マキゾエホリック 密室という名の記号
東亮太
1.発砲
九月の蒸し暑い放課後だった。
白く濁った空の下、校舎の外では、今朝からずっと無風の大気が重く立ち込めている。すでに雨に備えて窓は閉じてあるものの、おかげで部屋の中にいるだけで、全身に細かな汗が浮いてくるのが分かる。
「……蒸すなぁ」
べたつく額を右手の甲で拭いながら、私は
そもそも空気の流れがない。空調が壊れているから、という理由もあるが、それ以前にこの狭い空間が問題なのだ。
溜め息をつきつつ周囲を見た。本。本。本。本。本。本――。
本しかない。
いや、正確に言えば、本棚ばかりだ。本がみっしり、ぎっしり、どっしりと目一杯に詰まった、天井ほどの高さの本棚の群れが、この空間のすべてである。
……まあ当然だ。ここは学園の図書室なのだから。
その図書室の中の一角、本棚の列で構築された狭い通路――。そこが、今私がいる場所だった。
おかげで周囲を抜ける風など微塵もない。むしろそれをいいことにふわふわ漂う
――空気が悪い。
何だか図書室中が淀んでいるように思い、私はもう一度、額の汗を拭った。
天気もそうだが、蛍光灯がところどころ切れかけているせいか、部屋全体がどことなく薄暗い。それに何度も繰り返すが、視界には本棚しかない。
入り口のドアも、受付も、その近くにある読書用の広々としたテーブルスペースも、ここからではまったく見えない。せいぜい窓越しのどんよりとした景色が、通路の彼方に垣間見えるばかりである。
おまけに言葉を交わす相手すらいない。作業の場としては、実に最悪だ。
――まったく、なぜ私達が当番の日に、よりによって蔵書の整理などやるんだ。
己の図書委員という立場は敢えて無視し、私は心の中で不満を漏らした。
しかし真面目な話、こういう作業は司書が中心になってやるべき仕事ではないか。なのに当の司書である
おかげで私と凛の二人きりである。この気まずさが、さらに私の息を詰まらせるわけだ。
……そう、気まずい。同じクラスの女子同士とはいえ、私はあの子がたいそう苦手なのだ。
あるいは――同じクラス、というのがむしろ問題なのかもしれない。
私、
この秋から転校してきた。だから、最初からそこにいたわけではない。しかし私が入ったこの一年乙組というクラス。何と言うか、私のようなごく普通の女子高生がいるには、あまりにも不釣合いな場所だった。
一年乙組を一言で表すなら、「非常識」だ。
いったいどういう経緯でそうなったかは分からない。ただ一つ確かな事実として、このクラスには全国の特異な少年少女が、一手に集まっている。
いや、特異と言っても、勉強ができるとかスポーツ万能だとか、そういうありふれた話ではない。それは単なる優等生であって、どんなに一クラスに集めたところで、非常識呼ばわりされることなどないはずだ。
しかし現実は、あまりにイカレていた。現実とは思えないほどに。
例えば――今この図書室のどこかで本を整理しているであろう、同じ図書委員の瑪瑙凛。
彼女は私と同じ女子高生の身でありながら、多額の報酬と引き換えに人の命を奪うという、相当特異で非常識な職に就いている。
当然このことは、周りには秘密にされている。あいにく私は知ってしまったが。
いや、べつに知りたくて知ったわけではない。以前たまたま、彼女が図書室の受付で何かやっていたところを私が覗き込んだら、思いっきり拳銃の手入れの真っ最中だったという、ただそれだけの話だ。
しかしそんな極めて下らない理由で、私が凜に命を握られてしまったのも、また事実だった。無口で地味な文学少女が密かに背負う、闇に満ちた裏の顔――。それを誰にも明かさずに黙っていることが、私がとりあえず生きていられる条件だ。
……こうなったら、できるだけ彼女と絆を深めて、いざという時私に発砲できないよう仕向けてやる――という作戦もありかもしれない。そこまで仲良くなれたら私の勝ちだ。まあ今のところ、特に共通の話題は見つかっていないが。
ともあれそんな凜の他にも、一年乙組には非常識な生徒がわんさかいる。真面目な話、彼女の非常識ぶりなど、まだまともな方だ。
――異世界に出かけては剣を振るう勇者。変身して悪と戦う魔法少女。退魔活動に明け暮れる巫女。爽やかイケメン
いや、あんたら同じクラス……というか同じ世界観の中にいちゃいかんだろう、と思うのだ。しかし全員が日本の現役高校生である以上、それがたまたま同じ学校の同じクラスになってしまうことだってある。事実、そうなっている。
……いや、本当にたまたまかどうかは分からない。実はこの学園に何か大きな力が働いているのかもしれない。でもまあ、私にとってそういう裏の事情は、割とどうでもいい。
とにかくこれが、私立御伽学園の一年乙組だ。ごく普通の女子高生である私が入ってしまった、とても非常識なクラスだ。
正直、私の場違いぶりと来たらない。自分はこんなクラスと関わってはいけないのだ、と転校してきた当初はそう思った。それはもう、くよくよと真剣に。
その心境に少しだけ変化があったのは、あの時私が巻き込まれた大事件の――いや、この辺の話は長くなるからよそう。要は、どうあれ私は今も一年乙組の一員だ、ということだ。
……話を元に戻す。そう、瑪瑙凜である。
私はあの子が苦手だ。ごく普通の女子高生が、殺しのプロとフレンドリーな関係になるのは、相当ハードルが高い。
だからまあ、こんな作業の合間に楽しくお喋りすることもない。そもそも私の位置からでは、凛の姿すら見えない。たぶんどこか別の本棚列にいるのだろう。
「あーあ、ヒナちゃんか
そんな独り言が、私の口から漏れた。
あとは――そう言えばもう一人、ここにいたか。
ふと思い出した。この図書室には私と凛以外にもう一人、乙組の女子が来ている。確か、読書用のテーブルスペースで爆睡しているはずだ。
名は、
ちなみにトランシルバニアからの帰国子女らしい。要するに、彼女が夏服の上から黒マントを羽織っているのも、睡眠の昼夜が完全に逆転しているのも、すべてこのトランシルバニアが理由に違いない。恐るべしだ、トランシルバニア。
でまあ、そんな妙に犬歯が伸び気味の危険な少女を、わざわざ起こして話し相手になってもらうつもりは、当然私にはなかった。
おかげで――静かだ。
広い図書室の中、飛び交う言葉はどこにもなく、物音すら響かない。司書がふざけてドアに付けたヨーロッパ土産の鐘も、鳴る気配はない。
在るのはただ、黙々と作業を進める二人と、眠りこけるおまけの一人のみ。しかもそれぞれが離れた位置にいるから、互いの姿すら見えない。
滅入りそうである。
私は大きく息を吐き、半袖のシャツから伸びた腕を何度か強く振って、血を通わせた。
この週が終わればようやく冬服に衣替えだというのに、世間は少しも冷える気配がない。このまま、あの緑色のブレザーなど着込んだ日には、さぞかし蒸れることだろう。
自分の鬱陶しい想像でさらに気を滅入らせながら、ふと上を見れば、最上段の本がだいぶ出鱈目に並んでいる。私はそれを直そうと、爪先立ちになって右手を上に伸ばした。
そして――それが合図にでもなったかのように、事件は起きた。
パン、という乾いた破裂音が、図書室に響いた。
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