地元の大学に通っていた。その日は講義の後、街の喫茶店で時間をつぶした。バスで行くこともできたが、私はチンチン電車を選んだ。懐かしい電停で電車を降りると、日が暮れて、寒くて暗くなっていたが、風は春の香りを含んでいた。私は大きく深呼吸をして公園に向かった。ハイヒールの音がコツコツと響く。私は何度も前髪にさわり、何度もコホンと喉を整えた。


 公園の前で時計を見ると、6時40分。電車の都合で早く着いてしまった。公園の外は民家やビルの灯りがついていたが、公園の中は、街灯が地面を照らしているところだけが明るかった。約束のブランコを見ると、二つしかないのに、背の高い見知らぬ男が片方に座っていた。


「……どうしよう」


 夜の公園、女一人で入って行くには危険すぎる……そう思った時に、男の低い声が私を呼んだ。


「みいちゃん! みいちゃんなの?」


 背の高いその男性がこっちへ近づいてきた。


「あっくん?」


 見上げるくらい背が高くて、肩幅が広くてがっしりしていた。しかし、よく見ると、面長になったとはいえ、秋人の面影が残っていた。

 

「みいちゃん、きれいになったなあ」

「あっくん、別人……」


 弟みたいにいつも一緒にいたチビのあっくん。私の顔は熱くなってきた。もう、弟ではなく、一人前の大人の男だった。


「俺、なんでこんな時間を指定したのかって後悔したよ。ガキだったな。こんな暗い公園に女の子を独りで待たせようなんて、ありえない」


 聞き慣れない低い声は、優しくて、胸のあたりに甘い痛みを感じた。


「それで、こんなに早く来てたの?」

「うん。みいちゃんが、いつ来ても大丈夫なように、明るいうちに来た」


 やっぱり、あっくんだと思った。こういう優しいところが大好きだ。


「あっくん、遠くから来てくれたの? ごめんね。ありがとう。あ、お誕生日おめでとう! これ、プレゼント」

「ありがとう!」

「ご飯食べに行こうか」

「うん。酒飲みたい。二十歳になったからな」


 それから私たちは居酒屋に入った。私たちは子供の頃のようにケラケラ笑いながらいろんな話をし、電話番号を交換した。



 *



「昔は固定電話だったから、電話する時、お父さんが出るんじゃないかってドキドキしたもんだよ。今は携帯だからいいな」


 あの頃の話をすると、秋人は必ずそう言う。私たちは家族みたいなものなのに、お付き合いをすると、私の父親でもそういう風に感じてしまうものなのだろうか。

 今の私と秋人は、SNSをよく使う。


『今から会社を出る』

『了解! お風呂が先でいいよね』


 今日はサラリーマンになった秋人が、最後の仕事を終えて帰ってくる日だ。



「ただいま」

「お帰りなさい。今までお疲れさまでした。私たち家族のために、長い間本当にありがとう。お風呂沸いてるよ」

「今日のおかずはなんだい?」

「今日は父さんの好きなとんかつとお刺身よ」

「さすが母さん、よくわかってるね」


 あの再会の日から私たちは、お互いを『秋人』『美冬』と呼ぶようになった。そして今は『父さん』『母さん』と呼び合っている。


「何年の付き合いだと思ってるの。お腹の中にいる時から60年以上よ」

「長い間支えてくれて本当にありがとう。今から二人で、もっともっと楽しもうな」



 終わり

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風花の舞う空に 楠瀬スミレ @sumire_130

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